テラーノベル
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黒い裂け目から這い出てきたそいつは一歩ごとに大地を鳴らした。
足裏が土を踏むたびに荒野に積もった砂と血が微かに跳ね、ひび割れた地面の奥で岩が軋む音がする。
角が二本、後ろへ流れるようにしなやかに伸びている。
背には黒曜石を思わせる硬質な翼が二対、生えていた。
深淵をそのまますくい取って垂らしたような長い黒髪に白黒反転した目。整いすぎた顔立ちは血煙に濁った景色の中で妙に浮いて見える。
肌は煤けたような灰色で血に染まった荒野の上に立っているだけなのに、そいつを中心に世界が切り取られたみたいだった。
それほどまでに纏っている魔力が濃い。
闇の魔力だけじゃない。私の知らない、名も分からない力が混ざり合って渦を巻き、この世界そのもののルールを握りつぶしているような圧が肌に食い込んでくる。
そいつは足元に転がる悪魔族たちの死体をひとつひとつ、なぞるように見下ろした。
槍使い、紅い剣士、呪術師、影使い、黒翼の弓兵。さっきまで私に牙を剥いていた連中が、今はただの肉片として散らばっている。
その光景を眺めても、そいつの表情は一切揺れなかった。感情の影が、どこにも落ちない。
そして、ゆっくりと私の方に視線を向ける。
目が合った瞬間、背骨の内側を氷水でなぞられたような感覚が走った。視線だけで内臓を掴まれているみたいだ。
息を吸うたび、その指先がぎゅっと締め付けてくる。
「……なるほど」
低い、けれど凛としてよく通る声だった。
荒野に響いたその声は空気そのものを震わせ、鼓膜だけでなく胸郭の内側までじわりと波紋を広げる。
「妾をこれ程までに早く呼び出すとは、実に愉快だ。今までに無い偉業だぞ、人の子」
口元だけで笑いながら、そいつは言った。
言葉の内容は正しくこちらを褒めているのに、そこに混ざっているのは純粋な好奇心と、退屈を潰すための期待だけだ。
「総力戦が始まって、十四日と少し。たった一人でここまで片付ける者が出るとは、さしもの神々も予想していなかっただろうな」
「そっちがばらまいたモンスターの数が多すぎるだけだよ。ひとつにまとめてくれるなら、もうちょっと早く終わったと思うけど」
自分でも驚くほど、声は普通に出た。
胸も肩も脇腹も至るところが軋んでいるのに、舌だけはいつも以上に回る。
全身にまとわりついている痛みを言葉で誤魔化しているような感覚があった。
そいつは軽く顎を傾けた。
観察対象を評価するような目で私を眺め、ふう、と大きく一つ息を吐く。
「魔族の魔力の流れ、人族の骨格、竜の気配、器の匂い。それに神の権能に近しい力……か。よくもまあ、矮小なる人の体にそこまで詰め込んだものだな。悪趣味にもほどがあるぞ」
「それはこっちの台詞なんだけど。モンスターが一千四百万体とか、頭おかしいでしょ」
「頭がおかしいのは、お前の方だ。これは元々、数千人、数万人単位で挑ませ、数ヶ月かけて削り合うための階層だ。戦いから一年が経過すればプレイヤー陣営に神々の援軍が届いて、その援軍と妾が戦いを繰り広げて苦戦しながらも援軍が勝利を収める――そういうシナリオだ」
……シナリオ、か。
その言葉を聞いた瞬間、この場所の別名が頭の中に浮かび上がる。
――【神々の遊技場】。
ただの箱庭みたいな世界なのだと勝手に解釈していたが、別の意図がはっきりする。
「苦戦するプレイヤー陣営を救済し、神々が信仰心を高めるために作られた物語……のはずだった。そこをたった一人でぶち壊し全てを十四日で掃除しておいて、よく言う」
肩を竦めると背中の翼が小さく揺れた。
その何気ない仕草ひとつにさえ、圧が乗る。空気が粘度を増して、肺に入る空気の量が目に見えて減っていく。
「名を名乗れ、人の子。ここまでの戦いぶりに敬意を表してやろう。妾は【塵骸の女王】ルトリエ。この総力戦における総指揮官であり最後の一体だ」
「アキラだよ。好きに呼んでくれて構わない」
「よかろう、アキラ。最後の敵としては、十分に楽しませてくれそうだ」
「こっちは早く終わらせて帰りたいだけなんだけどね」
背中の風竜の剣を握り直す。
手のひらは自分の血と汗でじっとりと湿って滑りやすくなっていたが、それでも柄は馴染みきった形を変えず、きちんとそこにいてくれる。
ルトリエは一歩だけ前に出た。
ただ一歩。けれど、その一歩でこの場の支配権が完全に向こうへ傾いたように空気が変わる。
「アキラ。今なら一つだけ選ばせてやる」
「なにを?」
「跪いて剣を捨て苦しみのない死を望むか。それとも、抗い続けて苦しみの中で死ぬかだ。どちらにせよ、お前の魂はここで終わる」
「その選択肢、二つあるように見えて一つも無いよね」
肩で息をしながら、わざと笑ってみせる。
笑った瞬間、脇腹の傷がずきりと主張してきて、口角が引き攣るのが自分でも分かった。
「生憎、私は諦めが悪いんだ。それに……私が勝つかもしれないよ?」
「クハハッ! ならば――始めようか!」
ルトリエがそう言った瞬間、視界からその姿が抜け落ちた。
時間が一瞬だけ抜け落ちたように感じるほどの速さだった。
次の瞬間には右わき腹の内側から破裂するような衝撃が走る。
風竜の鎧越しに叩き込まれた蹴りが私の身体を横薙ぎにさらっていく。
音もなく骨がしなる感覚の後で肋骨が数本、嫌な音を立てて折れたと理解した。
視界が荒野を何度も転がる。血と砂が入り混じった地面がぐるぐると回り肘で地面を抉って無理やり体勢を立て直す。
転がっている最中にも背後から追撃の圧が迫っていた。
反射で剣を胸の前に持ち上げると――刹那、視界を白い軌跡が横切った。
金属が軋む甲高い音。
剣と剣が噛み合って火花が飛び散る。衝撃が腕から肩、背骨まで一気に突き抜けた。
いつ抜いたのかルトリエの手には黒い長剣が握られていた。
刀身は細く、だが触れた瞬間に分かる異様な重さがある。ぶつかった瞬間、腕の骨が一瞬だけひび割れたかと錯覚するほどの圧だった。
「悪くはない。まだ折れてくれるなよ」
軽口を叩きながら、さらに力を込めて押し込んでくる。
踏ん張った足が地面にめり込み、ひびが蜘蛛の巣状に広がった。それでも少しずつじりじりと押し負けているのが嫌でも分かる。
鎧にさらに魔力を流し込んで、まわりにまとわりつく空気抵抗を完全に殺す。
剣の軌道に沿わせるように風を纏わせて真正面から受ける力を横へ流すようにして刃を滑らせる。
互いの剣が擦れ合いながら弾かれ、肩が触れるほどの距離ですれ違った。
すれ違いざまに硬い何かが腹の奥にめり込んだ。見えない角度から拳が差し込まれている。
肺の中の空気が全部押し出されて喉の奥まで胃液が競り上がってくる。それでも吐き出す暇なんてない。
意識を無理やり引き戻しながら重心をわずかにずらして足を振り抜く。
足先が何か固いものを砕く感触を返してきた。岩を蹴り抜いた時と似た反動。
ルトリエの膝を蹴り抜くと、あれほど揺るがなかった体勢がほんのわずか傾ぐ。
その一瞬を逃さず剣を振り上げ、脇腹めがけて横薙ぎに振り抜いた。
風竜の剣がルトリエの脇腹を浅く裂いた。
闇と炎が混じったような常識外れの色合いをした血が飛び散り、空中で黒煙となって霧散する。
「……ほう」
初めてルトリエの声に楽しげな色が混じった。
「この身に傷をつけた者は久しいぞ。賞賛に値する」
「じゃあ、そのまま倒れてくれると助かるんだけど」
「それは聞けぬ頼みだ。ここまで来たなら、もっと先を見せてみろ!」
ルトリエの翼が大きく広がった。
黒曜石の羽が光を裂き、次の瞬間、その姿が視界から再び掻き消える。
――上だ。
本能が警鐘を鳴らすより早く腕が勝手に動く。
剣を頭上に掲げると斜め上から落ちてきた黒い剣を、ぎりぎりの角度で受け止めた。
凄まじい重さが全身にのしかかる。
地面が悲鳴を上げるようにひび割れて足首まで沈んだ。
腕の筋肉が悲鳴を上げ、握っている指が一本ずつ剥がされそうになる。
「これを耐えるか」
「耐えるしかないんだよ!!!」
押し上げるのではなく滑らせる。
剣先を横に弾きながら自分の体を軸にして回転する。
回転に合わせて鎧から吹き出した風が渦を巻き、刃の延長となってルトリエの顔面を薙いだ。
角の根元がぱきりと欠けて髪と一緒に欠片が舞い落ちる。
しかしそれだけだ。皮膚にはうっすらと白い線が走っただけで、すぐに闇の糸が縫い合わせるように傷をかき消してしまう。
「魔力と風の合わせ技、か。贅沢な力の使い方だ」
「褒めてくれてありがと」
言いながら内心では焦りがじわじわと広がっていた。
無理やり軽口を叩いていないと、そのまま意識が足元から崩れ落ちそうなほど体中が悲鳴を上げている。
肩の穴はふさがりきっていない。動かすたびに中から熱が滲む。
脇腹の矢傷はまだ肉の奥で疼き続けている。
さっき貫かれた闇の槍の痕のせいで背中の筋肉も何か所か裂けたままくっつききっていない。
一方でルトリエの方は脇腹の傷と角の欠け以外、目に見える損傷がほとんどない。
このまま消耗戦に持ち込めば確実に私の方が先に限界を迎える。
――長引かせたら勝ち目はない。
短時間で全ての力を出し切って致命傷を入れる。
それ以外に、私が選べる道は初めから用意されていない。
ルトリエが、ふっと片手を広げた。細い指先に黒い光が灯った瞬間、空がぎしりと軋んだ。
荒野の上に降り注いでいた陽光がねじれて色を失っていく。
世界全体を包んでいたはずの空気が、どろりと粘度を増したように重くなる。
重力が増したのかと思うほど体が地面へと引きずり込まれる。膝が勝手に折れそうになるのを意地で堪える。
同時に、周囲に散らばる死体の影が蠢いて長く伸びて立ち上がり、闇の槍や刃へと形を変えた。
「これまでお前が斬り捨ててきたものの数、覚えているか?」
「数えてる余裕なんて無かったね」
「ならば、その重みを身体で思い出せ」
闇で形作られた兵器が一斉にこちらへ殺到してきた。
空から、地面からも、横合いからも。
矢、槍、剣、鎖。これまで見てきた全ての殺意と闇が混ざりあい、波のように押し寄せる。
風を最大限に広げる。
鎧から放たれた風が分厚い障壁となり、押し寄せる刃のいくつかを弾き飛ばす――が、全部は防ぎきれない。
腕に一本、足に二本、肩に一本――鈍い衝撃と共に闇の刃が肉を裂き、骨をかすめ、貫通していく。
熱と冷たさが同時に走り、感覚が一瞬だけ途切れる。
視界の端が白く弾けた。痛覚が処理しきれず、世界から音が抜け落ちる。
それでも歩みは止めない。止まった瞬間に終わると体の奥が理解している。
前へ。
ルトリエへ。
全身を撫でていた風を、ひとつに束ねる。
散っていた気配を強引にまとめ、ただ一点――握っている剣へと集中させる。
骨が軋もうが、筋肉が裂けようが構わない。
握っている右手に、ありったけの魔力を流し込む。腕の中で血管が焼けるような熱を帯びる。
正面から突き出される闇の槍は、もう避けない。
刃を叩きつけて軌道ごと粉砕して飛び散る破片をそのまま踏み越えていく。
足を貫いた矢を抜く余裕はない。
そのまま矢を踏み潰すようにして地面を蹴り、へし折りながら前へ体重を乗せる。
痛みへの弱音はすべて後回しだ。
ルトリエの姿が闇の向こうに輪郭を取り戻す。
変わらず、あの余裕そうな笑みを浮かべたまま、こちらを待ち受けていた。
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