するとエルヴェは苦笑した。
「そうか、私は始めからそれを君に訊くべきだったのだな。あれはやはり君だった」
「なんのお話しでしょうか?」
「いや、いいんだ。なんでもない。とにかく今君が目の前にいること。それが大切なことなんだ」
そう言うとエルヴェはじっとアリエルを見つめ言った。
「手を……」
言われてアリエルは思わず手のひらを見たあとエルヴェを見つめ返す。
「手、でしょうか?」
「そう。手をつないでもいいか?」
真剣にそう言われ、一瞬躊躇したのち断ることは憚られたため了承した。
するとエルヴェはそっとアリエルの指先に触れ、その指を絡めるとアリエルの手を優しく包み込むように握った。
そうしてエルヴェが無言でずっと手を握っているので、アリエルはどうしてよいかわからなくなり俯くとエルヴェに訊いた。
「あの、殿下、もうそろそろよろしいでしょうか?」
「いや、今君がここにいる。この温もりが本物であるということを、もう少しだけ感じていたい」
ちらりとエルヴェを見ると、愛おしそうに自分を見つめる視線にぶつかり、驚いて直ぐに目を反らした。するとエルヴェはつないだ手に更に力を込める。
「君は私の遠い記憶のままだ。少し見つめると目を逸らす仕草は昔と変わらない。私は今度こそ間違えたりはしない」
アリエルは困惑気味にただじっとしていたが、しばらくして口を開いた。
「あの、もう戻りませんとお体が冷えてしまいます」
そう言うとエルヴェの手をそっと振り払った。エルヴェは悲しそうな顔をしたが、微笑むと言った。
「そうだね、わかった。君が風邪を引いてしまったらいけないからね。残念だが君を解放することにしよう。では、君を部屋まで送るよ」
エルヴェはもう一度アリエルの手をとり歩き始めた。そうして部屋の前までくると、アリエルの額に軽くキスし名残惜しそうに手を離した。
「おやすみ、いい夢を」
去って行く後ろ姿を見つめ、アリエルは思わず自分の額を押さえた。
翌朝どんな顔でエルヴェに会えばよいか考えながら食堂へ降りると、もうオパールは食堂で朝食を食べていた。
「おはよう、オパール」
「お姉様、おはよう!」
そう答えるとオパールは心配そうな顔でアリエルを見つめた。
「お姉様、なんだか疲れた顔をしてますわ。大丈夫ですの?」
昨夜エルヴェと別れて部屋へ戻ったあと、なかなか寝付けず寝不足だったのが顔に出てしまったようだ。アリエルは慌てて笑顔を作ると答える。
「大丈夫、まだ寝ぼけているんですわ」
そうして、アラベルからあんな話を聞いたのにいつもと変わりなく接してくるオパールに少し安心していると、背後から聞きたくない声がした。
「アリエルお姉様、ハイライン公爵令嬢、おはようございます!」
振り向くとアラベルが笑顔で立っていた。
「おはよう、アラベル。貴女も今起きたところですの?」
「はい、そうです。アリエルお姉様、一緒に朝食をいただきましょう」
そう言ってアリエルの横をすり抜けて、オパールの対面に座った。
昨日食堂へ降りて来た時との態度の差に驚きながら、アリエルは手近な席に座った。それを見届けるとオパールが言った。
「ところで、エルヴェなんですけれど王宮から呼ばれて朝早くに帰ってしまいましたの。それにお兄様も」
アリエルはほっとした。
「そうなんですの、仕方ないですわね。お二人ともお忙しいでしょうから」
するとそこでアラベルが口を挟む。
「どうしましょう。私は殿下に連れてきてもらったので、殿下が戻られるならご一緒しようと思ってましたのに」
それを聞いて、アリエルはなんて図々しいのだろうとアラベルの顔を見つめて言った。
「私が帰るときに一緒に乗るしかありませんわね」
すると、アラベルは少し考えたあと申し訳なさなさそうに答える。
「アリエルお姉様、実はこちらに来ることはお父様たちに話していませんの。だから今日にでも屋敷に戻らなければなりませんわ。それに殿下も待っていらっしゃるいるかもしれませんでしょう? アリエルお姉様もせっかく招待していただいていますのに、これからの予定をすべて台無しにしてしまってごめんなさい」
アラベルは申し訳なさそうにそう言ったが、両親にここに来ることを伝えていないなどあり得ない話であった。
未婚の令嬢が一晩屋敷に戻らないなど、社交界に知れわたればとんでもないスキャンダルだからだ。
それにフィリップはこちらが正しいことをしていればとても優しい父親だが、信頼を損なうことをすれば容赦ない。
アラベルの言っていることが本当なのだとしたら、厳格なフィリップのことだ屋敷からアラベルを追い出しかねない。
とにかくそんなリスクを犯してまでアラベルがここに来るとは考えられず、ただ嘘をついてまでもアリエルの楽しい予定を壊したいだけなのだろう。
そう思いながらアラベルを見ると、まったく気にする様子もなく供された朝食に目を奪われている。
と、そこでオパールが満面の笑みで言った。
「あら、お姉様が帰る必要はありませんわね。アラベル、貴女は一応私の招待客ですもの。お帰りになるなら送り届けるまでが私の役目ですわ。ご心配なさらずに」
するとアラベルは目を見開きオパールを見つめた。
「ハイライン公爵令嬢、ありがとうございます。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。でもそこまでしてもらうわけには……」
「いいえ、これは私からの気持ちですわ。遠慮なんてしなくて結構よ」
「昨日会ったのが初めてですのに、私のためにそのようにお心を砕いていただけるなんて本当に光栄ですわ」
そう言うと、アラベルが見下すようにこちらをちらりと見たのをアリエルは見逃さなかった。怒りを抑えながらアリエルは言った。
「よかったわねアラベル。貴女まで戻ってしまうなんて残念ですけれど、殿下によろしく伝えてちょうだい」
どうせエルヴェにろくなことは伝えないだろうと思いながらも、社交辞令でそう言うとアラベルがこの別荘から出ていくことアリエルは内心喜んでいた。
朝食をすませると、アラベルを見送るためオパールとエントランスへ向かった。
アラベルはほとんど準備もなくこちらに来ているため、荷物はほとんどなくすぐに帰る準備ができた。
「ではアリエルお姉様、私は一足先に帰りますわね」
そう言うと今度はオパールへ向き直る。
「ハイライン公爵令嬢、私きっと泥棒の犯人を突き止めその証拠をつかんで見せますわ。待っていてください!」
「そう、せいぜい頑張りなさいな」
「はい! ではお世話になりました失礼します」
そう言うと一礼して馬車に乗った。証拠をつかむとは、あの証拠捏造のことだろうか? そう思っていると馬車の中からアラベルは手を振ってきた。アリエルは思わずそれを無視した。
馬車を見送ると改めてオパールに向き直って頭を下げた。
「妹が迷惑をかけてしまって大変申し訳ありませんでした。突然押し掛けて不躾にもほどがありますわ。あとで叱っておきます」
「別にお姉様が謝ることではありませんわ、連れてきたのはエルヴェですもの」
「そう言っていただけると少しは気が軽くなります。ありがとうございます」
「そんなに気にする必要はありませんわ。それより今日の予定ですけれど、私もう決めてますの!」
「なんですの?」
するとオパールはいたずらっぽく微笑んで、アリエルの腕にしがみついた。
「昨日湖であんなことがあってボートに乗れませんでしたわよね? 今日こそみんなでボートに乗って遊びましょう! ここでの思い出を楽しいものにしなければ!」
「みんなで、ですの?」
「そうですわよ、せっかくみんなで別荘に遊びにきているんですもの!」
そう言ってアリエルの腕をぐいぐい引っ張る。アリエルはオパールの言っている意味もわからず引っ張られるまま歩いた。
そうしてオパールはアリエルを連れて中庭に向かうと、そこにはテーブルで優雅にお茶を楽しんでいるエルヴェとヴィルヘルムがいた。
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