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危機感薄すぎりょさん。
元貴が抱き締めていてくれたおかげなのか、不安なことがあったにも関わらず僕はゆっくりと眠ることができた。目を覚ましたときにすぐに元貴の穏やかな寝顔が目に入って、やっぱり元貴には相談できないな、と漠然と思った。元貴には余計なことを考えずに、自分のやりたいことに全力で取り組んで欲しかった。
事務所に言えば元貴に筒抜けになるだろうし、盗撮や盗聴をされたという確固たる証拠もないし、写真と手紙は気持ち悪くて捨てちゃったし、僕が気をつければいいだけだ。
朝起きて約束通りちょっとお高めの食パンを焼いて食べて、迎えにきてくれたマネージャーに挨拶をして元貴と一緒に車に乗り込む。今日からしばらく、打ち合わせを除けば3人個々にお仕事がある。
なんと藤澤、映画に出ます……!
元貴みたいに主演ではないけれど、お芝居という音楽とは違う表現の舞台に立たせてもらうことは素直にありがたかった。前にもドラマに少しだけ出させてもらったけど、今回はもっともっと規模が大きい。
初めて撮影現場に行ったときは朝ご飯を食べることができないくらいに緊張していたのに、今日は元貴がいたからか平気だった。元貴の存在って本当に大きいなぁと思いながら、元貴と別れ、現場に入った。
監督さんも主演を務める俳優さんも前々からお世話になっていることもあり、待ちの時間もリラックスして過ごすことができた。
お芝居は言葉だけじゃなく表情や仕種で表現する世界だから、撮影に望んでいる役者さんの演技を見ているだけで楽しかった。クラシック音楽に触れる機会も最近はなかなかなかったから、そこも素直に嬉しかった。
自分たちのライブもそうだけれど、本当に多くの人が集まってひとつの作品を作り上げるんだなぁと、毎度毎度感動は更新される。エキストラさん1人とってもみんな真剣で、個人の力が作品という大きなものを作り上げている。
ちょっとお邪魔する、くらいなものだけど、素敵な作品の一要素になれたことがとても嬉しい。
撮影を終えて、ほくほくと充実した気分で打ち合わせ場所の会議室に入ると、空気がこの上なく凍りついていた。
絶対零度の空気感を作り出しているのは立ち上がって怒りを露わにする元貴で、若井はどうしたらいいか分からないのか困惑した表情を浮かべていた。元貴の怒りの矛先はどうやらチーフマネージャーに向いているようだった。
え、なにごと?
「あ、涼ちゃん……」
入室した僕に気づいた若井が助けを求めるように声を上げる。ばっと勢いよく僕を振り返った元貴が、その勢いのまま僕に大股で歩み寄る。元貴は真顔で目に光がなくて、気圧されるように後ずさる。ガタッと背中がドアにぶつかった僕の肩を掴んだ元貴が、
「何もされてない!?」
と、叫ぶように言った。
なんのことか分からず、おどおどとしながら「な、なにが?」と訊き返すと、意表を突かれたように元貴がキョトンとした。
「なにがって……え?」
ちらっと僕と同行してくれていたマネージャーに視線を元貴が送ると、マネージャーは無言で小さく頷いた。ほっと息を吐いた元貴がにこーっと微笑むと、凍りついていた空気に温度が戻る。
全員が安心したように息を吐き、特にチーフは、嵐が去ったと言わんばかりに椅子に深く沈み込んだ。
え、なに?
訳がわからず混乱する僕に抱きついた元貴が、僕の頬に手を添えて、あ、俺のあげたリップだ、と気づいてくれる。
気づいてくれるのは嬉しいよ? でも、説明して欲しいんだけどな?
「ならいいや。楽しかった?」
「ん? うん、もちろん」
「そっかそっか。あと2回だっけ?」
「うん」
にこにこと普段通りに戻った元貴は、何事もなかったかのように僕の腕に自分の腕を絡ませて横並びに席についた。
机の上に広がっていた書類をチーフが片付けて、ツアーの資料を並べ直す。切り替えの速さはチーム内随一で、もちろん事務処理能力も抜群だ。僕たちのことをなによりも考えてくれているチーフに、元貴があんな風に激昂するなんて信じられなかった。
ちらっと見ることしかできなかった資料は僕が出演する映画の共演者リストだったような気がするが、それを確かめられるような空気感ではない。触らぬ神に祟りなしとでもいうように誰もそこには触れず、さっきまでの態度が嘘のように上機嫌になった元貴を筆頭に、話し合いは順調に進んでいった。
今更共演者リストを見て元貴が怒るってどういうこと? という疑問が抜けなかった僕は、まだ打ち合わせが残っている元貴を置いて、若井と2人でマネージャーに送ってもらう車の中で何があったのかを訊いた。
口止めされているわけではないだろうけど、なんと説明すべきか迷うのか、若井が困ったように苦笑する。マネージャーも同じような顔をしている。
まぁいいじゃん、と言葉を濁そうとする若井に言い募ると、溜息を吐いた後、元貴には言わないでよ? と前置きをして、
「なんか涼ちゃんと共演NGを出してる人が共演者にいたっぽいよ」
と教えてくれた。
共演NG……? と首を傾げる僕に、俺もよく分かんないけどね、と若井が付け足した。
「誰のことか分かんないんでしょ? ならそれで良くない? 涼ちゃん的にはNGないわけだし、元貴もそう判断したから何も言わなかったんだろうし」
それもそうか、と納得しかけて、でも、それであんなに元貴が怒るかな、と考え直す。そもそもNGを出していることを本人が知らないってどうなのよ?
だからと言って誰のことか分かんないのは確かだし、元貴には言わないでよ、と若井に言われた以上、元貴に確かめるわけにもいかない。
多少疑問は残るものの、掘り返しても元貴が不機嫌になるだけだなと結論づけて、ありがと、と若井にお礼を言った。いろんなことに気がつく元貴のことだから、意外と気にしぃな僕のことを思ってくれたんだろうな。
でも、映画の撮影現場は真剣で緊迫感もあるけれどあったかいし、緊張しまくってる僕をやさしく迎え入れてくれた人ばかりだから、本当に誰のことかが分からない。
それに、今更共演NGと言ったところでどうにもならないだろう。既に撮影は佳境に入っているし、僕の出番は多くないとはいえ撮り直しは難しい。だからこそチーフが安心したような顔をしたんだろうし。
次の撮影のとき、見覚えのある人いるかな、とそれとなく注意を払ってみたが、僕の記憶力が悪いせいか特にピンとくる人はいなかった。若井の言う通り、僕の方にはNGはないし、そもそも誰を指しているのかすら分からないんだから気にするだけ無駄だ。
撮影も残すところあと1回だけだし、最後まで楽しく臨みたい。
僕のそんな態度に元貴も満足そうだった。あのあとチームの中で話題に上ることもなく、穏やかに、いつも通りに忙しい毎日を送っていた。
これ以上深掘りしない方がいいな、余計なことを考えずに仕事に打ち込もう、そう楽観的に捉えた頃、見計らったかのようにポストに白い封筒が入っていた。
他の郵便物に埋もれることなことなく、一番上に、整然と“置かれている”。
ここ数日は、映画撮影の合間を縫って違うお仕事でいろんなところに足を運んでいた。長距離移動を余儀なくされて疲労を感じる中、久々の帰宅早々、嬉しくない贈り物に気分が沈む。
僕の帰宅を見計らって“置かれた”としか思えないから、僕のスケジュールも把握されているのだろうか。
まるで己の存在を誇示するかのように、忘れることは許さないと言わんばかりのそれを手に取り、家に帰って荷物と一緒に机に置いた。
僕の方も3度目のことだから変な慣れが出てきていたし、誰にも相談しないと決心していたからか、伝え方はアレだけどちょっと変なアドバイスだと思うようになっていた。僕の元に直接届けられているというだけで、SNSの不特定多数の言葉とさして変わりはない、くらいに捉えていた。
それでも刃物とか入っていたら嫌だから、慎重に中身を取り出した。幸い危険物はなく、写真が1枚と二つ折りの便箋が入っているだけだった。
写真を眺めて溜息を吐く。
「……いつ撮ったんだろ」
相変わらず隠し撮りのようなそれは、僕が映画の撮影現場で監督と話している様子を写したものだった。数百人規模で動く現場ではカメラも多く行き交う。これを撮影した犯人を探すのはまず無理だろう。楽屋の風景を撮られた先のものは盗撮だったけれど、これは隠し撮り、くらいなものだ。
明日で撮影は最後だし気にしないのが得策だ。暇な人もいるんだな、なんて考えながら写真を裏返す。だけどそこに文字はなく、メッセージは便箋の方にあるようで、ペラっと便箋をめくった。
「は……、ぅ、え……?」
便箋の間にもう1枚写真が挟まっていて、これもまた隠し撮りに違いない画角だった。おそらくは会議室で元貴が絶対零度の微笑みを浮かべているときのもので、困惑する若井も端の方に写っている。
「ぇ、な、に、これ……?」
その元貴の顔が真っ赤な何かで塗りつぶされている。ペンのインクよりも粘着質なそれは、僕のポーチからなくなったリップの色によく似ていた。
恐る恐る指で触れるとべちゃりと指先に色が移る。変な慣れがあると思っていたのに一気に恐怖心が湧いてきて、カタカタと震えながらところどころ色が移って赤くなっている便箋を見た。
“僕の天使 悪魔のせいであなたは僕を思い出せない。悪魔を退治しなければなりません。僕があなたを自由にしてあげる”
女神の次は天使かよ、と言うのは置いておいて、悪魔って誰のこと? 写真に写ってるのは僕じゃなくて元貴で、その元貴が赤く塗りつぶされていた。
自由って何? 僕は自由にやってるよ……! 元貴たちのおかげで、自由にやらせてもらってる!
「……ッ」
僕が標的になっている分にはいい。意味は分からないし気持ち悪いけれど、僕の身に何か起きたとしても楽観視した僕のせいだ。
「やめてよ……」
でも、元貴は関係ないでしょ? 悪魔ってなんだよそれ。
なんでこんなことするの? どうやっても僕のポーチからリップを持っていったの? どうやってメイク室での会話を知ったの? どうやって自宅を特定してポストのダイヤルナンバーを知ったの? こんな写真、事務所の関係者じゃないと撮れないでしょ?
ぽろぽろと涙が出てきた。得体の知れない存在からの手紙が怖いからじゃなくて、元貴に何かあったらどうしようという恐怖からの涙だった。
どうしたらいい? どうしたらこの正体不明な奴の目を元貴から外すことができる? 元貴から距離を取るべき?
心配をかけたくないのに、これじゃぁ迷惑をかけてしまう。
「ひっ!」
突如震えたスマホに大袈裟に反応してしまう。震え続けるそれは着信を示していて、画面を見ると元貴の文字。
ほっと息を吐いて画面をタップする。
「も、もしもし」
『おつかれぇぃ。今よかった?』
「うん、ちょうどさっき帰ってきたとこ」
ぐっと涙を拭って平静を装うが、勘のいい元貴は僕の声の揺れを感じ取ったらしく『涼ちゃん、泣いてる?』と訊いてきた。
「あ、ちょっと……、動物のドキュメンタリー観てて……」
『え、なに、疲れてる?』
「そんなことないよ、大丈夫」
元貴の心配してくれる声に穏やかに返しながら、赤く塗られた写真を見えないように再び便箋で挟んだ。
気持ち悪いし不愉快極まりないけれど、これは流石に捨てることはできなかった。もしも何かあったとき、証拠として持っておくべきだと冷静に判断する。
「それで、何か用だった?」
『……用がないと電話しちゃダメなわけ? 恋人の声が聞きたかっただけなんだけど』
なにそれ可愛い。
ふふ、と笑う僕に、元貴が拗ねたように何笑ってんだよと文句を言う。ごめん、可愛くて、と応じると、可愛いのは涼ちゃんでしょと即座に言葉が返ってきた。
ソファに座り直して、元貴の声に耳を澄ませる。
『明日で撮影終わりでしょ? お疲れ様』
「ありがと。素敵な経験させてもらったなぁ」
現場は本当に楽しくて、あったかい。この手紙さえなければ、充実した気分で終われたのに。
『ねぇ、……なんもない?』
不意に真剣になった元貴の声にどきりとする。
ここにきて元貴がNGを出していた人が気になり始めるが、それを問うこともできない。チーフに確認をとってもいいけれど、そうすると元貴の耳に入る可能性が出てきてしまう。
「……なにが?」
それとなく聞き出せないだろうか、と探りを入れるように言葉を濁してみる。
『……ないならいい。でも、気をつけてよ?』
説明をしてくれない元貴にムッとなり、勢いで、それを言うなら元貴の方が気をつけてよ、と言いそうになって口をつぐむ。なにを? と訊かれたら説明に困ってしまうから。
でも、これは訊くチャンスかもしれない。自分を落ち着けるように小さく息を吐いて、更に問い掛けた。
「気をつけるって……何に?」
自分でも思った以上に真剣な声が出て、電話の向こうで元貴が少しだけ息を呑んだのが分かった。
『そりゃ……』
ごく、と僕も唾を飲み込む。
『セット壊したりとか、撮影中にお腹鳴るとか……あとセリフ間違えるとか、人の衣装着ちゃったりとか、それから』
「しないわ!」
元貴が素直に話してくれるなんて思ってはいなかったけれど、これはこれで本気で言っていそうで思わず突っ込む。
元貴は癖のある高い声で笑ったあと、
『涼ちゃんの映画、俺も楽しみなんだから』
と甘く囁くように言った。
その言葉がじんわりと僕の中に沁み込んでいって、ありがと、と答える。
そこから少しだけ仕事の話をして、おやすみ、と通話を切った。切る寸前、元貴が何かを言いかけていた気がするけれど、構わず切ってしまった。何かあったかと掛け直しやメッセージを待ったが、特に通知はない。僕の気のせいかな。
二つ折りにした便箋と写真を封筒に戻す。本当は捨ててしまいたいけれど、それをぐっと堪えて睨みつけるように見つめた。
ストーカーなんだろうな、と現実を見る。よくわからないけど僕に好意を持っていて、明らかに元貴を敵視している。距離が近いのは元貴だけじゃないし、今に始まったことじゃないのに。
「……元貴……」
それでも、なんとかしなければならない。ストーカーの意識を元貴から逸らさなければ、元貴に危害を加えるかもしれない。
よくよく考えたら事務所への相談は無理だ。ストーカーが関係者かもしれないと言う可能性がなくならない今、騒ぎにすることが最善とは思えなかった。
警察に秘密裏に相談したところで情報がどこから漏れるか分からない世の中だ、10周年を迎えてこれからもまだまだやりたいことがあるのに、下手に騒がれたくない。
撮影現場は僕1人だからいいとして、打ち合わせのときは元貴とくっつきすぎないように気をつけよう。今更な気もするけど、何もしないよりはマシな気がする。
急によそよそしくなったら元貴が変に思うかもしれないが、元貴を護るためだ。元貴に何かあってからじゃ遅い。Mrs.そのものである元貴だけは、僕の大切な恋人だけは、何があっても護り抜かなければならない。
「……愛してるって言い忘れちゃった」
僕を心配して電話をかけてくれたやさしい恋人に、愛を伝えるのを忘れてしまった。電話を切るときや眠りに就く前はいつも言葉にして伝えていたのに。もしかしたら、切る寸前に元貴が何かを言おうとしていたのはこれかもしれない。
明日から多少距離を取ろうとしているのに失敗したな、と天井を見上げる。
いつものルーティンが崩れてちょっと落ち着かない。それを言うためだけに電話を掛け直すのは照れ臭いし、LINEじゃなくてちゃんと声にして伝えたい。
見ず知らずの、それこそ実体さえ浮かばない存在に生活のリズムが崩されていることの苛立ちと、元貴に何かあったらどうしようという不安に溜息を吐く。どうすることもできない自分の無力さにも歯噛みするしかない。
白い封筒を人目につかないようにひきだしの奥にしまって、映画の撮影に備えてシャワーを浴びて眠りについた。
続。
書くほどに構成の甘さやボロが出てしまうことに怯えています。
だからこれは全5話で仕上げたい(切実)。
コメント
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続き待っていました!! ルーティンが崩れるなんて不穏な予感… なくなったリップが恐怖の手紙で出てきてゾッとして、🧡ちゃんの自分のことより❤️のことが心配で泣いちゃうところグッときました 再放送が毎日更新されて楽しんでいるところに、新作もでてきていて、毎日の楽しみです✌️
あーっとね…ちょっと待ってね…睡魔がね、急に来てね…明日また送るわね笑 現時点では何も分かっていないよ😅
あー、好きですこういう話……笑