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「あ、麻里子氏。ちょっといい?」
昨年、経理課から中古車グループに移ったばかりの高橋が麻里子を呼ぶ。
「よろしく」
結城に書類を渡すと、麻里子は軽いフットワークで中古車グループに走っていった。
「ーーー君んとこの新人さあ、何て言ったっけ」
高橋が相変わらず神経質に顔を引きつらせて麻里子を覗き込む。
「清藤ですか?」
「そう。そいつの下取りしてきた車のヤニの匂い、二回クリーニングしても取れなくてさあ」
「そうなんですか?」
「ちょっとあれ、ダメだわ。あんくらい酷いときは、室内評価マイナスにしてくれないと」
「わかりました。伝えておきます」
「いや。車、お客様駐車場の端に置いてあるから。みんなでそれ見て周知してほしい。店長に伝えといて」
結城の肩あたりがピクリと動く。
彼が、黒田支店の店長である宮内と、麻里子の関係に過敏になっているのは、大分前から気づいていた。
愛妻家で知られる宮内と、フワフワしながらも中に一本、芯が通っているような麻里子の間に、まさか何かあったとは考えにくいが、結城の中では引っかかるところがあるらしい。
先ほどよりも明らかに早くなったキーボードをたたく音に思わず笑いそうになる。
(かわいいなぁ)
彼は正面から見ると、わかりにくいが、サイドから見ると手に取るように分かりやすい。
あれは、彼が異動してきた年の初夏の日だった。
◇◇◇◇◇◇
ガンガンにかけた冷房のせいで、肌寒い事務所で、早苗は経理のみんなに熱いコーヒーを淹れた。
「はい、結城くん」
「あ、ありがとうございます」
彼の第一印象は、“ちょっと生意気なデキるやつ”。
仕事の吸収は早く、教えたことは一度で覚えた。
もともと計算が得意なのだろう。数字合わせや逆仕訳もそつなくこなし、早いわりにミスも少なかった。
だがその代わりに先輩である早苗たちのミスに対しての指摘は、少々遠慮と配慮が足りなかった。
「高橋さん、試算表の中にイベント諸経費が加算されてないです」
「早坂さん、ビックフェア会場の使用費、前年額のままになってます」
無表情で指摘してくる結城に、はじめは高橋も早苗も閉口してしまったが、彼の指摘の的確さと、チェックの速さ、仕事に取り組むまっすぐな姿勢に、少しずつ見方が変わっていった。
結城は早苗からカップを受け取った。
「ほら、いつもデスクで飲んでたら美味しくないから、バルコニーで飲もう?」
その誘いに、結城は素直についてきた。
非常階段に続くバルコニーでは、すでに高橋と経理課長がカップ片手に外を眺めていた。
「いやあ、だんだん暑くなってきたな。うんざりするよ」
経理課長が額の汗をぬぐいながらコーヒーを飲む。
「でもほら、空が青くて気持ちいいですよ」
早苗が見上げると、結城も空を見上げた。
「あ、飛行機雲!」
早苗はそれを指さすと、自分のカップを結城に押し付けた。
両手の人差し指と親指をそれぞれ合わせ、しずく型を作り、その中に飛行機を入れた。
「ーーー何してるんですか」
結城が怪訝な顔でこちらを覗き込んだ。
「こうやってね、飛行機を100個集めると、願い事が叶うんだよ」
「へえ。初めて聞きました」
「私と友達が考えたんだもん」
言うと結城は呆れたようにカップを早苗に返してきた。
「飛行機100機なんて意外と簡単なんじゃないですか?願い事叶い放題ですね」
「それがね、そんな甘くないのよ」
言いながら早苗はカップを受け取る。
「その間にヘリコプターを一機でもみたら、リセット。やり直し」
結城はふっと笑った。
「それは強力な縛りだ」
(ーーーあ、笑った)
初めて見せた彼の崩れた笑顔に、彼がこの数か月間、どんなに気を張り詰めて一生懸命仕事をしてきたか、やっとわかった。
今風の整った顔をしていて、経理課長や高橋のものとは違う、高そうなスーツを着て、ちょっと気取っているように見えたけど。
コーヒーを啜る横顔を盗み見る。
(真面目……なんだなあ)
先ほどまでは何も感じなかった、彼の手の中にあるコーヒーを淹れたのは自分だという事実が、早苗の胸を少し熱くした。
二人の関係に気が付いたのは、偶然だった。
歯医者の予約が入っていたので、夕方で仕事を早退し、社員駐車場に向かっている時だった。
展示場で、試乗車の施錠をしている麻里子の姿が目に入った。
彼女は鍵を抜き終わると、夕焼けに染まる空を見上げた。
そして何かを見つけると、手の中の鍵を慌ててポケットにしまい、両手を空に翳した。
何をしているのか思わず足を止めて見ていると、人差し指と親指をぴんと張ったその両手が、頭上でぴったりと合わさった。
(あ、しずく型)
空を見上げると、白い線を描きながら飛行機が夕陽を浴びて光っていた。
早苗は、89まで数えた飛行機を集めるのも忘れ、彼女をただ見つめていた。
無事、1機をゲットした麻里子は空に向かってにこっと微笑んだ。
そのとき、気が付いてしまった。
きっとそれを教えたのは、結城だろうと。
そしてそれを素直に実行に移している幸せそうな麻里子の顔を見て、悟ってしまった。
二人はきっと付き合っているのだと。
◇◇◇◇◇
高橋に頷き、他にも話しかけてくる本部の人間のそれぞれの要件に笑顔で応えていく麻里子を見る。
(4年間、他の人に気づかせなかったんだから、この人も相当なポーカーフェイスだ)
早苗の少しだけ冷めた視線に気づいたのか、麻里子はこちらをちらりと見ると、笑って会釈をしてから、本部の出入り口から出ていった。
「係長、すみません」
タイミングを見計らったように、結城の隣に座っている坂井が長い髪を耳にかきあげながら彼を見つめる。
「黒田支店のサービス売り上げなんですけど、支店から上がってきたのと、集計したのとが合わなくて」
結城が軽く椅子を寄せて、坂井のディスプレイを覗き込む。
「ああ、多分、冬タイヤの利益率が違うんだ。キャンペーン始まったから」
言いながら引き出しを開け、ラミネートされたナンヨータイヤのキャンペーンチラシを見せる。
「これに合わせて利益率変えれば、数字合うと思うからやってみて」
「はいっ!ありがとうございます!」
坂井が真ん丸で大きい目で結城を見上げるが、彼は口元だけ笑みを浮かべると、クールに自分のディスプレイに視線を戻した。
(こんだけかわいい子が、こんだけ頑張っても、こんだけ靡かないんだから)
早苗は各店から集まってきた集計の打ち込みをしながらため息をついた。
(はなから私なんか、無理だったわけだ)
「降ってきたなあ」
本部の中央の奥に位置する席で、普通の社員よりも少しだけ上等な椅子に腰かけながら専務が呟くと、みんなミーヤキャットの如く一斉に窓の外を眺めた。
すっかり日が沈んだ藍色の空から、ザーッと音を立てて、大粒の雨か降りだしてきた。
「駐車場まで濡れるな、こりゃ」
専務の言葉にそれぞれ相槌を打つ。
早苗はディスプレイに視線を戻した。
しかし正面の結城は窓の外を見たまま、なかなか仕事に戻ろうとしない。
「ーーーどうかした?」
覗き込むと、ハッと正面に向き直り、
「あ、いえ」
と言ってまたキーボードを叩き始めた。
違和感を感じ、首をかしげていると、経理課長が口を開いた。
「結城くん、今日は帰ってもいいよ」
坂井が顔を上げる。
同じく結城と課長を交互に見つめる早苗と目があった。
「ーーーすみません。ありがとうございます」
結城が鞄を持って立ち上がる。
「お先に失礼します」
結城は経理部のメンバーに丁寧に一礼すると、本部の出入り口を出ていった。
硝子戸の向こうの彼が、猛ダッシュで階段を駆け下りていくのが見える。
「どうしたんですか、結城さん」
坂井が課長に聞く。早苗も注目する。
「いや、まだ発表してないから、あれなんだけどね」
早苗の父とそう歳の変わらない課長は咳ばらいをした。
「結城くんの奥さん、おめでたなんだよ」
「—————」
おめでた?
それって。
赤ちゃんが出来たってこと?
「まだ安定しなくて、今日受診したら、お腹が張ってるから、二、三日入院って言われたらしくて」
「————そうなんですかぁ」
何も言えないでいる早苗に代わって坂井が口を開く。
「まあ、妊娠初期にはありがちだから大丈夫だって言われたとは言ってたけど。無論初めてだろうし、不安だよね」
課長は人の好い垂れ目をさらに垂らして微笑んだ。
「ーーー早坂さん?大丈夫ですか?」
黙ったままの早苗を坂井が覗き込む。
「あ、うん」
そういって早苗は、結城の机の上に置きっぱなしだったバランスシートのフォーマットを手繰り寄せ、自分のパソコンでファイルを開いた。
「優しい~。やってあげるんですか?」
坂井が聞く。
「ーーーー早坂さん?」
早苗はそれを表に打ち込んでいく。
坂井がまだ何か言いたそうにしていたが、早苗のキーボードを打つ音を聞いて諦めたのか、自分の仕事に戻っていった。
言葉が、出なかった。どうしても。
今口を開いたら、とんでもないものまで飛び出してしまいそうで。
社員駐車場に停めてあった自分の車に乗り込むと、やっと息がつけた。
フロントガラスを打つ大粒の雪が、外の景色を塞いでいる。
息を吐きながら、キーを回す。
車が小さな振動を始める。
と同時に涙が溢れてきた。
あたり前じゃないか。
二人は結婚したんだ。
そういう行為だって、付き合ってた頃からしてたんだから。
今更ショックを受けるのはおかしい。
でもーーーー。
結城の手が。
結城の顔が。
結城の唇が。
結城の体が―――。
女に触れたと思うと――――。
「いてててててて」
早苗はシートに座りながら丸くなった。
胃が刺されたように痛い。
「ううう」
思わずドアに右手をつく。
「薬……く、すり。胃薬………」
ドアハンドルに指を伸ばすが、全身に噴き出した汗でうまく開かない。
滑ってはバチンと戻り、滑ってはバチンと戻る、その繰り返しだ。
「————だ、だれか…」
バンッ。
ドアが開いた振動で、サイドバイザーの雨が中に入ってくる。
やっと開けた目で見上げると、そこには坂井が立っていた。