夏の日差しのもと、外に出ると、タクヤは思いだしていた。
海の素晴らしさ。
ひんやりして、でも、すぐなれて、自由に泳ぐ。
地上の引力から解放された気持ちになる。
目の前の防波堤に、白い漆喰の階段を見つけると、一気に駈けあがった。
いきなり視界が開けた。
海。
この広さだけは裏切らない。
それに比べて、自分のなんという小ささ。
そして、風が心地よい。
雄大な眺めから、近くに視点を落とす。
防波堤の下は、岩場の続く海岸になっていた。
隅に岩が出たり、海が岩の間に引っ込んだり。
そんな入り江の一つに、小ぶりな桟橋があり、かがんでいる一人の女性の姿が見えた。
タクヤは、不思議な緊張を感じつつ、階段を駆け下りた。
近づくと、女性が気がついて立ち上がった。
彼女は、ツバの広い帽子をかぶり、桜色のブラウスに、紺色のスカート姿。
一瞬で、その魅力に引きこまれた。
運命の出会い。
出会いたかった理想の女性。
女性は、来訪者が誰かを悟ると、腰を下げて、ていねいに公式のあいさつをした。
「タクヤ様、ご機嫌うるわしゅう」
「あ、はい、ご機嫌、う、うるわしゅう」
「タクヤ様が、ご自分でこんなところまでとは、今日はどうされましたか?」
「あ、いや、なんだっけ……」
君に会いに来たんだ、とタクヤは黒髪の奥の青い瞳に吸い付けられそうになってつぶやきかけたが、あわててべつの理由を探した。
「ぼぼほ僕たちって、ほら、この夏で恋愛解禁だから」
「はあ?」
「あ、いやいや、それ、別の話。ここでは関係ないやつ。忘れて。ていうか、僕の方こそ記憶があいまいで迷惑かけまくるかもだけど、つまり、ほら、海って、美しいね」
「ですね。夏だから日焼けに気をつけなさいって、診療所のみなさんは注意してくださいますが、私はやっぱり、この海が大好きです」
大洋を見渡す横顔。
風になびく黒髪。
とても健康的で、品がいい。
しかも、女性的で、しなやか。
「タクヤ様?」
「は、はい……」
あわてて現実に戻るタクヤ。
女性は笑みを浮かべた。
「私に、何か、御用でしたか?」
「いや、その、御用なんてたいしたことではないんですが、なんていうか、ほら、あれが、あれなもので」
「あれが、あれ?」
「つまり、ぼぼぼ僕に、祈りの治療をしてくださいっ」
真っ赤になって用を告げたタクヤ。
しかし彼女は、まっすぐにうなずいた。
「なるほど、今は祈り師は私しかいませんものね。新人のふつつか者ですが、精一杯、お役に立つようがんばらせていただきます」
「あの……」
「ん?」
「君は、僕のことを、知っているようですが」
「あたりまえですわ」
「ごめん。めちゃくちゃわるいんだけど、僕は、君のこと、少ししか思い出せない。いろいろ記憶がないんです。母のこととかもまったく思い出せないし」
「長いお眠りでしたものね、いつお目覚めに?」
「今朝」
「なるほど、それではしかたがありません。改めて、名乗らせていただいてもよろしいでしょうか?」
「お願いします」
「ユリ。新米祈り師、ユリと申します」
タクヤはあらためて思いだした。祈り師試験に合格した新人ニュース、その写真に写っていためちゃくちゃかわいい幼なじみ。確かにその本人だ。
「タクヤ様、どうされました?」
「いや、まって、今の君の姿、脳裏に永久焼き付け中」
「……え?」
「だって、大切なものは、忘れないようにしないと。いろいろ忘れがちだからさ。僕の人生」
「は、はあ……」
「で、君は、僕のこと、おぼえてるんだよね」
「はい」
「えっと……まさか……うんこが漏れて、匂いで気がついた君に、絶対誰にも言わないで、と土下座して頼んだことも、忘れてない?」
「まあ、子供ですから」
「あのとき、めちゃくちゃ、いやそうにしてなかった? してたよね? 私をまきこまないで、って」
「そうだったでしょうか。でも、憶えていますよ。あの日のこと。いっしょにパンツ洗いましたよね」
「ななななんと!」
「いっしょに遊べて楽しかったです」
明るく微笑む彼女の前で、彼は両手で頭を抱えた。
確かに、この人にうんこまみれのパンツを洗わせた。
ちょっと汚れたとかではないやつを、しかも素手で。
幼少の記憶があるって、マジでおそろしいことだ……
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