テラーノベル
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その朝は、集合までに四十分ほどの空きがあった。
「柔太朗さん、ちょっとだけ歩かん? 前に市場で見かけた露店、もう一回だけ見たいんや」
朝食のあと、舜太がそう声をかけると、柔太朗は少しだけ考えるふりをしてから、「いいけど」と頷いた。
仁人と勇斗は、機材の確認とコーディネーターとの打ち合わせで、先に動いている。
早い時間の旧市街は、昼間とは違う顔をしていた。
土壁に朝の光が斜めに当たって、露店に並ぶ布や絨毯の色が、やけに鮮やかに浮かんでいる。
陶器の皿、刺繍の小物、銀色のポット。売り子の女性たちが、通り過ぎる二人に片言の日本語で声をかけてくる。
「ヤスイ、ヤスイ」
「ほんまに言うんやな、それ」
「舜太、すぐ立ち止まるじゃん」
「写真映えするんよ」
実際、舜太は三歩歩くごとにシャッターを切っていた。
柔太朗はその半歩後ろを歩きながら、呆れたような顔をして、けれど急かすことはしなかった。
市場の隅にある、小さな露店の前で、舜太の足が止まった。
着いて間もない頃に覗いたときから、ずっと気になっていた店だった。
台の上に、ガラス細工の小物が並んでいた。ビーズの首飾り、小さな瓶、そして耳飾り。
どれも素朴な作りで、値札の代わりに、売り子の老婆が指で数字を示してくる。
その中の一対に、舜太は目を奪われた。
ターコイズの、雫の形をしたガラスだった。
カルタ・ミナルのタイルと同じ色。香水のボトルと同じ色。
朝の光を受けて、透明な青が、台の上で小さく揺れていた。
「……これ、いくら?」
老婆は指を三本立てた。日本円にすれば、数百円にもならない。
ブランドの撮影で身につけるジュエリーとは、桁がいくつも違う。
それでも、舜太はそれを手に取っていた。
理由は、自分でもうまく言えなかった。
ただ、この旅で撮る写真の、どれか一枚でもいい、柔太朗のどこかに、自分の影が映っていればいい、と思ってしまった。写真家としては笑える話だった。カメラを構える側が、写される側に何かを残したいなど。
「柔太朗さん、ちょっと、これ」
「ん?」
「お土産。旅の思い出ってやつ」
小さな紙に包まれたそれを差し出すと、柔太朗は少し驚いた顔で受け取った。
包みを開き、掌の上に転がった青い雫を、しばらく黙って見つめる。
「……ピアス?」
「安もんやで。ブランドのやつとは比べもんにならへんけど」
「いいの、これ」
「ええから。ほら、耳」
言われるままに髪を耳にかけた柔太朗の横顔に、舜太はピアスを近づけて、あててみた。朝の光がガラスを抜けて、柔太朗の頬に、小さな青い光の点を落とす。
「似合うやん!」
「……ほんと?」
柔太朗の声が、わずかに弾んでいた。
笑った顔は、撮影のときに作る表情とも、いつもの素っ気ない笑い方とも違っていた。
嬉しかった。心から、そう思った。
どんなブランドの、どんな高価な品よりも、この旅の朝の光が、まるごと閉じ込められているような気がした。誰かが自分のために選んでくれた、ただそれだけのものが、こんなに胸に響くのだ。
だから、舜太が続けた言葉に、柔太朗は一瞬、反応が遅れた。
「撮影でも、つける?」
言ってしまってから、舜太は自分の口を塞ぎたくなった。
胸の中にしまっておくはずだった願いが、勝手に零れ出てしまった。
柔太朗の笑顔が、その瞬間、ほんのわずかに固まった。
頭に浮かんだのは、一年ほど前の現場の光景だった。
冗談半分に飛んできた「二人って、すごく仲いいね」という声。
あのとき、自分の表情が硬くなったのを、自分でも分かっていた。
写真の中の自分が、舜太の選んだピアスをつけている。
それを見た誰かが、どこの、と聞く。誰かが気づく。
「……どうだろうね。衣装は、ブランド側の決まりもあるし」
口をついて出たのは、そんな曖昧な言葉と、同じくらい曖昧な笑顔だった。
「あー、せやな。冗談や、冗談。ポケットにでも入れて、お守りにしといて」
困らせたいわけじゃない。そんな顔で笑わなくていいのに。
軽く手を振って、舜太は一歩引いた。
柔太朗は小さく頷き、青い雫を紙の包みに戻して、上着のポケットにしまった。
「そろそろ戻ろう。遅れる」
「おう」
何事もなかったように、二人は並んで歩き出した。
違う、嫌なんじゃない。喉まで出かかったその一言を、柔太朗は、最後まで言えなかった。
その日の撮影で、柔太朗の耳元には、何もなかった。
ファインダーの中の、何も飾られていない耳元を、舜太はいつも通りの手つきで切り取っていく。それでいい、と思った。それが、仕事というものだった。思おうとした、という方が、正しかったかもしれない。
コメント
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うわ、めっちゃ良いシーンだった…! 舜太が柔太朗さんにピアス渡すとこ、朝の光の中でガラスがキラってして、二人の空気が一瞬で変わったの分かったわ。「冗談や」って笑って引く舜太も、喉まで出かけた言葉飲み込む柔太朗さんも、抑えた演技がリアルで刺さった。 あの「何もつけてない耳元」をいつも通りに撮るラスト、めちゃくちゃ切なかった…二人の関係性の絶妙な距離感が、言葉少なに伝わってくる名シーンやった🔥
#🐟️×🍇
ねぎ茶
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