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――朝になっても、連絡はなかった。
部屋には栞の姿がない。
キッチンには昨日のコップがそのまま。
寝室の布団はぐちゃぐちゃのまま、まだあたたかさを残していた。
「……栞?」
翠は最初、さほど気にしていなかった。
朝のパトロールか、近所のコンビニか、あるいは花の水やりでもしているのだろうと。
だが、1時間が過ぎ──
2時間、3時間と経つうちに、その“違和感”が確信に変わっていった。
(おかしい……)
インカムにも応答はない。
GPS反応も消えている。
組織に確認しても、「移動命令は出していない」とだけ返される。
「……消えた?」
***
“そのとき”の翠は、間違いなく冷静さを失っていた。
「全員、ログを確認しろ。防犯映像、裏口のセンサー、付近のタクシー記録もすべてだ」
「0415、落ち着け。まだ誘拐と決まったわけじゃ──」
「黙れ。お前らに、あいつの何がわかる」
怒鳴り声が響いた。
翠の怒声は滅多にない。
けれどそのとき、周囲の人間は誰も彼に近づこうとしなかった。
殺気ではない。
激情でもない。
“喪失”を恐れる、心の底からの焦燥が、彼を突き動かしていた。
「──お前、俺の“弱点”だなんて簡単に言いやがって……!」
壁を殴る拳から、血がにじむ。
なのに、インカムからは、何も返ってこない。
***
その日の夜。
ようやく掴んだ手がかりは、駅のロッカーに残された栞の携帯だった。
電源は落とされ、写真も履歴も消去済み。
だが、ひとつだけ。
“削除されていなかったメモ”があった。
「翠さんへ」
ごめんなさい。
私、きっと“誰かの目に映ってはいけない存在”なんだと思う。
あなたに守ってもらえるたび、私は誰かの標的になってしまう。
あなたの命まで、巻き込むくらいなら……
一度、ちゃんと“自分で逃げる”ことを選びます。
怖くても、痛くても、
あなたの背中に隠れてばかりじゃ、
私、きっともう“好き”って言えなくなるから。
だからこれは、
“ただの逃げ”じゃなくて、“ちゃんと前に進むための離脱”です。
翠はメモを読んだあと、無言のままロッカーを静かに閉じた。
「……バカが」
掠れる声で呟いたその言葉は、
自分に向けられたものだった。
“守る”ことしかできなかった男の罪。
“信じる”ことしかできなかった女の決意。
ふたりの矛盾が交差したその日、
世界は静かに狂い始めていた。
***
その夜、誰にも知られぬ場所で。
雨の中、見知らぬ屋根の下、栞はひとり身を寄せていた。
震える身体。濡れた髪。
手には、翠がくれたペンダントをぎゅっと握っていた。
「……ごめん……でも、これでいいよね」
誰に言うでもなく、誰に届くでもなく。
彼女は、涙を流さなかった。
ただ、心の奥が、ずっと冷たかった。
(……ちゃんと帰るから。
私、自分で立てるようになったら、
ちゃんと、“あなたの隣”に戻るから)
小さな光が、胸の中に灯っていた。
それはたったひとつの、“再会”という約束の火だった。