テラーノベル
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日曜日はいい天気になった。仰いだ空は高く青くこの数日で一気に秋が深まったようだ。
宵の灯屋の店の扉の前に立った結は深呼吸を繰り返した。秘書の工藤は別の用事があり、結は一人で来ることになった。
扉を引き店内に入るとカウンターの中にいた恭平が顔をあげた。
「おはようございます。いらしていますよ」
恭平が視線を向けた窓際の席に座っている親子がいる。窓の外を眺めているのが日下部暖人だろう。
「おはようございます。わたくし…」
声をかけると父親がぱっと顔をあげた。目元にできる皺、グレーの髪。恭平と同じくらいの歳だろうか。
「コズカグランドホテルの方ですよね」
椅子を軋ませて、父親が立ち上がろうとするのを結は止めた。
「どうかそのままで。小塚と申します」
名刺を差し出して、結は頭をさげた。
「これはご丁寧に」
名刺を両手で受け取ってくれた。
「日下部夏夫です。息子の暖人です。父親が夏だから息子ははる。そんな親子です」
夏夫が笑う。白いポロシャツがよく似合う若々しいお父さんといった印象を受けた。
「よかったら一緒にどうですか? 僕らもたった今注文したばかりなんです」
「いいえ、私はそんな…」
「翠さんとはお知り合いですか?」
「いえ全く」
即答する結に夏夫が目を丸くして、そして笑い出した。
「ここの料理はすべて翠さんが作ってるんですよ。暖人もとても気に入っています」
窓の外を眺めていた暖人が、手元に置かれたフォークと紙ナプキンの位置を何度も置き直している。
「細かいことが気になる子なんです。座りましょう」
夏夫が向かいの席を結に勧めてくれた。
「今日は暖人さんが当社に送ってくれた作品のことで、お話がしたくてお伺いました」
「何度もお電話を頂いたり、自宅にまで来てくださったのにすみません、本来ならばこちらからご連絡すべきでした」
いいえと首を振り、結は話を続ける。
「当社の小さなコンクールですが、その道のプロの方も審査に参加してくれています。彼らもまた暖人さんの絵を高く評価し、今年のグランプリに選ばれました。来月行われる受賞式にご出席して頂きたく、その確認をしたくてお伺いしたのです」
小さく息を吐き、夏夫はしばらく黙った。結は待った。すぐに答えを求めたがるせっかちな悪い癖をぐっと抑えて、その三十秒が一分が、まるで一筋の光も見えない長いトンネルの中にいるみたいに感じた。
「受賞後のことなのですが…」
悪い癖は一分も経たずに現れてしまった。
「ぜひ当社と契約して頂きたいのです。例えばですが、当社の社報の表紙を暖人さんに描いてもらいたいのです。お子様ランチの食器に暖人さんの明るい絵が描かれていたら、子供たちも喜ぶと思うのです。このお店のように、当社にもぜひ絵を飾らせてください。温かみのある暖人さんの絵に、私たちは日々癒きされると思います。わたくしたちと共と働くこともご検討願えないでしょうか」
フォークを握り締めて、生クリームがこんもりと盛られたパンケーキを嬉しそうに眺めてから、暖人はパンケーキを頬張った。そんな暖人に向ける夏夫の視線は穏やかだった。
「いつも楽しそうに絵を描くので、応募してみただけで、このような賞を頂けるなど夢にも思っていませんでした。ありがたいお話ですが絵はただの趣味です。仕事にできるなど思ったこともありません」
夏夫の視線はゆっくりと落ちていく。
「息子には生まれつき知的に障害があります。私との生活、この店で恭平さんや翠さんとのおしゃべり、商店街の人たちに理解してもらって、一人で買い物もできるようになりましたが、他の人に言われる言葉が理解できず、自分が言いたいことがうまく言葉にできず、もどかしさから自身を傷つけてしまうこともこれまでに何度もありました」
暖人の左手の甲に傷があることに、結はそのとき気づいた。カッターナイフで傷つけたものだという。
「何度そんなことをしてはいけないと教えてもやってしまうのです。他の人の言っていることが理解できないのは、自分が悪い人間だからだと思って自身を傷つけてしまうのです。甘い父親だと思われるでしょうが、暖人にそんな思いはもうさせたくないのです。好きな絵を描き、野球のボールを作り、この店で美味しいものを食べる。そんな日常の繰り返しで、それで私たちはいいのです」
夏夫の言葉に胸が詰まる思いがした。
障害を背負った暖人が悪いのだろうか?
誰も障害者になんかなりたくない。
障害者の子供なんて望んでいない。それでも自分のところに巡って来た意味を考え、思い巡らせて、悩んで悔やんで。これまでにも様々なことにぶつかり、そのたびに夏夫は必死に暖人を守り、乗り越えてきたのだろう。けれど、父親だからといってどんなことでも受け止められるわけではない。もう傷つきたくない、もう振り回されたくないという思いもあるのかもしれない。
「私たちはそろそろ行きます。暖人帰ろう」
暖人の肩に軽く手を置いて、夏夫は椅子から立ち上ろうとした。パンケーキを綺麗に食べ終えて、再び窓の外を眺めていた暖人がゆっくり結に視線を向けるとにこりと笑った。
「いいお天気ですね。小塚結さん」
低くも子供のように高くもなく透き通るような暖人の声は、穀雨の雫のように結の中に入っていく。どうしてだろう。暖人に名前を呼ばれただけで涙が出そうになる。
夏夫は椅子に座り直して、暖人の横顔を見つめた。
「晴れと雨、どっちが好きですか?」
予想もしていなかった質問に、結は驚いて瞳を大きくした。その顔が面白かったのか、暖人もビー玉みたいな瞳をいっそう大きく丸くして、眉毛もぐっと持ちあけた。結は思わずくすっと笑ってしまった。結が笑ったことが嬉しかったのか、暖人はちょっと照れくさそうに小首を傾げた。
「晴れ、かな」
答える結の声は震えていた。
「雨も嫌いではないの。でもやっぱり晴れが好きかな」
「お日さまって、温かいから僕も好きです」
暖人が笑ってくれると救わる思いがした。
「あ、翠さんだ」
カウンターの中に見えた翠の姿に、暖人は勢いよく立ち上がり両腕を広げて翠に駆け寄った。翠も同じように両腕を広げて暖人をハグする。
「パンケーキ美味しかったです」
「それはよかったわ」
「また来てもいいですか?」
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「もちろん。いつでも来て、待っているわ」
暖人と話す翠の声は、この前とは別人ではないかと思うほど優しいものだった。
コメント
7件
読了しました……!第8話、すごく心に沁みました。特に夏夫さんの「もう傷つけたくない」っていう言葉が重くて、親としての必死さと脆さがリアルに伝わってきた。暖人さんが結さんの名前を呼んだ瞬間、私も涙腺が緩みました。翠さんの優しさもギャップが素敵。美桜さんの文章、人の温かみと痛みを両方描けるのが本当に素晴らしいです🌙