前日の天候を今日も受け継いでいるのか、朝からぐんぐんと気温が上がり、もう初夏と言うよりは夏そのものと言った空模様の下、駅のスタンドやカフェなどに置かれている新聞の一面を飾っているのは、この街がある州の政治家の不祥事だった。
人身売買組織内での内輪揉め-公式の警察発表は紆余曲折を経てそうなった-の事件はまだ半月ほどしか時間を経ていないのにすでにマスメディアの中では過去の物になっているらしく、毎日警察の公式非公式を含めた発表を心待ちにしていた記者の数も一人減り二人減りとした結果、今ではゴシップ誌の三流記者が警察署を出てくる顔馴染みの制服警官を捕まえては、事件の首謀者が現役の刑事であり、また州を跨いだ事件に発展していることではなく、悪の道に走った刑事の私生活を根掘り葉掘り聞き出そうとする者ばかりがうろつくようになっていた。
そんな中、いつものように街の彼方此方で起こる事件に対処していたコニーは、今回の事件でヒンケルの指示を直接受けて仲間達に下ろす役割をいつの間にか与えられてしまい、事件が自分たちの手を離れた次の日は休暇を取ったのだが、翌日出勤してきた時にはヒンケルがまずコニーに相談をし、それを受けたコニーが仲間達を集めて相談するようになっていた。
コニーが指示を出すことに対しては誰も不満を覚えることはなく、マクシミリアンが生真面目な顔で頷き、ヴェルナーやダニエラも彼の指示には余程のことが無い限り反論したりしなかった。
BKAから派遣されていたブライデマンがベルリンに戻る時、ロスラーとジルベルトの居場所が分かればすぐに連絡をすると約束をし、最初はいけ好かないと思っていた彼も一つの事件が終わればさほど嫌な人間ではないことを改めて知り、ヒンケルを筆頭に皆それぞれが己の言葉で今回の彼の働きを労い、BKAの刑事というよりはブライデマンという刑事と知己になれたことを感謝しつつ握手をしてその背中を見送った。
その時、ブライデマンが何かを問いた気にヒンケルを見ては口を閉ざしたが、コニーやヒンケルは何を言わんとするのかを察していて、無言で首を左右に振った後、もうすぐ戻って来る気もするからとだけ伝えたのだ。
その言葉にブライデマンが素っ気なくはあっても無言で話題の主にしていた彼を認めたこと、己の態度が彼にとっては不愉快になった事を上手く説明しておいてくれと残し、空港へ向かう列車に乗る為に駅に向かったのだった。
ブライデマンが去った後、刑事部屋に入ったヒンケルとコニーは部屋にある二つのデスクを背中合わせに使っていた男達の人生が、孤児として生まれた出発点と刑事として働く通過点が同じだが、まだまだ続く道は分かたれてしまった現実に重苦しい溜息を吐き、一人はまた刑事として復帰する可能性を信じて疑わないが、もう一人と再会する時は国際的な事件に発展した今回の事件が解決を迎える時だとも気付いて互いの顔を見合わせる。
「……いればいたでうるさいとしか思わなかったんですけどね」
いなくなってしまえば静かすぎて何やら気持ち悪いとコニーが独り言のように呟くと、ヒンケルも隠し持っているチョコレートを奪われることがない為、今回の事件を追うようになってからチョコを買い足していないと肩を竦めチョコレートが減りませんねとコニーに笑われてしまう。
「謹慎する前にチョコをすべて渡したから今手元にチョコはないからまた買い足さないといけないな」
今回の事件でゾフィーが重要人物だと判明した頃、慰めではないがヒンケルが甘い胃薬をリオンにすべて渡したことがあったが、あれ以来チョコを買っていないと思い出したように笑うと、しばらくは奪われなくてすみますねとコニーが何度も頷く。
「えー、チョコ買ってくれてないんですかー!?」
「!?」
「くそ。前に貰ったのは全部食ったから今日ボスから奪い取ろうと思ってたのにな」
その呟きはここにいないウーヴェが聞けば目を吊り上げるか頭痛を堪える顔で重苦しい息を吐くかの二択しか選択肢が無い言葉で、それを聞かされた二人はしばし呆然としてしまうが、そんなことをさらりと言い放つ男はここにはもう一人しかいないと思い出し、胸に生まれた疼痛を押し殺すように勢い良く振り返る。
「リオン……!」
「おはようございます、ボス」
驚愕に振り返る上司と同僚におはようと挨拶をしたリオンは、やや伏し目がちになると表情を改め、心配と迷惑を掛けて悪かったと謝罪をする。
「……もう良いのか?」
殊勝な態度で頭を下げるリオンなど誰も見た事がなく、ただ驚きと戻って来た喜びに言葉に詰まったヒンケルだったが、顔を上げたリオンが無言で頷いた為に己の部屋で話をしようと首を傾けて伝えると殊勝な態度で後に続くものの、部屋に入る前にぴたりと足を止めたリオンが顔だけを振り向けて呆然と見送るコニーに片目を閉じる。
その顔が今まで見てきたものと変わっていない事に無意識に安堵したコニーは、駆け寄ってくる同僚に肩を竦めていつものリオンが帰ってきたと呟くと、ダニエラやヴェルナー、マクシミリアンの顔にも明るさが増す。
「……もう少しすれば警部の部屋から怒鳴り声が聞こえるはずだ」
「え?」
その怒鳴り声は何を由来とするのかをダニエラが疑問の形で問い掛けるが、その疑問を解消したのはドアがいきなり開く音と、そこからリオンが手ぶらで飛び出してくる姿と、そのリオンを追いかけるように飛んできたあと、壁にぶつかって床に転がったブロックメモだった。
「……ほら、な」
「…………」
チョコはまだ買っていないと言っているだろうがばか者と叫びながら部屋から出てくるヒンケルに舌を出したリオンは、デスクを飛び越えて仲間達の元に集まると、復帰祝いのチョコを配るつもりだったがボスがケチでチョコを買っていなかった為に復帰祝いはない、許してくれと片目を閉じる。
「おい、リオン、良いのか?」
「ん? ああ大丈夫――ぃてえ!!」
「ばか者!」
蹲るリオンと顔を赤くして頭から湯気を立てそうなヒンケルという構図は今まで飽きるほど見てきた面々だったためにまたいつもの怒鳴りあいかと呆れるものの、その顔はいつものと呼べる光景が戻ってきた安堵と、決してそこに戻ってくることのない男前の横顔を思い出して苦い思いも込み上げているようだった。
そんな同僚の顔をぐるりと見上げたリオンは、その場で立ち上がって皆に向けてもう一度迷惑を掛けたと謝罪をし、可能なら週明けに復帰したいと伝え、ヒンケルも呼吸を鎮めて大きく頷く。
「お前は何も悪いことをした訳じゃない。だから部長にも署長にも週明けに復帰することを伝えておく」
「ありがとうございます、ボス」
上司の許可に胸を撫で下ろし、仕事に戻ってくるときは無精髭を何とかしなさいとダニエラに肘で突かれ、剃るつもりはないと言い放って同僚を呆れさせるが、その彼女がリオンの首に腕を回してハグしつつお帰りなさいと伝えるとヴェルナーがリオンに体当たりをするように身を寄せ、そんな三人に呆れた顔を見せたマクシミリアンが今までのお礼-仕返し-だと言うようにリオンをぎゅっとハグする。
「……うん、ダンケ、みんな」
数日前まで己が歩いていたのは暗闇の中で、見えない場所で支えてくれている人たちのことまで考えられなかったが、こうして迎え入れてくれる気持ちが嬉しくて素直に礼を述べると、今度はコニーが咳払いをした後にくすんだ金髪に掌を叩き付けるように載せてぐしゃぐしゃに掻き乱す。
「ちょ、コニーっ!」
「うるさいぞー、リオン」
お前がいない間本当に大変だった、だから復帰したらまずみんなにコーヒーか紅茶でもおごれと片目を閉じてそれで許すと言外に告げ、もう一度頷いたリオンがヒンケルに向き直り、コニーと同じように咳払いをしたヒンケルが口を開く前にボスは俺が復帰したらビールを皆に奢ってくれるんですよねと言い放って上司を絶句させてしまう。
「な……!?」
「可愛い部下が戻ってきたら祝いをしてくれるのは当然ですよねぇ?」
「自分で言うな!」
「自分で言わなきゃ誰も言ってくれないでしょうがー」
ねーと同意を求めるように周囲を見ても誰も同意を示してくれず、いいよオーヴェは可愛いって言ってくれると眉尻を下げると、ドクは目が悪いから眼科に行って来いと伝言を頼む言われて肩を落とす。
「ちくしょー!」
「うるさいぞ、リオン!」
リオンの叫びにヒンケルが声を被せるように怒鳴る声が室内一杯に響き渡り、偶然通りかかった職員や部屋に入ろうとしていた人たちの動きを止めさせ、ああ、いつもの光景が刑事部屋に戻ってきたことを察すると、今回の事件の間中静かだった部屋の光景も思い出してあの頃は良かったと呟きながら席に戻り、またうるさいのが戻ってきたとリオンの帰還を彼らなりに歓迎するのだった。
職場で手荒な帰還祝いを受けたリオンは、ヒンケルの部屋に入るなり表情を改め、本当に自分は降格などのペナルティを受けることなく復職できるのだろうかと問いを発し、己のデスクに座ったヒンケルの目を見開かせる。
「その辺は部長と相談するが、お前は何もしていないし今回の事件について本当に何も知らなかった、そうだろう?」
「Ja.」
皮肉なことに、二人の内部調査官が過去の事件を浚ってまでもお前の不正を発見しようとしても出来なかった事がそれを証明している、これ以上その事について疑いを持つ必要も不安を感じることもないと断言されて胸を撫で下ろしたリオンは、姉が迷惑を掛けたこと、そしてそもそもの発端となったチェコ出身の姉妹と姉と二人の男の殺害事件を解決してくれてありがとうございますと礼を述べると、すべての事件の実行犯は死亡または現在逃亡中で完全に事件が解決したわけじゃない、だからその言葉は聞かなかったことにすると言い返されて肩を竦めるが、気になって仕方がなかった疑問を解消するために口を開き、今回の事件を綴ったファイルを差し出される。
最も信頼していた仲間であり今では最も許せない男になったジルベルトだが、ジルベルトとロスラーのどちらがゾフィーをレイプしたのかを知りたかったリオンは、差し出されたファイルを読み進め、彼女の身体から発見されたDNAが殺された二人の男とロスラーのものだったことを知り、たとえ直接性行為を行っていなかったとはいえ暴行を繰り返していたことは確かめられ、ファイルを閉じつつ溜息をつく。
「……ロスラー、何処に逃げたんでしょうね」
「何処だろうな」
BKAと協力して探すことになると溜息を吐くヒンケルにファイルを返し、明日の葬儀ではゾフィーの顔を参列者に見せても恥ずかしくないようにカールがウィッグを買ってくれたこと、ウーヴェがゾフィーの顔や身体に残る暴行の痕が目立たないように大量の向日葵を棺に入れてくれることを伝えるとヒンケルが短くそうかと返す。
「明日の葬儀が終わればもうちょっと実感が湧くと思うんですけどね」
ゾフィーが死んだことは理解しているが、もう何をしても褒めてくれることも叱ってくれることもない、ただ己の中にいるゾフィーならばこう思うだろうとの思いを彼女からの言葉として受け止めなければならない現実がまだ何となく理解できないと肩を竦めれば、当然だと強い口調で断言されて軽く目を瞠る。
「ボス?」
「身内が殺されたんだ、仕方がない」
だが、生者と死者とが一緒に過ごせる最後の時間でもある葬儀を終えれば笑うことは無理であっても涙はいつか止まることに気付いてくれとも告げられ、まさかヒンケルの口からウーヴェと同じような言葉が出てくるとは思えずに呆気に取られてまじまじと厳つい顔を見つめると、リオンの視線に気付いたヒンケルが顔を赤らめる。
「うわっ、クランプスが赤くなった!」
気持ち悪ぃと叫んで立ち上がったリオンにつられてヒンケルも立ち上がりデスクに両手をついて部下を睨み付けると、クランプスが怒ったと頭を抱えてその場にリオンが座り込む。
「ばか者!」
「……ありがとうございます、ボス。……まだ無理だと思うけど……」
ボスとオーヴェが言ってくれるようにいつかは涙は止まるのだと己に言い聞かせるように告げて立ち上がったリオンは、ヒンケルに向けて手を差し出し、意味を酌んでしっかりと握手をしてくれる上司に頷いて週明けから復帰しますと宣言する。
「ああ。待っている」
「Ja」
二人がいなくなった刑事部屋はいつもの活気がなかったが、これでまたその活気が戻ってくると目を細めたヒンケルは、ジルベルトの代わりになる刑事の補充について部長に相談してあること、近々顔を見せるはずだからとも伝えて理解した合図に頷かれるが、躊躇うように視線を左右に泳がせた後、明日の葬儀に間に合うようにカードと花を贈るから受け取ってくれと告げるが、これに関してリオンの首は縦には動かなかった。
「ボス、犯罪者にカードと花束は贈らない方が良いですよ」
「彼女はお前の姉でもあるんだぞ?」
「ありがとうございます。……その気持ちだけ、頂きます」
ゾフィーもマザーもその辺りのことを理解してくれるだろうと告げ、こればかりは譲るつもりが無いと穏やかに伝えると、釈然としない顔で腕を組む上司に苦笑し踵を返すのだった。
昨日も訪れたウーヴェのクリニックが入居するアパートを見上げ、少しだけ軽くなった心でまたここを訪れることが出来るようになった事実がじわりと胸を温めるが、リオンの脳裏では独りにしないこと、事件が落ち着けば引っ越しをして一緒に暮らそうとの言葉が甦り、更に胸を熱くしてしまう。
己の体温が一気に上昇したような錯覚に囚われつつ階段をゆっくりと踏みしめるように上り、昨日久しぶりに抱き合った廊下を進んで両開きの扉に手を掛けたリオンは、深呼吸を繰り返した後そっと扉を開けてクリニックの中の様子を窺う。
細い世界に広がる光景はリアが書類をデスクに置いてラップトップに向き合っているもので、左右の見える範囲には患者の姿も見えず、また彼女がラップトップの画面に目を向けながらマグカップを手に取ろうとしたことから診察の合間であることに気付き、ゆっくり息を吸って吐いた後、口元に微かに笑みを浮かべて扉を勢いよく開け放つ。
「!?」
その物音に驚いたリアの手がマグカップをデスクから床に弾き飛ばしてしまい、カップに少し残っていた紅茶が零れ落ちるのを呆然と見たリアが顔を上げるが、はにかんだように笑みを浮かべて立っているのがリオンであることに気付くと、床に落ちたカップとは逆に両手をデスクに突いて勢いよく立ち上がる。
「リ……オ、ン……?」
「ハロ、リア……久しぶり」
床に落ちたマグカップと挨拶をするリオンを交互に見つめたリアだったが、心配を掛けてごめんとリオンが謝罪をした瞬間、リアの手が顔を覆って肩を震わせてしまう。
「わ……っ!!」
まさか泣かれてしまうとは思っていなかったリオンが慌てながら近寄り、リアの細い肩を撫でてごめんと謝るが涙を溜めた目に睨まれてしまう。
「本当に……心配を掛けて……っ!」
「うん、ごめん、リア」
ウーヴェの傍にいて事態を見守ってくれていただろうリアに自分たちには分からない心配をかけたと謝るが、彼女がまるで小さな子どものように身体全体を振って許さないわと叫んだ為、リオンの眉尻がこれ以上は無理と思うほど下がってしまう。
「リアぁ」
「何よっ!」
あなたは何も悪くないのにマスコミは好き放題に書き立ててそれを目の当たりにする日々が辛かった、なのにウーヴェにも黙っていなくなるなんてと叫ばれてごめんと謝ることしか出来なかったリオンは、診察室のプレートが掲げられているドアが開きウーヴェが顔を出したことに気付いて救世主が現れたかのように顔を輝かせる。
「オーヴェ!」
ウーヴェが何をしているんだと問い掛けると同時に助けてくれと叫ぶが、すべてを理解した顔でリオンの頭に手を載せて頬にキスをしたウーヴェが苦笑しつつリアを呼ぶ横で俯いてしまう。
「リア」
「……ウーヴェ……っ!」
「頼むから泣かないでくれ。頼む、リア」
きみの腹立ちもリオンが戻ってきた安堵もちゃんと受け止める、だから今は泣かないでくれとリアに伝わるようにゆっくりと穏やかな声で告げたウーヴェは、リオンが唇を噛んでいることにも気付いてリアの肩を撫でる手とは別の手でリオンの頭を抱き寄せるとくすんだ金髪にキスを繰り返す。
「リーオ。リアもずっとお前のことを心配してくれていた。それは分かるな?」
リアが許さないと怒っているのはお前がいなくなった間ずっと俺と一緒になって心配してくれていた裏返しだと告げると、リアが顔を上げてリオンも意を決したように顔を上げる。
「そう、よ……っ!どれだけ心配したと思ってるの……!」
自分が涙を浮かべて怒る理由はただひとつ、いつもいつも真っ先にあなたを心配しているウーヴェにすら行き先を告げないで姿を消したことだと赤く潤んだ瞳でリオンを睨んだ彼女は、二人の男に失礼と言い放ってトイレに駆け込んで行く。
その背中を見送ったウーヴェだが小さな掠れた声がごめんと謝ったことに気付き、さっきは片手だったが決して片手間ではないことを伝える為に今度は両手でしっかりと抱き寄せ、くすんだ金髪に口を埋めるように顔を寄せつつ出せる限りの優しい声で名を呼ぶと、のろのろと上がった手が背中へと回された事に気付く。
「リアが怒ることを許してやってくれないか」
彼女もお前が戻ってきた安堵もあってつい感情が昂ぶってしまっているだけだから許してやってくれともう一度ウーヴェが頼むと、腕の中で頭が上下に揺れる。
「ああ、お前は本当に強いな」
自分が責められていても許せる度量を持っている、本当に強い男だと手放しで褒められてしまい、本当にそうなのは俺ではなくお前だとくぐもった声が言い放つ。
「そうか?」
じゃあそういうことにしておくがリアがトイレから出てきたらお前も顔を上げてくれとこめかみにキスをしたウーヴェは、彼女が出てきたことに気付いて慌てることもなくリオンから離れると、気まずい顔の二人を残してキッチンスペースに向かい、二人分の水を運んでくる。
「リア、落ち着いた?」
「…………ええ」
興奮してごめんなさいとカウチソファに腰を下ろした彼女の前に膝をついて水を差しだしたのはウーヴェではなく真剣な顔をしたリオンで、それに気付いた彼女もきゅっと唇を噛んで顎を引く。
「心配を掛けて悪かった。ごめん、リア」
「……いなくなった間、何処にいたの?」
「カインの家にいた」
リオンの呟きにリアがオウム返しにカインと呟き、確かリオンの幼馴染みだったことを思い出すと同時に溜息を吐き、路上で寝ていた訳ではないのねと問われて頷いたリオンは、水のグラスを受け取ってくれた彼女に礼を言ってその隣に腰を下ろす。
「そう……リオン」
「ん?」
小さな呼びかけに小首を傾げたリオンに彼女が深呼吸をした後、向き直るように姿勢を変えてリオンの横顔を見つめながら諦めにも似た吐息を零してそっと顔を伏せる。
「お姉様のこと……ウーヴェから本当のことを聞いたわ」
血の繋がりではない心の繋がりを持った人が無残で無念な最期を迎えてしまったことに対して心からお悔やみするわと告げて顔を上げると、驚きながら見つめてくるリオンにそっと頷き、くすんだ金髪をさらりと撫でる。
「彼女とは直接の面識は無かったけれど、マスコミが書き立てていたことが彼女の総てではないことは分かっているわ」
だからあなたもそんな彼女や彼女の罪を見抜けなかった己を必要以上に恥じず、これからも刑事として精一杯働きなさいと伝えると、急に気恥ずかしくなったらしいリアが立ち上がって今度は診察室に駆け込んで行く。
忙しない彼女の様子に呆気に取られていたリオンの肩が次第に小刻みに揺れ、ウーヴェが見守る前で嬉しそうな顔で笑みを浮かべたことに気付くと、もう大丈夫だという確信を抱く。
「……オーヴェぇ」
「うん?」
己の前髪を掻き上げながらカウチソファの背もたれに上体を載せて限界まで体を反らせたリオンが呼び、リオンの前に立ってジャケットのポケットに手を入れて身体を屈めたウーヴェがどうしたと問えば、湿り気を帯びた声が自分はゾフィーに本当に大切にされてきたしオーヴェやリアにも大切にされていることが分かったと呟いたため、ウーヴェが微苦笑を浮かべつつリオンの横に腰を下ろし、顔を見られないように背けている恋人の頭を肩に抱き寄せる。
「そうだな……お前は本当に皆から愛されているな」
「……うん」
幸せだな、と、肩に顔を押しつけつつ頷くリオンの髪を撫でたウーヴェが職場のみんなはどうだったとも問うと、週明けに復帰できるが今までボスが上層部から庇ってくれていたのだと思うと、言動は厳しいが部下思いの上司の横顔を思い出しながら呟きウーヴェの首筋に顔を寄せて目を閉じる。
そして、ここにも同じように己を案じてくれる人がいる事を思い出し、小さな笑みを浮かべつつその人がどうすれば許してくれるかを口にすると、診察室のドアが細く開いている事に気付いたウーヴェが笑みを浮かべて直接聞けばどうだとドアを示して隙間から顔を覗かせている彼女を手招きし、女神様のお出ましだとおどけてリアが出てきた事を伝えるとリオンが顔を上げてこちらもまた照れたような笑みを浮かべて鼻の頭を少し掻く。
「……リア、許して欲しいんだけど、どうすればいい?」
どうか教えて女神様と懇願するように手を組んで彼女を見上げたリオンは、最初は呆気に取られていた顔に次第に笑みが浮かび上がり、腰に片手を宛ててリアが身体を屈めたため、その仕草が遠い昔に当たり前のように目の前に存在していた光景だったことを疼痛とともに思い出しながらどうか教えてともう一度告げると、五つ星ホテルで今度有名パティシエの新作が発売されると言われて瞬きを繰り返す。
「へ? 新作?」
「そう。色々な種類のお菓子が出るらしいの。でも、それって招待状がないと会場には入れないらしくて……」
当然一般人の私は入手できないがとリオンの次にウーヴェの顔もじっと見つめたリアは、目の前で二人が慌てふためく様に目を細め、その招待状が欲しいのともう一度念を押すように伝えると咳払いをして表情を切り替える。
「……リオン。本当に今回のことは本当に辛くて悲しいわ」
でももうそれを乗り越える方法を手に入れたでしょうと笑われて素直に頷いたリオンは、カウチから立ち上がってリアの細い身体を抱き締めると、優しい甘い匂いに包まれて鼻の奥に疼痛を感じてしまう。
いつもどれだけ困らせようが何をしようが最後には笑って許してくれたゾフィーを喪ってしまったことは悲しいことだが、その彼女が最期に教えてくれたことを忘れないように胸に刻みつつリアに礼を言い、うっすらと色づく頬にキスをしたリオンは、ウーヴェとはまた違う優しい手が背中を撫でてくれたことが嬉しくて満足の吐息を零す。
「……失礼」
三人がそれぞれ安堵の溜息をついた時、クリニックの扉が静かに開いてぶっきらぼうな太い声が聞こえてきたため三者三様の顔で入口へと顔を向け、そこに大きな箱を肩に担いだ大きな男を発見してウーヴェが笑みを浮かべる。
「ハーロルト、持ってきてくれたのか?」
「ああ」
半年に一度、花だったり果実だったりするが、まるで捧げものをするようにウーヴェに届け物をしてくれる農家の朴訥な男が箱を下ろし、頼まれていたものだと告げて肩を一つ回す。
「オーヴェ、これ……?」
「ああ。彼女の棺に入れてやってくれないか、リーオ」
お前の姉の好きな花だろうとハーロルトが箱を開け三人が覗き込むが、リアの口からは感動にも似た溜息が流れだし、ウーヴェもさすがに呆気に取られてハーロルトの顔をまじまじと見つめてしまう。
「こんなに沢山良いのか?」
「ああ。好きな花なんだろう? 入れてやればいい」
棺にこんなにも沢山の花を入れてはいけない決まりはないはずだとハーロルトの言葉にリオンが拳を握った後、ダンケと頭を下げると無口でぶっきらぼうな男が素っ気なく頷く。
「いくら払えば良い?」
残念ながら向日葵の相場が分からない上にこれだけ沢山の花には一体どれ程掛かるのかと問えば、代金など要らないとハーロルトがいつものように素っ気なく返すが、さすがにそれにはウーヴェが首を縦に振らずにハーロルトの前に立って一つ分高い位置にある顔を見上げつつ腕を組む。
「ハーロルト、きみは花を育てることで生計を立てている。そうだろう?」
「ああ」
「ならば花に関するプロだろう。そのプロがその商品で代価を受け取らないと言うのは己の仕事に対するプライドがないことと同じになる」
商品を購入する際にはその商品に見合った料金を支払うのが当然だ、いくら支払えばいいのか教えてくれと告げてハーロルトの分厚い胸板を人差し指でトンと突くと大きな身体がぐらりと揺れたあと、ぐしゃぐしゃになっている請求書を差し出してくる。
請求書に記されている金額は花屋で購入した場合に比べれば遙かに安いだろうが大量の花に相応しい金額で、それでもウーヴェが用意していた現金を取り出してハーロルトの手に握らせる。
「ありがとう、ハーロルト」
これだけ向日葵があれば彼女もきっと喜んでくれる、急に頼んだのに願いを聞いてくれて本当にありがとうと礼を言い、ちらりとリオンを見ればやや複雑な表情を浮かべながらもありがとうと礼を言う。
「……また何かあれば連絡をくれ」
「ああ。是非そうさせて貰う」
本当にありがとう、その言葉に有りっ丈の思いを込めたウーヴェにハーロルトが素っ気なく頷き、じゃあこれで帰ると手を挙げてクリニックから出ていく。
その大きな背中を見送った三人が本当にこれだけの向日葵をどのようにしてホームに運ぶかとウーヴェが顎に手を宛った途端、魔法が解けたように二人が同時に顔を見合わせて困惑した表情のままウーヴェを見る。
「俺、さすがにこれだけの花を持って電車に乗るのは無理だし恥ずかしいって、オーヴェ」
「……向日葵が向日葵を持って歩いているようなものだからな」
「は?」
「……いや、何でもない」
リオンの素っ頓狂な声に咳払いをし、午後の診察があるからクリニックを空ける訳にはいかないウーヴェが少し考え込むが、何かに気付いて目を光らせると診察室に駆け込んでいく。
「オーヴェ?」
「クリニックを閉めればホームに行く。だからそれまでホームで待っていてくれないか、リーオ」
「へ?」
ウーヴェが持ってきたのはリザードが己の尻尾にスパイダーのキーを巻き付けて誇らしげに目を光らせているキーホルダーで、驚くリオンの掌にそれを落とすと、仕事が終わるまでの間待っていられるだろうと問い掛けつつ片目を閉じる。
「それぐらい待ってられる!」
「はいはい。じゃあスパイダーで向日葵を運んで彼女の棺に入れてやってくれないか?」
「……車、良いのか?」
二人が付き合うようになって結構な月日が経過していたが、リオンがスパイダーを運転するときには必ず助手席にウーヴェが乗っているときだったため、こうして愛車を使えとキーを差し出してくれたことが信じられず、またそれがウーヴェからの信頼の証だとも気付いてじわりと胸を温めると、構わないと苦笑されて小さく頷く。
「ホームに行って。それから一緒に帰ろう」
明日の葬儀に参列する準備等もあるしひとまず段取りを確かめてからになるが一緒に帰ろうと笑うウーヴェにリオンも頷き、手の中でスパイダーの鍵を転がす。
「じゃあ先に帰ってるな」
「ああ。頼む」
リアが壁の時計へと視線を向け、そろそろ午後の診察の準備をしなければならないと気付いたリオンが向日葵の箱を肩に担いで手を挙げて出て行こうとするのを呼び止め、目を丸くするリオンに小さな音を立ててキスをしたウーヴェは、また後でと告げてその背中をぽんと押す。
「うん、また後で」
じゃあと今度こそ出て行くリオンの背中を見送った二人だったが、気分を切り替えるためにどちらからともなく小さく笑って溜息を零し、床の上でマグカップがいつまでも転がったままでだと気付いて慌ててリアがカップを拾い上げるのだった。
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