「これで、完璧ですね。
今、アリアさんに逢わさせて差し上げます。
きっと、貴女も彼女の優しさに触れたら
疲れが癒えるでしょう」
真っ白くなった猫を
ふわりと腕に抱き上げながら
時也はするりと襷紐を解いた。
やわらかな毛並みに
微かな湯の香りと洗いたての清潔な気配。
タオルの中
猫は満ち足りたように喉を鳴らし
小さな鼻先を時也の襟元に押し当てていた。
そのまま、足音も柔らかく
時也はバスルームから
リビングへと戻ってくる。
「アリアさん、お待たせいたしました。
こちらが、例の猫──」
だが。
その瞬間だった。
猫の耳が
ピクリと動いたかと思うと──
ふわふわと整えたばかりの毛並みが
ブワッと逆立つ。
「───っ!?」
低く唸る音と同時に
猫の背が丸まり、全身に緊張が走る。
「痛っ⋯⋯!」
鋭い爪が、時也の腕をかすめて走る。
真っ白な毛を散らしながら
猫は飛び降りると
爪を地に叩きつけるように立て
しゃあっ──と牙を剥いた。
唸り声は低く
威嚇の火種は明確に
一つの方向へと向けられている。
アリア。
彼女はソファーに腰掛けたまま
静かに猫を見下ろしていた。
深紅の瞳には、怒りも、驚きも
戸惑いさえなかった。
まるで──
最初から
こうなる事を知っていたかのように。
リビングにいた全員が
空気の張り詰めを感じたその時──
猫が、飛んだ。
爪を振りかざし、牙を剥き
容赦の欠片も無い突進。
その身の小ささを嘲るような
恐るべき速度と気迫だった。
ソーレンが
椅子を蹴って立ち上がりかけた
その瞬間──
だが、間に合わなかった。
アリアは、動かなかった。
座したまま、目を伏せもせず
襲いかかる白い影を真正面から迎えた。
爪が頬を抉り
首筋に牙が食い込み
血が一閃──
それでも彼女は
腕も振るわず
目を逸らすこともなく
ただ静かにその暴力を受け止め続けていた。
紅い花のように、白いドレスに血が滲む。
それでも
アリアは一言も発さず──
ただ、そこに座り続けていた。
猫は、何度も何度も、爪を振り上げた。
肩口に引き裂くような傷を与え
彼女の髪を噛み千切り
それでも⋯⋯
アリアの瞳から
涙も叫びも
一滴として零れることはなかった。
静謐の中、ただ一つ──
雪原のような身体が紅に染まる
白猫の咆哮だけが
空間を切り裂いていた。
「⋯⋯や、やめなさい⋯⋯っ!」
呆然とした顔で立ち尽くしていた時也が
ようやく我に返ったように叫ぶと
乱暴に暴れ回る白猫に手を伸ばした。
猫は鋭く威嚇の声を上げながら
空中に跳ね
なおもアリアへと牙を向けようとする。
だが
その身体を抱き締めるように
時也が自らの腕に押さえつけた。
「⋯⋯大丈夫、大丈夫ですから⋯⋯
落ち着いてください⋯⋯っ!」
小さな身体には
想像もつかぬ程の力があった。
前脚が時也の袖を裂き
腕を噛み
爪が血を滲ませていく。
それでも
時也は力を緩めず
その白い命を抱きしめ続けた。
猫の熱が、怒りが
呼吸の乱れと共に伝わる。
「⋯⋯良い。
気が済むまで⋯⋯やらせてやれ」
低く、静かな声だった。
時也は驚きに目を見開き
猫を押さえたままアリアを見つめた。
彼女の肩や頬には
いくつもの裂傷が刻まれ
首元には牙の痕が紅く広がっている。
それでも
アリアは身じろぎ一つせず
ただ、猫に正面から向き合っていた。
「しかし⋯⋯アリアさん⋯⋯っ」
時也が困惑と痛みを滲ませて呼びかける。
アリアは深紅の瞳を細め
白猫をじっと見据えながら
ゆっくりと口を開いた。
「⋯⋯良いと言っている。
怨みを、晴らさせる事が⋯⋯
せめて、私にできることだ」
静謐。
その一言が場の空気を瞬時に凍らせる。
ソーレンも、レイチェルも
青龍すらも──
ただ
その意味を飲み込めずに立ち尽くしていた。
アリアの言葉に、宿った意味。
その響きに──
ようやく誰もが気付いた。
この猫は、ただの猫ではない。
この怒りは、理不尽ではない。
この爪と牙は
過去から連なる哀しみの証だ。
──転生者。
その言葉が
誰の口からも発せられぬまま
喉元で凍り付いていた。
時也の腕の中
猫はとうとう疲れ果てたように
ただ小さく震えるだけになった。
呼吸が浅く
喉の奥で鳴る声も
もはやか細い。
アリアはゆっくりと立ち上がる。
傷だらけの身体のまま、猫に近付き
その頭にそっと手を置いた。
その指先に触れた瞬間──
白猫の身体が、僅かに震えた。
「⋯⋯すまなかった」
アリアは静かに
だが確かな手つきで
猫の頭を撫で続けていた。
指先が触れる度に
白く美しい毛並みが
震えるように揺れる。
その声音に宿る痛みと
長き時の重みは
誰も口を挟めない程に深く沈んでいた。
「すまなかった⋯⋯⋯ティアナ」
その名を口にした瞬間──
猫の瞳が、大きく見開かれた。
透き通る蒼の瞳孔が一気に広がり
耳がぴんと立つ。
「⋯⋯あっ!」
時也の驚きの声が漏れたのと同時に
猫は彼の腕からふわりと飛ぶと
一直線にアリアの胸元へと飛び込んだ。
勢いを殺すことなく
アリアの胸に顔を押し当て
小さな身体が震えた。
そして、
猫はアリアの頬に残された爪痕を
そっと舐めた。
温かな舌の感触が
血の残滓をすくい取り
やがて彼女の頬にその額を擦り寄せた。
「⋯⋯ありがとう。
お前は、私の⋯⋯唯一の友だったな⋯⋯」
その囁きは震えていた。
「⋯⋯手に掛けるのが
どれほど⋯⋯辛かったか⋯⋯⋯」
アリアは、猫を両腕で優しく抱きしめた。
その白い身体を
紅く染まった服の上に包み込み
頬を猫の額に寄せて目を閉じる。
小さな嗚咽のような息遣いと共に
彼女の長い睫毛の先から
一粒の涙が溢れた。
それはただの水ではなかった。
限界まで押し込めた哀しみ
溢れるように募った懺悔
千年という時の底で濾過され
凝縮された感情の結晶──
透明な、まるで朝露に似た美しき光の粒。
それはそっと頬から滑り落ち、床に──
カラリ。
美しい音を立てて、転がった。
時也はゆっくりと膝をつき
目の前に落ちたそのひと雫を手に取った。
掌の中で揺れるそれは
まるで命の欠片のように
仄かに光を反射していた。
──アリアの涙の宝石。
それは
彼女が心から流した
数少ない〝感情〟の証だった。
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