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午後十時。
任務後の帰り道。空からは静かに雨が降っていた。
パトロール帰りの二人は、最寄りの駅で足を止める。
土砂降りというほどではないが、傘を持たない身にとっては十分すぎるほどの雨だった。
「……濡れるな、これ」
「うん……」
栞は立ち止まったまま、空を見上げた。
駅の屋根の下には数人の通行人が雨宿りしていて、二人が並んで立つ隙間だけがぽっかり空いている。
ポタ、ポタ、と屋根を伝って落ちる雨粒が、アスファルトに小さな水音を残していく。
「待ちますか? 少し」
「……いや、無理だな」
翠がポケットを探り、何かを取り出す。
「えっ……それ、折りたたみ傘?」
「違う。──ほれ、これ」
差し出されたのは、一枚のフード付きレインポンチョだった。
どう見ても一人用。
「これしかない。着ろ」
「え、じゃあ翠さんは?」
「俺は濡れても問題ない」
「え、だめだよそれ──!」
「お前はこの間、熱出して寝込んだばっかだろ。優先順位を考えろ」
「……でも!」
栞がぐずるのを見て、翠は小さく息を吐いた。
そして、次の瞬間。
「……なら、入れよ。一緒に」
「──えっ?」
バサッ、と彼がポンチョを広げて、自分の肩にかけたまま、
栞の腕をぐいと引いて、その中に抱き寄せた。
「ちょ、ちょちょっ……! 近っ! 狭っ!!」
「文句言うなら離す」
「やだっ! 離れたらもっと濡れるじゃんっ!」
「……じゃあ、黙ってろ」
栞の小さな身体が、翠の胸元にすっぽりと収まった。
あまりの距離の近さに、耳が赤く染まっていくのが自分でも分かる。
(ああもう……心臓がうるさい……!)
雨の中、ふたりはポンチョを分け合いながら駅から歩き出す。
道端の街灯が、ゆらゆらと濡れたアスファルトを照らしていた。
***
途中、ふとした沈黙が訪れた。
雨の音だけが、傘のない世界の“BGM”になる。
「……栞」
「……なに?」
翠の声は、ふだんよりも少しだけ低く、そして柔らかかった。
「お前さ、今日の任務で“引き金”引いたあと、震えてなかったな」
「……うん」
「怖くなかったのか」
「怖かったよ。だけど──“あの人を守らなきゃ”って思ったとき、手が動いた」
栞はゆっくりと、隣を見上げる。
「そのとき、頭に浮かんだのは、翠さんの顔だった」
「……」
「“あのとき、助けてくれたのはこの人だった”って思ったら、今度は私が“誰かの盾にならなきゃ”って思えて──」
翠は何も言わなかった。
ただ、そっとポンチョの中で、彼女の肩を強く抱き寄せた。
「……よくやった」
「……」
「俺の弱点でも、お前が人を守る理由でも、なんでもいい。──でも、もう二度と、ひとりで撃たせねぇよ」
その言葉に、栞の喉が詰まった。
目が熱い。
雨と涙が頬を伝うのが、もう分からない。
「……じゃあ、わたしも。翠さんが誰かを守るとき、隣にいさせて」
「言われなくても、引きずってでも連れてく」
「ふふ……変な約束……」
「もうバディじゃねぇ。共犯者だ」
「ううん、きっともう、共犯者でもないよ」
「じゃあ、なんだよ」
「……好きな人、かな」
その呟きに、翠は無言のまま、ポンチョの内側に顔を寄せた。
そして、雨音に紛れるように、小さくこう言った。
「……雨、やまねぇな。けど、今ならずっと濡れててもいいかもしれねぇ」
その言葉が、まるで告白のように感じられたのは、
栞の心がもう、彼を信じて疑わなかったからだろう。
雨の日の夜。
濡れた道の上で交わされた約束は、どんなキスよりも温かかった。