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そのアパートは、古くて、少しだけ傾いていた。
壁紙は黄ばみ、天井の隅には薄い染みが広がっている。廊下を歩けば床板がみしりと軋み、人の気配はほとんどない。だが家賃は、同じ間取りの相場の半分以下だった。
――掘り出し物だ。
佐藤悠真はそう思った。多少の古さは気にならない。静かに暮らせれば、それでいい。
だが、初めての夜は静かではなかった
布団に横になったときだった。
眠りに落ちかけた耳に、ふいに微かな音が触れる。
カサ……カサ……
何かが壁の向こうで擦れるような音。最初はネズミか、あるいは虫だと思い、悠真は枕で耳を塞いだ。しかし音は止まらない。むしろ一定の間隔を刻み始め、落ち着かない規則性を帯びてくる。
カサ……カサ……カサ……カサ……
――呼吸みたいだ。
そう気づいた瞬間、背筋に冷たいものが走った。壁の向こうから、誰かがこちらの気配を窺っているような錯覚。そんなはずはない。この隣室は――空き部屋のはずだ。
耳を塞ぎながら、悠真はそれでも音の正体を確かめようとしている自分に気づく。妙だ、と頭のどこかで警告が鳴っていた。だがそのとき、不意に音が止んだ。
静寂。深すぎるほどの静けさ。
そして――
「……まだ、見てるよ。」
囁きは、壁の“隙間”から漏れてきた。