帰り支度を整えるわたしに荒木が言った。「おれ、……あっちゃんのこと、本気だから。これで終わりにするつもりなんかないから」
つい先ほど、男の陰茎を貪っていた口が動く。「……駄目。これで終わりにするの」
裸のまま、ベッドのうえであぐらをかく荒木がわたしに尋ねる。「……おれとのセックス、いまいちだった?」
――とんでもない! とわたしは叫びたかった。荒木といったら……流石は小説を書く人間なだけあって、人間の機微に敏感だ。わたしの気持ちいいところを探り当て、そして執拗と言えるほどに責め立てた。脳内はドーパミンが出た状態、からだからは女性ホルモンがどばどば出ているわ。
「……そんなことはないわ」とわたしはいなした。「じゃ、わたし、……帰るから」
「送っていく」
「いい」とわたしは首を振った。「誰かに見られでもしたら……困るもの」
そしてわたしは荒木の住むマンションを出た。なにあれ……。
なに、あれ……!
いままでにとったことのないアクロバティックな姿勢まで取らされた。自分のからだがこんなにも動くとは、思いもしなかったのだ。荒木といったらもう……最高。わたしの全身を舐めまくって……指の先から足の指に至るまで。全身を性感帯にしやがった。まったく。同い年なのに恐れ入る……。
(最高。最っ高……!)
浮気をする理由はこれなのかと思う。これなのだ。きっと美冬も……うちの夫に、感じたことのない快楽を味わわせているに違いない。美冬のあの勝ち誇ったような表情を思い返し思う。……他人とだから。夫婦じゃない、他人とするセックスだから楽しいのだと。
あーあ。理解した。理解しちまった……。夫を糾弾する側の主婦がさぁ。――不倫って、いつからあんなにも罪深い行為になったのだろう。昔は不倫したからって会見なんか開かなかったし、勝新太郎の世代にとっては、不倫は男の勲章……だったはずだ。まあ男尊女卑も甚だしいって説だがね。改めて思う。
不倫は……人間を、駄目にする。世間様に顔向け出来ない行為……その辺の事情はさておいてだ。荒木とのセックスは、最高だった。手放せない、麻薬のようなものだと思う。きっとわたしは夫や娘が寝静まったあと、ひとり、トイレで、荒木との行為を思い返しながらオナニーをするのだろう。
性欲なんか、ないものだと思っていた。時折官能小説なんか読むと疼くことはあったが、なければないで、別に、生きていくのに困らない代物だもの。
さて、考え事をしているうちに駅に到着。大勢の人間を見て思う。このなかに……不倫をしている人間はどのくらいいるのだろう。他人の不倫を糾弾する人間は、どのくらい? ――分からない。が、世間の皆様の声を聞く限り、不倫はいけないことだとみなすのが一般的だ。しようものなら降板させられたり違約金を支払ったり……芸能人がしようものならすさまじいほどのペナルティが待ち受ける。恐ろしい。一般人でよかったわたしも夫も。
電車に乗り、携帯を見ると、待ち受け画像が娘のもので――胸が痛んだ。そして真っ先に――娘のことが思い浮かばなかったわたしは母親失格だと思った。
荒木に服を脱がされるとき、どうしよう、とは思った。ちょっと待って、と言いたかった。でも――空腹で空腹で飢餓状態の動物の目の前に、美味しいお肉の塊を垂らされたらその動物は、どうするだろう。荒木の裸体はわたしにとってそのような意味を持つ。――だから、抱かれた。
いざ挿入され、荒木が動くと、わたしの脳内はスパーク状態。いままでにないくらいに乱れた。夫では得られない快楽を、味わわせてくれた。荒木は、すごかった。
いままでどこでなにをしても、頭の隅に常に、娘のことがあったのに。ひとりでショッピングに出かけても、円ならこれ着るかな、このぬいぐるみはどうだろう、と円のことを思い浮かべていたのに。荒木との行為に溺れていたときは完全に、脳内から円のことが消え去っていた。
さて。荒木とのことを、どうしよう……。スーパーで何食わぬ顔をして食材を買い、帰宅した。帰宅すると相変わらず夫はテレビ画面でゲームをやっており、玄関に円の靴がなかった。
分かってはいつつもわたしは夫の背中に訊ねた。「……円は?」
「出かけてる」
見れば分かるんだけどさ。「……お昼はどうしたの」
でかい画面から視線を譲らず夫は、「コンビニで買って食べた」
「あそう」わたしは荒木に誘われる前に、『お昼ご飯はふたりで食べて』とショートメールを送っておいた。夫からの返信はなかった。つくづく――やり取りを嫌がる男だ。だから友達もいないんだぞと。そんな夫との会話を打ち切りにし、わたしは、かつ丼を食べた。お昼からがっつり行くねえとは思うが――激しい運動をして、とにかくお腹が空いたのだ。スマホを見ながら遅めの昼食を食べていると、
『いま、お昼ご飯食べてます。あっちゃんは?』
荒木からメッセージだ。嬉しい。頬が緩むのを抑えきれない。『いま、これ食べてます』
写真を撮って添付した。シャッター音が聞こえようが、どうせ夫は気にしない。すぐそこにいてゲームに没頭していても。
『あはは。がっつり行くねえ』
それから数回やり取りして荒木との会話は終了した。――因みにうちの夫は、自分が浮気をしておいて、わたしの浮気は疑う様子がない。この一ヶ月あまりでよく分かった。こんなわたしを相手にする男なんざいるはずがない――と高を括っているのだ。
許せない。
という思いも、わたしのなかに存在する。他方、夫が浮気をする気持ちも分かるのだ。夫だから、妻だから言えないこともあるし、それに、毎日見飽きた人間とセックスをしたところで、楽しいことなんかなにひとつとてない。今更だ。あーあ。
どうして結婚したら、他のひととセックスをしたらいけないんだろう。そんなの――無理なのに。結婚相手に恋愛をするなんて不可能なのに。ましてや夫は――浮気をしている。そんな夫には今度二度と指一本触れさせない。スキンシップでさえごめんだ。
夫に怒りを感じる一方で、浮気を楽しむ自分はなんなのだろう。悶々とした気持ちで食べ終え、台所に入り、料理をする。最近、どっしりと重い鋳物の鍋で調理をするのにハマっている。圧力鍋と比べると煮崩れもしにくいし――煮込み時間はかかるものの、とにかく美味しく仕上がるのだ。寒くなってきたのでトマトシチューにする。
材料を切っているあいだ、無心になれる。わたしは、音楽をかけながら料理をするのが大好きだ。CDプレイヤーが大活躍。わたしはサブスクはやらず、音楽はCDで買う主義だ。音質がいいのと、初回限定盤を買うのが目的だ。大概ライブのブルーレイがついてくるから。娘がテレビを使うから滅多に見られなかったが、徐々にお友達と外で遊ぶことが増え――これから見る機会が増えることだろう。
鍋に切った具材を入れ、沸騰したら弱火にする。――と、わたしは別室で読書をする。せっかくだからコーヒーでも淹れよう。とわたしは台所に行き、専用の機会でカプセルをセットしコーヒーを淹れる。幸せな時間だ。匂い発つコーヒーの香りに癒される……。娘の部屋の勉強机をお借りし、勿論ドアはしっかり閉めて夫のテレビ音は聞こえないようにし――それからCDプレイヤーをセットし、音楽と読書の世界に浸った。
* * *
「ただいまー」
玄関から娘の声がする。読書に集中していたわたしは、反応が遅れた。
「円ちゃん。おかえりー」
「ママー。ただいまー」
玄関まで娘を迎えに行くと、娘はわたしを抱き締めてくる。ちくり、と胸が痛んだ。わたしはこの子を……裏切ったのだ。ついさきほどまでママが他の男とエッチをしていたなんて知ったら――どう思うだろう。
やっぱり駄目だ。荒木との関係は――終わりにしよう。
十七時になっていたので、わたしは料理をし、夫はひとりで風呂に入り、娘は動画を見る。ご飯が出来てもなかなかみんなが返事をせず、わたしを苛立たせる。どうしてわたしひとりでなにもかもをやらなきゃいけないの。
夕食ともなれば、娘はいつも通りタブレットで動画を見、気を遣った夫はテレビをゲームから変えた。夫が、バラエティ番組の録画を見てなにか笑っているが無視をした。――このひとと、いま、話したくない。
不思議と夫に対する贖罪の気持ちは湧かなかった。第一、先に浮気をしたのはそっちだもの。倍返し――ならぬ仕返しをしただけだもの。なにが悪い。
相変わらず夫は食べるのが早く、皿をとっととシンクに持ち込み、ゲームに戻る。まだ、わたし、食事中なのに……。テレビ画面をゲームに変えられると見るものがなくなってしまう。娘は娘で食べるのがめちゃめちゃ遅く、わたしが食べ終わって洗い物をしていても、まだ、食べてる。タブレットを見ているせいもあるのだろう。本当――止めさせたいが。でも、あの子にとっての命綱なのだろう。あれは。
ダイニングで娘の隣で食事を終えたわたしはリビングの自分用スペースに向かい、テレビを見る。少年漫画のアニメ化でややグロいものを見るのはいまのうち。いまのうち。娘が隣にいるときに見ると娘が怖がるから、こういうときにしか見られないのだ。
それから――洗濯物。風呂。歯磨き。トランプ。諸々しなければならないことを済ませ、二十一時半には布団に入る。土日は早く眠るようにしている。夫も同じなのか彼も寝るのは早い。隣で眠る娘を見るうちに急に――罪悪感がこみ上げてきた。わたしは、円を、裏切ったのだ。
やっぱり――終わりにしよう。
わたしは荒木にメッセを送った。
『今週の日曜日は、『カフェフローラ』で会わない?』
『大事な話があるの』
花見町で決着をつけるにはリスクがあるのだが――どうしても、別れ話をするのなら、あのカフェがよかった。荒木と出会った思い出深いあのカフェが。
荒木はこれらの文言だけで察したらしい。すぐに、『分かった』とだけ返信があった。
そして、眠る。起こしていた上体を寝かすのだが、円は、気づいたらしい。ママに抱きついてきた。円は既に眠っている……のを確認していたのだが。眠りながらもママを求める円を見ているうちに、涙があふれてきた。
円の部屋にはベッドがある。勉強机もある。金に糸目をつけない夫が買った高いものだ。――が、円はベッドで眠らない。最近ママが円と一緒に眠るようになったので、ママの隣で寄り添って眠るのだ。ベッドだとママと一緒に眠れない、だから使わない。シングルの布団でわたしたちは互いを温め合うようにして眠っている。――円。ごめんね……。
眠る娘の髪を撫でてわたしは思った。いままで――罪悪を持たないことが不思議だった。荒木と密会していたのに。セックスしたからアウト? こころを通わせたらアウト? 確かなのは、円に申し訳ないというこの気持ち。会って話をするのなら、お友達でも出来るけれど、セックスは――。円を生み出した尊い行為なのだ。それを、わたしは、踏みにじった。
パパがしているからママもしていい――そんな理屈がまかり通るはずがない。わたしが出て行けばこの家は崩壊する。――なにを守り、なにを貫くべきか。決まっている。円の気持ちだ。円が一番大切……。
そうして決意を固めたはずのわたしだが、この日曜日に、わたしの決意を覆す決定的な出来事が起きる。
*