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「あわてて飛び込んできたときはびっくりしたよ」
「すみません先生。診察時間終わっていたのに、連絡もせずにいきなり」
「それは構わないよ。まだ皆残っていたし。それより泥んこのまるちゃんを抱いて入ってきたときは、また事故にでも遭ったのかと思ったよ」
僕は夢ごこちに、れれと先生と呼ばれる人間との会話を聞いている。
少し離れたところに、別の人間もいる気配だ。
ここは、つるつるの台の上。そこに体を投げ出してる僕の背中を、れれの手がゆっくりと撫でている。
あの時の衝撃は、それほどでもなかった。
気が付いたら、楠の木の根元に転がっていた。
僕の上にちいの体があった。
ああ、やっと降りて来たって思った。
すぐに「大丈夫ー?」って、悲鳴のようなももちゃんの声が走り寄って来た。
黒い犬の顔も見えた。
その声にお腹の上のちいが跳ね起きた。
恐る恐る薄目を開けてみると、そこには心配そうな顔が三つ、僕を覗き込んでいた。
「まるちゃん……」
ちいの声が、震えていた。
「ちい、大丈夫なんだな……」
のろのろと重い体を起こしかけた時、れれが息を切らして飛び込んできた。
れれは何も言わず、僕とちいの体を引き寄せ、思い切り抱きしめた。
「良かった。まるちゃんもちいちゃんも、大丈夫なのね」
張りつめていた気持ちが一気に緩み、体の力がすうっと抜けていった。
僕は、何故だか急に泣きたくなって、れれの肩に顔を擦りつけ、おいおいと声をあげて泣いた。
何が悲しいのか自分でもわからない。
ただ、泣きたいから泣いた。
つられてちいも泣き出した。
「まるちゃん! 血が出てる!」
見ると前足の先が真っ赤に染まっていた。
僕はぞっとして、もう一度れれにしがみついた。
「しっかり消毒しておくからね」
さっきから僕の前足に、つんと刺激臭のする薬が何度も塗りこまれている。
初めてここに連れてこられた時は、ただただ訳のわからない不思議な所だと思った。
あの時は人間語も全然わからなかったから、 余計そう感じたんだろう。
それから何度か連れて来られるうち、ここのことが段々わかってきた。
そう、信頼オーラに包まれたこの空間は、僕たち尻尾のある者たちにとって、まさに命のお助け隊とも言える場所だったんだ。
その証拠に、元気が出ない時だって、ここに来ると必ずパワーが充電してもらえる。
だけど、ここにはひとつだけ欠点がある。
それは、いつも最初に乗っけられるこのつるつるの台に関係あるんだけど、この台の上にいる時は、ちょっと我慢が必要なんだ。
例えば、いきなり両脇から人間の手が入ってきてお腹をくすぐられたりする。
そうかと思えば、顎をつかまれ強引に口を開けられたり、時には羽交い絞めにされた後、何やらチクッと痛みが走ったりするなんてこともあったりして、その時はお世辞にも心地良いとは言えないんだけど、まあ、悪意もなさそうなので、僕もいたずらに騒がず、つるつるの台の上ではいつも「お好きにどうぞ」という態度でいる。
それにしても眠い。
瞼が重くて、開けられない。何年分もの疲れが、どっと出てきたみたいに、体中が眠りたがっている。
そう言えば、さっきから前足がズキズキひりひりしている。
眠くてたまらない僕のことなどお構いなしに、前足の先だけが勝手に大騒ぎしているようだ。
僕は、近くにれれの気配を感じながら、このままゆらゆらと、夢の中を漂っていることにした。
「前足の爪が見事に折れちゃってるね。だけど、まぁ、一ヶ月もすれば多分、新しい爪が生えてくると思うから。それからこの肉球の傷も、単なるすり傷だから大丈夫。舐めても良い薬を塗っておくからね。幸い骨も折れていないようだし、二、三日様子を見て何か気になることがあったら連れて来て」
「わかりました。大したことがなくてほっとしました。友達から“ちいちゃんが空き地の楠の木のてっぺんにいる”って連絡があって、大急ぎでそっちに向かったら、遠くからまるちゃんがちいちゃんを背負って降りてたのが見えたんです。あっと思った次の瞬間、滑り落ちたんです。もう、どうなったかと、怖くて足がガクガク震えました」
「びっくりされたでしょうねぇ。で、その後、猫ちゃんたちはどうだったんです?」
向こうの方から別の声がした。その声に、れれの手がすっと僕の背中から外れていった。
「それがですね、私が駆けつけた時は、倒れてるまるちゃんを、みんなで心配そうにのぞき込んでいたんです。ちいちゃんがちょっと取り乱した風でしたが、まるちゃんも起き上がろうとしてたんで、ああ、無事だ、助かったって、ホッとしました」
れれの手が、また僕の背中を撫で始めた。
僕の耳にれれ達の人間語が、子守唄のように入ってくる。
気持ちが良いなぁと思ったら、ちいの顔が浮かんできた。
あの時、楠の木のてっぺんで、涙でぐちゃぐちゃになったちいの顔。
まるちゃんごめんねって抱きついてきた時は僕、本当に嬉しかった。
遠くに行ってしまったちいを、やっとのことで取り戻せたって思った。
茜色の空が、きれいだったなぁ。
まるで僕たちを見守ってくれてるようだった。
「まるちゃん、本当に頑張ったんだね。ほら、この辺の爪は、剥がれてしまってる。だけど、とにかくまるちゃんが、爪で幹を掴んだまま落ちてくれたお陰で助かったんだよ。あれがもし、ポーンと高い所からそのまま落ちてたら、大変なことになっていた。爪が折れるくらいでは済まなくて、骨が折れるか、打ちどころが悪かったら命にもかかわる状況だったよ。猫が高いところから落ちても、くるっと一回転してうまく着地できるっていうのは、単独で落ちた場合のことだからね。二匹でお団子になって落ちたのに、これだけで澄んだのは、運が良かったよ」
確かに運は良かったけど、あの時ちいがあんな事言わなかったら僕、ちゃんと下まで降りてたはずなのに……。
ももちゃんのこと好きなんでしょ、なんていきなり言われて、もうビックリだったよ。
そりゃあ、ももちゃんのこと、好きだよ。
外にいた時からずっとね。
だけど、ももちゃんには、あの強くて立派なボスがいるんだ。
好きは好きでも、ちいの思ってる好きとは違うんだよ。
家に帰ったら、ちいにきちんと説明しなくちゃいけないな。
「ところで、ちいちゃんは今、どうしているんですか?」
離れた所からの言葉に、僕の耳がぴくっと動いた。
「はい。私たちをここに積んできてくれた友達が、うちに連れて帰ってくれてます。今、ももちゃんと一緒に、家で待ってくれているはずです」
ちいとももちゃんが?
一緒に家で待ってるんだ。
「彼女がいてくれて、助かりました」
「ああ、大きな犬連れてた人だね。ええと、あのワンちゃんの名前は黒ちゃんだったかな?」
いいえ、ダン君です、と答えたれれの声が笑っている。
そうか、あいつダンくんて呼ばれてたな。
でかいくせに僕のうなり声にびびってたじゃないか。
あの時の僕が、この僕だなんて今でも信じられないよ。
もしかしたら僕、自分で思ってるより強い猫なのかもしれないぞ。
僕の喉が思わずグルグルと鳴った。
れれはそれに気付かず、相変わらずおしゃべりに夢中だ。
それにしてもあいつ、紛らわしい犬だよ。
まさか僕たちと遊びたがってたなんて。
いい加減にしろと言いたいよ、まったく……。
あ、そういえばれれは、知らないんだ。
僕が、まるで野性本能に目覚めたような雄叫びでもって、あのデカいワンコをびびらせてたなんて、全然知らないんだ。
知ってるのは、ももちゃんと、ちいと、あのダン君てやつだけ。
れれの知らない僕の一面……何だかカッコいいぞ。
僕は、勇敢な僕を思い出しながら、ニンマリ顔を崩していた。
ところで、このつるつる台の上での一連の儀式も終わったようだし、そろそろ目を開けようかとさっきからタイミングを計っているのだが、なかなか話が終わってくれない。
それで仕方なく、このまま寝た振りを続けることにした。
「ダン君て大きくて、見るからに凶暴な犬っていう感じでしょ。どうやらちいはダン君が怖くてあんな高い木のてっぺんまで登ってしまったようなんです。赤ちゃんの時からずっと家にいるちいにとっては、始めて見る犬でしたから」
「それはそれは、さぞ怖かったでしょうねぇ」と、少し離れたところにいる人間も加わって、静かな部屋が和やかな笑いに包まれた。
人間たちが楽しそうにしているなか、僕だけが、そろそろこの長話が終わってくれますように、祈るような気持ちで横たわっている。
「それにして、なんでまた皆で仲良く出ていっちゃったの? れれさんちは、完全室内飼いではなかったかしら?」
わぁ、まだ続きそうだ。
早くちいとももちゃんの待ってる家に帰りたいのに。
僕は、二,三度しっぽを振ってれれにメッセージを送ったが、ダメだ。気が付かない。
手持ちぶさたのまま、寝転んでいるしかない。
「ああ、そのことですか。実は、私にも責任があるんです。一ヶ月くらい前になるかしら、新しい猫を仲間に入れたんです。ももちゃんという名前の女の子なんですが、どうもちいちゃんとの仲がうまくいかなかったようで……。それでも、猫同士のことは、猫同士で解決すると思っていたし、時間が経てば何とか
なるのでは、なんて思ってたんですが、なかなか……ついにちいちゃんが出て行ってしまい、その後を
まるちゃんとももちゃんが追いかけて行ったようなんです」
なんと、れれは知ってた。なんだか、ちょっと恥ずかしい。
「新しい猫を迎え入れる時は、まず部屋を別々にして、ゆっくりと慣れていってもらう、なんてことは、猫の飼い方の本にならどの本にでも載ってることなのに……」
「まあ、なかなか本の通りにはいかないもんだよ。それぞれの住宅事情もあることだし。だけど結果的には、いろいろあったお陰でうまくいったって訳だ。文字通り、怪我の功名ってとこだな」
「先生、その表現ピッタリですね」
部屋中が温かい笑顔に包まれた。
僕はゆっくりと体を伸ばした。
「じゃあ、一応、化膿止めの薬を出しておくから、ご飯に混ぜて食べさせてやって」
はいと答えたれれが、つるつるの台から僕の体を剥がすように持ち上げた途端、ドアの向こうから、けたたましい電話のベルが鳴り響いてきた。