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昼下がりの喫茶店は、いつもより賑わっていた。外の陽光が大きな窓を透かし、木製のカウンターや磨き込まれた椅子の表面に斑になって光を落としている。客足が途絶えない時間帯で、近所の商売人や昼休みのサラリーマン、老夫婦に学生。色とりどりの会話と器の音が店内を満たしていた。
コーヒーの香り、焼き立てのパンの匂い、克明に磨かれたグラスが触れ合う鋭い高音。フランはそれらを、まるで楽団の指揮者のようにさばいていた。手際よくポットを傾け、注文を口にした客一人ひとりにさりげない一言を添える。彼女の動作は無駄がなく、だが決して事務的ではない。少しの間合い、柔らかな声のかけ方、皿の置き方の角度が、常連たちに安心感を与えるのだ。
テレビは壁の高い位置に据え付けられていて、かすかにニュースの音声が店の片隅まで届いていた。画面の字幕には、ロビー前の事件が大きく報じられている。そこそこ大きなテーブルに座る年代の客たちは、視線を時折テレビに寄せては眉を寄せる。話題は尽きない。昨日のこと、朝の惨状のこと、街の噂のこと。フランは客の様子を見ながら、注文の合間に軽く相槌を打ち、コーヒーを差し出す。その表情は柔らかで、しかしどこか聡明な光が宿っている。
彼女の喫茶店は、街の情報が自然と収斂する場所でもあった。客が来れば噂が持ち込まれ、噂は別の客の耳へと渡る。フランはそんな流れを、嫌がらずに受け止めていた。
その午後、街の中心方面からいつもとは違う轟音が、遠くからひりつくように伝わってきた。最初は車のクラクションの重なりか、防災アナウンスのような機械のざわめきかと思えた。だが音は短く鋭く、耳に残る。店内の会話のテンポが一瞬だけ乱れ、誰かが「なんだ今の。」と口をつぐむ。テレビ画面の映像が揺れ、画面内のテロップが一瞬だけ乱れる。窓の外を見る客の視線が一斉に同じ方向へ向いた。空気が変わる瞬間というのは、いつも唐突に来る。音が、匂いが、空の明るさの質が一瞬変わる。客の間で不安が育ち始めるのが、フランにはわかった。
「外、なんかあったのかしら。」
隣の席の女性がささやく。その声に重なって、入口のドアが小さく震え、外側から人の足早な気配が聞こえた。店の奥にいるフランは、手元のカップをさっと拭き、何事もないように微笑みを作る。プロとして、場を乱さないのが彼女の流儀だ。だがその微笑みの端で、瞳の奥にわずかな警戒の影が走った。
長年、街の噂や人の顔を見てきた経験がそうさせる。小さな違和感は、たいてい何か大きなことの前触れだ。店の外では短い悲鳴が一つ、二つ。窓越しに見える通りの向こう、ロビーの方角に、黒い影が稲妻のように走ったという報告が、回覧板の掲示文のように客の間で伝播する。誰かがスマートフォンを取り出し、画面をこすりながら映像を確認する音がした。テレビの音声が一瞬だけ上がり、アナウンサーの声が『市内中心部、複数の暴動か――』と断片的に漏れた。だがその直後、店内の明かりが微かに震え、蛍光灯の白い陰影がちらつき始める。
最初は「瞬間的なブレーカーの変動か」と誰かが言った。だが、瞬間の次に訪れたのは、より奇妙で不穏な静けさだった。蛍光灯のちらつきが長くなり、次第に光が減衰していく。カウンターの上に積んだ紙ナプキンや皿が、光のグラデーションで生々しさを増すはずだったのが、そこはかとなく色味を失っていく。テレビの画面が暗くなり、アナウンサーの口元だけが薄く光って浮かぶ。店内の空気が、一枚の黒い布で覆われたように重くなった。
そして、完全な停電。音が消えたわけではない。だが照明が消えると、人々の視線は一斉に互いの顔を探す。声は小さくなり、カップのぶつかる音が近くで大きく響く。外から差し込む自然光がまだあったため、完全な闇にはならなかったが、店内の温度感は変わる。色と音のバランスが崩れ、日常の輪郭が曖昧になると、人は本能的に不安を募らせる。
子連れの若い母親が子供を抱き寄せ、少し前に座っていたサラリーマンが立ち上がって窓の方へ向かう。窓の外、遠くに黒い雲が出たわけではない。だが街の向こうで閃光が弾き、まるで夏の夕立の前触れのように電光が空を裂くように見えた。
フランは、あくまで冷静を装いつつも一瞬で事態を把握していた。停電の原因は単純な停電ではない。電気の回路が外部から干渉されたように見える。機材の弱点を突くような、精密な何かの痕跡。喫茶店の小さな厨房に回ってブレーカーを確かめる余裕は彼女にはない。客たちの不安を増幅させないためにも、まずは落ち着かせる必要がある。
フランは手早くカウンターの引き出しから小さな懐中電灯を取り出し、明かりを灯す。油断のない光が、カップの縁をほんのり照らす。暖色の光だ。イカタコの顔は暖色の光で見えると安心する。フランはそれを知っている。
「大丈夫よ。少し停電みたいね。外で何か起きてるみたいだけど、ここは安全にしておきますから、ゆっくりしていって。」
彼女の声はいつもの通り落ち着いているが、そこに寄せられた言葉は確かな指示になっていた。客は戸惑いながらも椅子に戻る。重苦しい沈黙が少し和らぐ。フランは店員に合図を送り、入り口を軽く閉めさせると、カウンター脇の小さな箱からろうそくを取り出した。火を灯す仕草は慎重で、長年の習慣が滲む。ろうそくの炎は紙コップに映り、短い影を踊らせる。瞬時に店内の色合いが変わり、人々は無意識に安心の吐息を漏らす。人の心理は小さな光に救われるものだ。
そのとき窓の外、通りの方から人の叫び声と、金属同士が擦れるような鋭い音が混ざって聞こえた。店の外に視線を走らせていた客たちが再び身を乗り出す。窓の向こう、広場の方角に黒い点が動いている。最初は人混みのせいかと思えたが、その群れの動き方が異様だった。整然と散開するのではなく、いくつもの焦点から同時に同じ動きをしている。そこに立つ何者かが、わざとらしく動線を作っているかのようだ。客の一人が「何だあれ……」と声を漏らす。
誰もがその正体を確かめようとスマホを向けたが、電波も途切れているらしく画面は断続的に止まる。窓ガラスに映る外の動きは、フランの店内の揺らぎと重なり、まるで別の世界を映す鏡のように不安を増幅させた。
フランは、窓の外より先にカウンター内の事務スペースに戻り、奥の棚から小さなラジオを取り出してチューニングを試みる。電源が落ちているのか、受信は途切れ途切れだ。だが断片的に『ロビー前で……多数の犠牲……』という断片が入り、フランの顔が一瞬強まる。街の大きな出来事は、表情に反応を生む。店の常連客の中には昔から物事の筋道を読む人もいて、彼らから出る落ち着いた
「これは単なる事故じゃない。」
そうした言葉が、店内に低く広がる。
外ではさらに事態が激化していた。遠目に見えていた「動きの焦点」は、やがて視認できる形をとりはじめる。光の閃きとともに、空気が一瞬裂けた。稲妻のような閃光だが、雲はない。空に走るその閃光は自然現象のそれとは違い、鋭く、制御された印象を与えた。理解するのに瞬間を要した人々は口を半開きにして外を見つめる。建物の屋上で何かが跳ね、立ち尽くす物体の輪郭が明瞭になる。人の形に見えるその「何か」は、稲妻の光を纏い、立っている。誰かが叫んだ。
「あれは…!」
言葉はそこで切れる。店内の客たちは互いに顔を見合わせ、表情が変わる。フランの指先が小さく震えたが、その震えはプロフェッショナルな所作で抑えられる。彼女は客に向けて低く「ここにいて」と促すだけだった。停電の原因は次第に明白になっていった。外の光の奔流は、配電線を叩くように広がっていき、街路灯が順に落ちていく。自動車のヘッドライトが一瞬だけちらつき、その後多くが停まる。窓の外に現れた人物の一人が手を上げると、吐く息のように周囲の電流が曲がるのが見えた。フランはその光景を見て、言葉少なに呟く。
「稲妻を操るチーターね……。」
彼女の視線が固まる。客の中には通報を試みる人もいるが、携帯は圏外か電波が途切れているようだ。外の混乱がやがて音となって店内へ届き、パニックの気配が強まる。子どもがしくしくと泣き出し、年配の男性が黙って帽子を握る。
そんな中でも、フランは火のついたろうそくをていねいに並べ、客に温かい飲み物を差し出し続ける。彼女の手は止まらない。喫茶店の灯りは、いまや物理的な火のみ。だがその火は人々の心理を繋ぎとめ、場の秩序を保つ端緒になる。
窓外の動きがさらに近づく。人々のざわめきが低くうねる。看板が揺れ、車のクラクションが短く鳴る。店の扉の外に立っていた配達人が、店内に滑り込み、大声で息を整えながら言う。
「屋上だ、あいつら、屋上にいる。稲妻みたいな奴と、何か銃をばらまいてる奴がいる!」
彼の言葉に店内の誰もが息を呑む。フランは無言で頷き、さらにろうそくの配置を整える。その動きは、ただの女将の仕事を超えて、場を守るための配置であることが感じ取れる。火は客の顔を柔らかく照らし、目に見えない秩序を生む。
屋上で見える稲妻の人物の姿は、都市のスカイラインと相まって、異様な影絵を空に投げかける。稲妻を操る者の輪郭がはっきりし、隣には、床や看板、路面から何本もの鉄砲の筒が突き出しているように見えた。銃口が地面や壁から突出して弾を吐く。通行人が悲鳴をあげ、走り去る。フランはその光景を見て、ただ一言だけ低く呟いた。
「……一刻も早く、ここを安全にしないと。」
彼女の言葉は自分への宣言でもある。店内での対応は瞬時に合理化される。フランは常連の中で落ち着いている客を探し、その手を引いて奥のテーブルへと促す。老人には温かい毛布をかけ、母子にはそっとおもちゃを渡し、何より子どもの目の高さに明かりを置く。誰かがラジオの周波数を必死で探している。
誰かがスマホの小さい画面で外の映像を繋ごうとしている。だが情報は断片的で、混乱の輪郭を掴むには至らない。フランはそれでも客の顔を一人ひとり見渡し、安心のための言葉を選びながら繰り返す。
「ここで温かいものを、ゆっくり飲んで。外の騒ぎはここでは入れさせないから。」
そのとき、店のバックドアの隙間から、かすかな振動が伝わる。外の床が微かに震えるような感覚だ。店内のガラスがかすかに鳴り、ロビーの方から振動に合わせて遠い音が上がる。フランは動きを止め、耳を澄ます。外の空気が店の中に流れ込むと、冷たい電気の匂いが鼻腔を刺した。
自然界の雷とは違う、金属が擦れるような、選択的な電気の匂いだ。それは作為的なもの誰かが、ある種の装置か能力で配電網を操作している証拠だと、瞬時に察せられる。
客の不安はピークに達しつつあった。会話の断片が増え、恐怖と興奮が混ざった声が自然と大きくなる。だがその中でもフランは冷静に、しかし確実に場を保っていた。停電の影響で店内の雰囲気は夜のものに近づき、ろうそくの柔らかな炎がゆらりと揺れるたびに、誰かがまた小さな笑いを取り戻す瞬間があった。そうした一瞬を彼女は大切に守った。
外はまだ騒がしく、街の上のほうで稲妻がまた走る。屋上の影は人の形をして、そして徐々に動きを見せる。通路を駆ける足音、鉄の軋み、何かが空を引き裂くような低い音。フランはその音に合わせて、店の奥の棚から更に幾つかのろうそくを取り出し、窓際のテーブルにも灯を灯した。小さな光の輪が店内を満たし、そこに居る人たちの顔を守った。
停電の翌刻、街のニュースは再び動き出すだろう。だが今はこの喫茶店が、ただ一時の避難所である。フランは店の片隅で、一人の客が震えているのを見つけると、何気ない話題で気持ちを逸らす。店の中にいる人々は、外の恐怖を共有しているが、フランの存在によって一つの屋根の下にまとめられる。
昼の賑やかさは消え、そこに残るのは薄い陽光とろうそくの温かさ、そして人々の思い出を語る低い声だけだった。外で何が起きても、この小さな灯りは誰かの手の中で消えることなく、続いていく。
狭い部屋の天井は低く、蛍光灯のカバーには薄い埃の膜が溜まっている。窓の外の街路灯が途切れ途切れに差し込み、白っぽい柱の光が床に細長い筋を作る。スロスはその筋のひとつに沿って寝床の端に腰を預け、小さなテレビの画面をただ見つめているだけだった。彼女の姿勢はだらりとしているようでいて、実は無駄のない角度で体を丸めている。眠くはない。彼女にとって「眠る」という行為は義務でも慰めでもなく、むしろ時間の無駄に近い。
だがベッドに横たわるのは習慣であり、テレビの青白い光が顔の輪郭に冷たく張り付く感覚は嫌いではない。部屋の隅には、小さな箱がひとつ無造作に置かれている。蓋はきちんと閉まらず、内側の布が少し擦れて光る。そこに何が入っているかは誰にも分からない。スロス自身にも、説明は必要ない。チラリと視線を落としてから、すぐにまた画面に戻る。
どこのチャンネルでもニュースキャスターの声が淡々と、事件の悲惨さが流れてくる。映像はロビー前の広場の映像を繰り返し、赤いテロップが何度も「現場は混乱」「被害多数」と告げる。映し出されるのは尖ったショットやフェードで切り替わる断片で、詳細は編集された短い断片の集合に過ぎない。それでも、画面の隅に映る群衆の表情や、広場に残る血の色の濃淡はスロスの目に届く。彼女はその事実を淡々と受け止める。驚愕はしない。
表面にはほとんど何も漂わない。ニュースの音声が部屋の空気を振るわせるたびに、スロスの肩がわずかに震えることがある。それは生理的な反応であり、必ずしも心の揺れを示すものではない。画面の中の映像に、あるいは流れるテロップに、彼女は一つの言葉を見つける。
「並行のチーター」
その文字の並びが、脳の奥にあった古い警告灯を微かに点滅させる。思考は即座に仕事を始める。並行という概念が持つ意味、報告されている「複数同時出現」という証言、そしてそれを討ったという存在「狩人」と呼ばれる者たち。言葉は既視感をともなって胸の中を通り抜ける。スロスはそれを、別の何かと無意識のうちに結びつける。家族のこと、祭儀のこと、街の空気が変わっていった過程。液晶が放つ冷たい光が、幼い顔をわずかに白く照らす。画面で流される映像は断片的だ。だがスロスの頭の中ではそれが一本の線として繋がり始める。
誰かが見せしめのように無差別に手を伸ばしたのか、あるいは何かが街を決定的に変化させたのか、それはまだ判断がつかない。彼女は画面の中に映る人々の表情を一つずつなぞるように視線を移す。驚く顔、逃げ惑う影、固まる足取り、そして時折入る武装した影の輪郭。スロスの目はそれらを冷たく分析する。彼女には「恐怖」という感情が、理屈としてではなく体の中でどう作用するかを知る経験がある。
恐怖は足を止めさせるための道具にもなりうるし、逆に相手の隙を見出すための手がかりにもなる。テレビの向こう側で何が起きているのか、誰がどう動いているのか、彼女の内部で可能性の地図が描かれていく。画面が切り替わり、現場の取材映像の合間に挟まれるリポーターのコメントが耳に入る。
「目撃者の話では、四匹の黒い装束の者たちが現れ、並行のチーターを討伐したと証言している。」
その「四匹」という数が、スロスの視界内の何かを確かに変える。四という数字が意味する編成、チーム、連携の痕跡。彼女は一度だけ息を吐いたが、その呼気は静かで、ほとんど音を立てなかった。胸のどこかが、薄く疼く。かつて家族を失ったときにも、彼女はこの疼きを感じていた。それは怒りでも悲しみでもなく、むしろ世界を測るための計器の針の揺れのようなものだ。ニュースは続き、ロビー前の映像に切れ目が訪れるたびに、スロスは古いテープのように頭の中の断片を再生させる。
血の匂い、鉄の温度、冷たい床。それらの感覚は今も彼女の体に刻まれている。テレビのアナウンサーが、被害者の数や当局のコメントを読み上げる。どこかで知られた顔がインタビューに答えている映像も流れるが、スロスは誰の言葉にも耳を傾けない。ただ映像の端々を拾い、その中に潜む因果の糸を引っ張る。彼女は自分が何をすべきかを順序立てて考え始める。
会う。狩人と会う。この考えが脳裏にちらつく。
「そろそろ……会わないとめんどくさそうだな……。あいつの事もあるし…。」
彼女はふと部屋の天井を眺める。蛍光灯のチカチカした残像が、瞳に一瞬だけ踊る。外からは誰かの足音、遠くで響く工事の音、そして時折交じる警報の延長音が流れ込む。スロスは再び小さく笑ったような音を立てる。笑いというには小さすぎる。彼女には、その程度の反応が十分だった。画面の中では「狩人」と呼ばれる者たちの噂がさらに広がる。いや、あれが「不正者狩り」と呼ばれているものなのか。
誰が正義か、誰が悪か、といういつもの議論が掲示板上で踊っているらしいとテロップが伝える。スロスはスマートフォンを取り出す素振りすらせず、ベッドの上でじっとしている。身の回りのものが少しだけ風に揺れる音が聞こえる。彼女はその音を数え、次に動くべき場所を心の中で確かめる。朝日の薄い筋が窓を這い、テレビの画面がほんの少しだけ白みを帯びる。スロスはゆっくりと体を起こした。
足を床に降ろし、冷えた板の感触を確かめる。部屋の空気はまだ夜の名残を含んでいて、呼吸をすれば金属のような味がする。彼女は無言のまま壁際へと歩き、古びた棚の裏に手を伸ばす。その動きは慣れており、何度も同じ手順を繰り返してきたのが分かる。指先で小さな窪みを探り当てると、カチリという音が鳴った。ほんの一秒の沈黙のあと、棚の背面がゆっくりと横に滑る。外の光が差し込まない黒い穴が現れ、その奥から微かな風が吹き上がる。秘密の扉だ。誰も知らない。誰にも知られたくない。スロスはその入口に一瞬だけ目をやり、淡く笑うように息を吐いた。
「……こっちは…まだ静かもね……。」
その声は自分自身に向けた独り言のようでもあり、何か見えないものに話しかけているようでもある。彼女は棚の奥に足を踏み入れる。扉の中は狭い通路になっており、コンクリートの階段が下へと続いている。壁には無数の傷があり、ところどころに貼られたメモ用紙や紙片が時間の積み重ねを物語っていた。スロスはその階段を降りていく。
素足がぺた、ぺたと響くたびに音が吸い込まれ、下方の暗闇に沈んでいく。十数段を降りたところで、空気の密度が変わる。重く、湿って、静かで、そして本の匂いがする。階段の終わりにたどり着くと、目の前に広がるのは途方もない数の本棚だった。何十、何百という書棚が規則正しく並び、奥の奥まで見えないほどに続いている。高い天井には古い鉄骨が走り、裸電球がところどころでぼんやりと光を落としている。その光は弱く、黄色く、まるでこの場所そのものが呼吸しているようだった。
スロスは一歩進む。靴底が古い木の床を軽く軋ませた。棚の中には整然と本が並べられているが、よく見ると一部は崩れかけていて、数冊は床に散らばったままだ。彼女はそれを拾い上げ、背表紙を指でなぞる。タイトルは擦れて読めない。だが、覚えている。これは村がまだ息をしていた頃に、誰かが読んでいたもの。祭りの前夜に焚き火のそばで語られていた寓話の写本。燃えるはずだった紙片を拾い集め、自分の金で買い集め、増やし続けた結果がこの地下図書室だ。
棚の奥へ進むごとに、空気が柔らかくなる。古い紙の匂いが心臓の奥に沁み込み、ほんの少しだけ温度を上げる。スロスはその感覚が嫌いではない。彼女はふと、真ん中の大きな机に向かう。机の上には開きっぱなしの本が何冊も置かれ、ところどころにメモが挟まっている。字は小さく几帳面で、だが行の端に滲みのような歪みが見える。読みかけの印だ。ページの隅には、彼女自身が描いた小さな印「完」の文字がいくつか。
だが圧倒的に書かれていない「未」のほうが多い。スロスは椅子に腰を下ろし、ページの上に手を置く。指先が軽く震える。それは寒さのせいでも、疲れのせいでもない。単に、この本を開くたびに思い出すことが多すぎるからだ。
「全部、読むのに……あと何年かかるんだろ。」
声が静寂に溶ける。時間は彼女にとって意味を失って久しいが、それでもまだ終わっていないという感覚だけは確かに残っている。彼女はページをめくり始める。パラパラと乾いた紙の音が響くたび、記憶のどこかが刺激される。戦いの記録、古い神話、街の発展史、そして「カズ」という存在、「神」についての断片的な記述。どれも断ち切られた文脈を繋ぐための材料に過ぎないが、スロスにとっては必要なものだ。彼女は一冊をめくるたびに、村の光景を思い出す。夕暮れの坂道、空気に混じる土の匂い、そして誰もいなくなった家。
机の上のランプがふっと明るさを増した。電圧が安定したのか、それとも何かが近づいたのか。スロスは視線を上げる。図書室の奥、闇の向こうで何かが軋んだ。古い本棚の木が、空気のわずかな流れに反応して鳴ったのだろう。彼女は再び視線を落とし、読みかけの本に戻る。指先がゆっくりと行間をなぞり、言葉を吸い込んでいく。その顔は無表情に見えるが、瞳の奥には確かな光が宿っている。それは知ることへの渇望。
もう誰も信じない彼女に残された、唯一の衝動。ページを閉じる音が静寂を破るたびに、スロスの心臓は淡く鼓動を刻む。いつの間にか時間が過ぎていた。時計など置いていないが、上の世界ではきっと朝の放送が終わり、街が動き始めているだろう。スロスは本を閉じ、机の上に重ねる。息をひとつ吐き、天井を見上げる。そこには何の飾りもないコンクリートの壁が続くだけだが、彼女にとっては空の代わりだった。ここにいる限り、自分は安全だと、そう信じたかった。だが、心の奥ではわかっている。この静寂も長くは続かない。
地上の騒動は彼女の耳に届き、やがて彼女の足を動かす日が来る。その時が来たらそう呟くように、スロスは再び本の背表紙を指で撫でた。
「次は……この続き、読めるかな。」
ほんのわずかに微笑んだように見えたが、それは一瞬で消えた。ランプの光が揺れ、彼女の影が長く伸びる。スロスは椅子を引き、再び立ち上がる。目の前の本棚はまるで森のように広がり、そこに眠る言葉たちは誰も知らない時間を生きている。彼女はその中心に立ち、深く息を吸った。古紙とインクの匂いが胸の奥に染み込み、記憶の中の村のざわめきが微かに蘇る。スロスは目を閉じた。まだ出る時ではない。まだ外は早い。
けれど、確実にその時は近づいている。彼女はそれを、肌の感覚で知っていた。