最初に声を奪われた。
魔法を使わないように。
次は四肢の自由を。
逃げないように。
瞳に指が伸びた時、さすがに背筋に恐れが走ったが、奥歯を噛み締め、目を逸らすことはなかった。心臓だけが、心を裏切り、逃げ出そうと暴れる。
「しませんよ」
爪が眼球に触れる直前で、男はゆっくりと指を下ろし、恭しく頬に触れた。体温のない指だった。
「あなたには、この行く末を、その目で見届けていただなくてはならないので」
目を細め、うつくしく男は微笑んだ。
長い髪が蜘蛛の糸のように絡みつく。
乱暴に揺さぶられて、鼻の奥から血のにおいが込み上げた。痛みはすでに麻痺していて、熱さと痺れしか感じないのに、内臓を弄られるおぞましさに吐き気がする。
熱い。苦しい。でも、男は見届けろと言った。だから、すぐに殺されることはない。大丈夫だ。耐えればいい。
でも、いつまで?
これ見よがしに傍らに置かれたナイフに、つい、目を向けてしまう。男は気づいているだろうに、何も言わない。
あれに手が届いたところで、潰れた喉と折れた足では、どうにもならない。分かっていても、わずかな希望に縋らずにはいられない。
生への渇望と焦燥に、心がねじれていく。
反対方向に引っ張られて、よじれて、襤褸布みたいに体ごと千切れてしまいそうだ。
視界が揺れて滲む。きつく目を閉じ、歯を食いしばる。
「……く、らく……」
涙の代わりに、喉の奥から、言葉がひとつこぼれた。
ぴたりと男は動きを止めた。体の中心を侵していた圧迫感が消えて、ようやく息ができた。
息も乱さず、汗ひとつかかず。能面のように微笑んだまま、顔を近づけられて、身が強張る。嫌な予感が、した。
「ああ、この姿がお望みでしたか」
奇妙なくらい明るい声で、男は言った。
手のひらで顔をぬるりと撫でる。それだけで、肌に落ちる髪が闇色から空の色へと色を変え、まばたきの間に顔貌まで変わる。作り物のような肌にそばかすが散り、熱を感じないガラス玉のような瞳はそのままに、瞼がやわらかな弧を描く。
「なん、で……」
「あなたが望んだからですよ」
ゴクラクの姿をしたものが、言葉を紡ぐ。眼の前がぐらりと揺れた。
嘘だ。こんなこと、望んでいない。叫びたいのに、声が出ない。
指先が絡め取られて、手の甲にくちづけられる。あたたかくやわらかな感触に、全身の毛がぞわりと逆立った。
嫌だ。
振り払い、後退る。けど、すぐにまた引きずり戻される。折られた足の痛みを忘れて、暴れた。無駄だと分かっていても。
「どぉしたの?」
あやすような口振りで、抱き締められる。体の震えが止まらない。
「イチ……イッちゃん?」
だめだ。 だめだ。だめだ。
その顔だけは、その声だけは、その指だけは。
がむしゃらに振り上げた拳は片手で容易く捉えられ、頭上へと掲げられた。人ならざる力に、関節が軋む。
空いた手がやさしく髪を梳き、頬を撫でた。せめてもの抵抗に、顔を背け、目を閉じる。けれど、その声は毒のように甘く鼓膜を侵す。
「イッちゃん、こっち向いてよ」
頬を掴まれ、上向かされる。ぬるりと舌がくちびるを割った。生々しさに背筋が震え、反射的に噛みついた。痛みに男が呻く気配に顎の力が緩み、舌で歯を抉じ開けられる。
「ッう、……ぐ、あ……」
喉奥で縮こまる舌に、同じ器官が絡みつく。血の味に舌が痺れた。舌だけでなく、上顎から、歯の裏、喉の奥まで舐め尽くされて、溢れ出る血と唾液に溺れそうになりながら飲み干した。悍ましいはずのそれが、胃の腑を熱くさせた。
酸欠で頭がぼうとする。いつしか解放されていた指先も、鈍く痺れている。
不意に訪れた凪の時間が、次の行為に移る間なのだと、気づくには少し遅すぎた。
膝が割られて、腰が入れられる。はっと顔を上げた先で、やわらかく微笑まれて、心臓が軋むような痛みを感じた。
じくりと、今までにない緩やかさで体を開かれていく。肌が粟立つ。
さらりと滑り落ちた髪が肌を撫でた。鼻腔の奥に慣れ親しんだにおいが忍び込み、混乱は増すばかりなのに、嫌悪感が薄れていく。
「あ、あ、あ……ッ」
腹の裏をなぞられて、腰が浮きそうになる。相手にもそれが伝わったのか、二度、三度と繰り返される。腹の奥から四肢の端にまで、緊張が満ちていく。
熱い、苦しい、なのに、
「気持ちいいの?」
睦言のように艶のある声が、耳朶を舐めた。同時に強く突かれて、抗うこともできずに弾けた。がくがくと体が震える。
でも、まだ終わらない。
先程までの穏やかさを忘れたように、激しい律動がはじまって、夜の海に放り出されたように、ただ藻掻く。
与えられる感覚が強すぎて、受け流す方法も、抗うすべも知らない。分からない。身も蓋もなく、泣きわめき、縋り付いてしまいたい。自分で、自分が分からない。
息もままならないほどきつく抱きしめられて、両腕に満ちる緊張が男の限界を伝える。
イチ、と耳朶を食むように名を呼ばれ、熱い息が鼓膜を通して頭の中を茹だらせる。
自分でも知り得ない体の奥に迸るなにかを感じながら、腹の奥から込み上げるものに身を任せた。
極度の緊張から解放された体は、重い虚脱に襲われていた。心臓だけが早鐘のように鳴り響く。
ほんのわずか、意識を失っていたのだろうか。頬を撫でる感触に、いつの間にか閉じていた目を開ける。
「楽しんでいただけましたか?」
じつ、と黒い目がこちらを見下ろしていた。羞恥と怒りに心が塗りつぶされていく。持て余すほどだった体の熱が、急激に冷えていく。
身を翻し、ナイフを手に取った。男の胸に、それは吸い込まれるように突き刺さった。
手応えのなさに、背筋を嫌な汗が伝った。ナイフを引き抜くより先に髪を鷲掴まれて、寝台へと押し付けられる。容赦ない力に視界が揺れた。目が眩む。
「そうでないと……こちらも楽しめない」
血の一滴もついていない、磨かれたナイフが、床へと落ちた。
ほら、やっぱり、違う。ゴクラクじゃない。あいつはこんなことしない。場違いな安堵に、体から力が抜けて、意識が遠のく。
でも、だからこそ。
自分が汚してしまったような気がして。
生まれて初めて、己に殺意を覚えた。
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