「ちい、今行くからね~」
僕は、できるだけ下を見ないようにし、ちいに明るく声をかけた。
それにしても、ちいはよくこんな高い所まで登ったよな。
人間の家のタンスの上より高い所なんか、初めてのはずなんだけど。
まあよっぽど犬が怖かったんだろう。
僕だって、生まれて初めて犬を見た時には、怖くて当分足がガクガクしてたもんな。
だけど、犬って木登りができないんだ。
だから、ちいが木の上に逃げたのは、正解ではあるんだけど……。
やっとのことで、楠の木のてっぺんにたどり着いた。
僕の目の前にちいがいる。それだけで、胸がいっぱいだった。
「ちい、やっと会えた」
ちいは、涙でくしゃくしゃになった顔を、僕の顔に摺り寄せて来た。
「まるちゃん、ごめんね。僕、まるちゃんに謝るらないといけないね。まるちゃんに、今まで本当にひどいことばかり言ってたのに。まるちゃんは僕のために……こんなに……」
僕は、幹にグイッと爪を立て、体を固定させた。
少しの間に、ちいの体は一回り細くなっている。
フサフサだった毛も、少し萎れている。
「ちい、いいから涙を拭いてよ。とにかく一緒にここから降りよう」
実は僕、ちいに会ったら一番に話そうと思っていたんだ、
ちいのお母さんのことを。
ちいは、お母さんに置いていかれたんじゃなくて、人間に捨てられたんだってことをね。
そしたら、女が嫌いだっていうちいの気持ちも変わって、ももちゃんと仲良くしてくれるはずだから。
だけど今、ちいの顔見たら、そんなことどうでも良くなっていた。
この大切なちいを連れて降りる。もう、それだけだった。
「まるちゃん、あのね……」
ちいが、涙に光るまん丸の目をいっぱいに開いて、僕の方に体を乗り出してきた。
「気を付けて、ちい。落ちたら大変だよ。しっかり枝に爪立てておいてよ」
「あのね、僕、本当は寂しかったんだ。れれがももちゃん連れて帰った時、まるちゃん、ものすごく嬉しそうだった。 その後もずっと、まるちゃんはももちゃんと一緒にいて…… だから僕、急に独りぼっちになったみたいで、ももちゃんに八つ当たりしてたんだ。 ももちゃんのせいじゃないのにね」
いきなりのちいの言葉に、僕は面食らった。
「ちい、ごめん。僕……」
言いかけた僕の言葉を遮って、ちいは続けた。
「お母さんのことだって……お母さんが僕を置いてきぼりにしたから、女は皆嫌いだなんて、あの時つい勢いで言ってしまったけど、本当は、どうしてお母さんと離れてしまったかなんて、何も覚えてないんだ。それなのに僕、ももちゃんにまるちゃんを取られるのが怖くて、口から出まかせ言ってしまったんだ。ごめん。僕、どうかしてた……」
僕は何も言わず、壊れ物でも扱うように、ゆっくりとちいの顔を舐めていった。
ちいの少ししょっぱくて温かい涙は、僕の舌の上に溶け出していった。
ちいが、グルグルと喉を鳴らし始めた。
今なら言える。
「ちい、あのね、ちいのお母さんがちいを置いてきぼりにしたんじゃないってこと、分かったんだよ。れれが電話で話してたことだから、確かな事なんだ」
ちいの、喉を鳴らす音がピタっと止んだ。
ゆっくりと目を開いたちいが、いきなりぐちゃっと顔を崩した。
「やっぱりそうか。 僕、お母さんに捨てられたんじゃなかったんだね。良かった」
ちいは大きな目をキラキラさせながら、もう一度グルっと喉を鳴らした。
遠くで、カラスが鳴いている。
いつの間にか、夕暮れがすぐ傍まで迫って来ていた。
「ちい、そろそろ降りようか」
ちいは、涙でくしゃくしゃになった顔でこくんと頷いた。
僕は、ゆっくりと後ずさりをし、枝から幹に移った。
頭が上、尻尾が下。
このまま、幹を掴んで降りれば大丈夫だ。
「ちいは、僕の肩に後ろ足を乗っけてね。そう、そうその調子。ゆっくりね。あ、しっかり幹に爪を立てて、体を固定させてね。大丈夫だよ、猫が少々爪を立てたくらいで、楠の木は痛くもかゆくもないさ。それから、ゆっくり僕の肩に座ってみて。そう、そう、その調子。大丈夫、大丈夫」
ちいが、恐る恐る僕の両肩に乗り、ゆっくりと座った。
僕の肩に、ズシッと重みが加わる。思わず歯を食いしばった。
「よし、じゃあゆっくり降りるよ。はい、右、右、左! 下を見ないでね。ちい。しっかり前足で幹を掴んでいるんだよ」
僕は、ちいを肩に乗せ、人間が木から下りるのと同じように、後ろ向きに下りていった。
ゆっくりと、声を合わせて右、左、右、左。本当に少しずつだけど、一歩一歩着実に、地面に近づいて行った。
「ねぇ、まるちゃん、僕、まるちゃんにも、ひどいこと言ったよね。 まるちゃんなんか、何の取り柄も ないノラ猫じゃないかって」
あれは、ももちゃんのことで、ちいと口ゲンカになった時のこと。
「ごめんね、まるちゃん。外で生きていくって、ノラ猫で生きていくって、本当に大変なことなんだね」ちいが、肩に乗っかったまま、ぼそぼそと話しかけて来た。
生まれて初めて外に出たちいは、この二,三日、怖い思いも沢山経験したに違いない。
ふいに、遠く山の端に今にも沈みそうな真っ赤に焼けた夕日の、今日の日を惜しむ最後の輝きが、目に飛び込んできた。
思わず息をのむほどの美しい夕焼けに、僕の足の動きも自然に止まっている。
「きれいだ」
うっとりとした気持ちで目を細めた。
僕の胸に熱いものが込み上げてきた。
ーいろんな事あったよなぁ。本当にいろんな事があった。
今までのことが、次々と浮かんでは消えていく。
一日を終えた夕日が、山の向こうに帰っていく。
その後を追うように、カラスが寝床にいそいでいる。
「まるちゃん 大丈夫? 」
ちいが心配そうに上から声をかけてきた。
「あ、大丈夫だよ。それよりちい見てよ。夕日があんなにきれいだ」
それまで怖くて幹にしがみついていたちいが、恐る恐る体を横にずらした。
「あ、このきれいな赤色が夕日なの?」
赤ちゃんの時から人間の家で暮らしてきたちいは、こんなふうに夕焼けを見つめたことなどなかったはずだ。
「そうだよ。これが夕日だよ。夕焼け空ってきれいだろ。さあ、夕日が見守ってくれているから、早くれれのところに帰ろうよ。 な、ちい」
少し間があいた後、かすかな涙声でちいが答えた。
「うん、帰りたい」
ちいがたまらなく愛おしく思えた。
「さあ、帰るよ」
僕は大きく息を吸い込み、幹にしっかりと爪を立て、ゆっくりと降り始めた。
「頑張って~。もうすぐ半分よ~」
下からももちゃんの声が聞こえてきた。
―もう半分か
チラッと下を見た。
僕達を見上げるももちゃんと、ダンくんの顔がはるか下に見える。
肩の上のちいが、何やらボソボソ呟いた。
「何? ちい、何か言った?」
「僕、ももちゃんに謝らなくっちゃいけない……」
「ちい」
じわっと温かいものが、体中に広がってきた。
何か言おうとしたが、適当な言葉が見つからない。
「ねぇ、まるちゃんひとつ聞いていい?」
今度はさっきと違って、何やら意味ありげな口調でちいが呼び掛けてきた。
「え、何?」
「まるちゃんは、ももちゃんのこと好きなんでしょ?」
この瞬間、幹を掴みきれなかった僕の前足が、ずるっと滑った。
体勢をたてなおす間もない。
僕たちは、地面に向かって勢いよく吸い込まれていった。
ちいが叫んだ。僕も叫んだ。
楠の木が、上へ上へと、ものすごい速さで流れていった。
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