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――毎週、日曜の朝は九時に家を出る。電車に乗り――今日はなにを話そうか、なんて考える。胸のうちを占めるのは荒木のことだ。奥村冴子こと荒木英雄。女性名のペンネームだからてっきり女性だと思っていたのに……。そういう嘘をつくあたりがいじらしい。
いつもいつも円のことばかり考えていた。夫の浮気が発覚してからは夫婦生活ってなんだろうって……。円優先でわたしの生活は成り立っていた。――が、荒木に会う前のこの時間だけは、荒木のことを――それから本のことばかりを考えていたい。
荒木に『あの』提案をしたのは復讐心もある。荒木は――作家だから、わたしの結婚指輪に気づかないはずがない。けれど、彼は、初対面のときは、自分の話を主にしていたが――知りたい、というこちらの趣向を理解してか――以降は本や映画、漫画やドラマの話ばかりしている。
たわいもない世間話。そんな話をする相手すら――存在しなかったのだ。円は、利発な子で、三歳の頃から、対等になった――子ども扱いされるのを嫌がる。自己主張をする。それから、頭がいいので、相手が子どもだと思って適当な嘘なんかついたらしっかり彼女は覚えていてあとから――糾弾されるのだ。大人顔負けの子どもで、誇らしいような嬉しいような――まあ、そこそこ大変ではある。子育てが。
荒木との邂逅は、それを忘れられるひとときであった。一ヶ月ものあいだ、この交流は続いている。
11月最後の日曜日。荒木は――先に店に来ていた。実はまだ、彼の連絡先をわたしは知らない。知らなければそれでいいと――思っていたのだ。群青色の編み込みのセーターが似合いで、わたしは思わず見惚れた。――夫と違って体型が崩れておらず、シュっとしていてそこがまた――魅力的だった。
ボックス席に座る荒木の前に座り、店員さんが来るとブラックで、とわたしは頼んだ。「……寒くなってきたね。荒木くん、風邪とか引いてない?」
「いや、全然」と荒木はコーヒーに口をつけない。わたしのが届くまで待つ――そういうところが、いじらしくてたまらない。「手洗いうがいとか徹底してるから。風邪薬は予備を置いておいて、あやしいと思ったら飲んですぐ、眠るようにしている」
わたしは笑みを抑えきれず訊ねた。「――『あれ』。見た?」
「見た見た」と荒木は笑みを見せる。「なーんであそこまですれ違っちまうんだろうな。さっさと行動しろよ。本人に確かめろよって話だよなあ。でもまあ、くっついちまったら恋愛ドラマなんてさっさと終わっちまうし――あれはあれでいいんだろうとおれは思うけどよ」
荒木のさっぱりとした物言いがわたしは好みだ。「わたしも――ボロクソ言いたいドラマや映画とか腐るほどあるけど、でも、表では言えないじゃない? ――酷評とか。だから、映画のレビューとかで酷評してるひととか、ある意味羨ましいよ。自分に正直に生きているんだよね」
「――作者を傷つけはするがな」
悄然とした言い方に、わたしは、荒木が作家であることを思い起こしていた。――つい、会話がエキサイトするとわたしは彼の立場を忘れがちだ。「でも……。人気があるってことは、それだけ惹きつけられるなにかがあるってことよ。酷評は愛情の裏返し。翻訳すると『面白い』ってことなのよ……。我々だって、『あれ』、なんだかんだ言って見てるじゃない……」
「おれ、ドラマは最後まで見る主義なんだ」
「あら意外」とわたしは届いたコーヒーを口に含み、「わたしは、開始十分で、合わないのは切るわ。映画なら最後まで見て――貴重な二時間を返せ馬鹿野郎! ……って、画面に向かって叫んでいる」
「あっちゃんも外に意見を出すひとだからさぁ」わたしは荒木に、自分が書評書きだということはカミングアウトしている。――彼は、わたしの書評を褒めてくれた。どきどきする。果たして、一発屋とはいえ、世に小説という素晴らしい作品を送り出した作家に自分の分析がどう評価されるのか――恐ろしくもあったのだが。
『面白かったよ』と彼は言った。『書評家がみんなみんな――篤子さんみたいなひとばかりだったら、おれは――傷つかずに済んだのにな』
あのとき見せた荒木の、寂しげな目が忘れられない。だからこそ――だから、わたしは、荒木との交流を選ぶのだ。
「表ではそんなこと言えないもんなぁ」と、荒木はわたしの胸中を思いやる。「ネットで下手なこと言ったらすぐに炎上するもんなあ。感想では炎上しないのになあ。理不尽だよなあ。不倫で会見なんて昔は――しなかったのになあ」
わたしは敢えて荒木に訊ねた。「……不倫は、悪いことだと思う?」
「……きみは、復讐のつもりでこれをしているの?」
「その気持ちもあるけど……」とわたしは正直に認めた。そうか、荒木は――見抜いているのだ。「そう。うちの夫、浮気をしているの。九歳も年下の女と……。
復讐心が三割。残りの七割は――そうね。単に、あなたへの好奇心。書評書くのって孤独な作業だから……小説家ほどではないかもしれないけど、それなりに労苦も伴うし。分析が甘いとかバッシングコメントがつくこともあるわよ。にこやかに返信するけどね。だから、わたしは……」
わたしは荒木の目をしかと見据えて告げた。
「同じ孤独を分かち合うひとが欲しかったのかもしれない」
魂と魂が触れ合う。そんな瞬間をわたしは――いままでに経験したことがなかった。
燃えるような感情が荒木の目には宿っていた。彼は――
「……ぼくの家、この近くなんだけど……来る?」
わたしを取り巻く環境を察知しているにも関わらず。わたしの心理を見抜いているにも関わらず、荒木は言っているのだ。おれの胸に飛び込め。おれに――抱かれろ、と。
わたしは頷いていた。それが――どんな結果を導くかを分かっていても。「……はい。行きます」
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