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早坂早苗(32)×坂井英梨(22)
黒目がちだけど、小さくて少し垂れた目。
自己主張を知らない低い鼻。
鼻と少し離れた小さな口。
鏡に映った顔を見て、早坂早苗(はやさかさなえはため息をついた。
化粧ポーチのチャックを閉める。
この土台なので、化粧を塗っても直しても、たかが知れている。
かつてこの顔を、「ラスカルみたい」と形容した人がいた。
それからラスカルに対して愛着がわき、今や化粧ポーチも、それについているキーホルダーも、手を拭いたハンカチでさえ、ラスカルだ。
いや、違う。
『早坂さんって、ラスカルみたいですよね。いい意味で』
そう口にした彼の笑顔を思い出す。
ラスカルではなく、彼のことが好きだったのだ。
4つ後輩である結城彰久が、かつて彼が在籍していた黒田支店の営業課、佐藤麻里子と籍を入れてから、もうひと月が経つ。
季節は、コスモスが揺れる10月へと移行していた。
それでも、正面の席に座る結城の存在を、“ただの後輩”と割り切れる自分はまだいない。
4年間、ずっと好きだったのだ。
そんな簡単に忘れられるわけがない。
早苗はハンカチを制服のポケットにしまうと襟を正し、レストルームを開けた。
途端に本部の忙しない音が鼓膜に戻ってくる。
鳴り響く電話。
キーボードをたたく音。
大量に印刷しているコピー機。
誰かの笑い声。
伝票を切る音。
それらが情報として聴覚神経を伝わって脳にたどり着くと、否が応でもラスカルは経理部副課長に姿を変える。
正面には早々に昼食を済ませた結城が、午前中と大して変化のない姿勢でキーボードを叩いている。
結婚してから、さらに仕事が早くなった。
今まではわざと仕事を遅らせては、帰りの遅い営業課を見守っている節があったが、今はもうさっさと帰宅して、妻の代わりに家のことなどをやっておこうということらしい。
甲斐甲斐しい旦那様ぶりにため息が出る。
総務課長が顔を上げる。
「結城。売掛金の推移どう?」
言われた結城が数センチ背筋を伸ばしながら、キーボードをたたき、ディスプレイを見えやすいように課長に傾ける。
「一頃よりだいぶ良くなりましたが、依然として遅いところはありますね。そして遅い支店と遅い営業も決まっています」
「ちなみに、どこの誰?」
「上郷支店の浅田課長とか、松波支店の長谷川主任なんかも遅いですね」
「直々に店長に電話するかー」
課長がため息をつく。
「私がしますか?」結城が聞く。
(お?)
「いや、大丈夫。こういう時に矢面に立つことくらいしか、課長の仕事はないから」
早苗は結城の顔を見つめた。
今までの結城なら。
こういう嫌な仕事は、頼まれたらいやな顔もせずにするけど、自分から買って出るなんてことはなかった。
成長している。人間として。社会人として。
そして彼を育てているのはきっと、経理課長や、経理副課長ではない。
「お昼便でーす」
来た。
黒田支店の佐藤麻里子、改め、結城麻里子が、支店の書類をまとめたボックスを持ってきた。
このように昼と夕方、彼女はボックスに溜まった営業の書類を本部に届けに来る。
普段は通路側に座る坂井が対応するのだが、彼女が不在だったりすると、結城が立ち上がる。
「お疲れ様です」
結城が自分の妻となった女性に近づく。
「今日、いっぱいあるんだよ」
ボックスから次々に書類を広げていく手には、結城と同じ銀色の指輪が光っている。
「これ、新車グループ、これ、中古車グループ、あと、販売促進、経理、総務、サービスグループ」
「オールラインナップですね」
笑いながら結城が受け取ると、すっかりパンツスーツにショートカットが板についた麻里子はさっと本部を見回した。
「新車グループの課長に話があったんだけど、忙しいかな」
「朝からいないんですよ。社長と同行で県外に行ってるらしくて」
「げ。マジか」
「急ぎます?携帯なら繋がると思いますけど」
「大丈夫。ありがとう」
会話だけを聞いていると夫婦のそれではない。
結城は会社では、先輩である麻里子に敬語を崩さない。
家に帰ったら、どうなんだろう。
気にしないふりをしてディスプレイの向こう側に見える二人を盗み見ながら、早苗はいつの間にか止めていた呼吸を再開した。
やばいやばい。
窒息死するところだった。
たかが失恋ごときで。