テラーノベル
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父に執務室に呼ばれ、ローランとの婚約が、ナーシャからリリアに変わる事を告げられたのは、その日の夜だった。
あの後ローランは、アリスに誘われるまま、別宅に向かった。その時に少しだけナーシャを振り返り「じゃあ後で」と軽く手を上げて言ったが、ナーシャを呼びに来る別宅の者はいなかった。
代わりにリリアが、侍女と二人で別宅に向かうのが、ナーシャの部屋の窓から見えた。
「もう、疲れちゃったな」
「お嬢様⋯」
ナーシャにはもうこの家に味方はセリナしかいないように思えた。兄も父も慕う気持ちがナーシャには湧いてこない。二人もナーシャに対してはそうなのだろうと思えた。お互い様だ。
どうしてこんな事になったのか、ナーシャには分からなかった。ボタンの掛け違いなんて、簡単なものではないような気がする。全ての動きが、ナーシャを侯爵家から排除する動きに見えてしょうがなかった。
その夜、ナーシャはノートに書き付けた。
これから自分がすべき行動。
出来るだけ早めに家を出る方法。
その日の夜、ナーシャの机の明かりは遅くまで消えることはなかった。
◇◇◇
次の日学園での昼休み、ナーシャは図書室で調べ物をしていた。侯爵家を出る決意をしたものの、それ以降どうやって生活すればいいのか分からなかったからだ。
「どんな仕事につけるのかしら?」
今侯爵家を出ればナーシャは平民になる。学園も退学しなければならないだろう。侯爵家を出たら喩え実娘であったとしても、《《あの父》》が学費や寮費を出してくれるとは思えない。
そんな父と交渉する気にもなれないのだ。
それまでにも何度も考えた。
どうして父や兄はナーシャを嫌うのだろうか?
心当たりは兄の言葉だ。
『祖母の味方をするお前を、母上とは会わせられなかった』
兄のセシルだけがリリアと交流していた事を知った時、セシルがナーシャに言った言葉だ。
孫が祖母を慕って何が悪い?
未だにナーシャには父とセシルの考えが理解が出来ない。
祖母は確かに厳しい人だった。ナーシャは祖母の生前の言葉と昨夜の事を思い出しながら、祖母の事を考える。
ナーシャへの|家庭教師《カヴァネス》は、彼女が6歳の頃に祖母から付けられた。最初の一年は徹底的なマナー指導だった。
夜にはその日の復習を祖母の前で披露する。
間違ってしまったり、無作法なときは脹脛を叩かれる。それは祖母だけがしていて、家庭教師が手を上げることはなかった。
それでも、祖母は叩いた後に必ず薬を手配してくれる。
その時に言われた言葉は、ナーシャは今でも覚えている。
「ナーシャ、痛みで覚えるのは、きっと脹脛だけではなく心に傷がつく。ですが我々は貴族です。そうまでしても覚えなければ、領民は明日の食べ物にも困りかねません。私を許してとは言いません。ですが貴族である以上いつか貴方にも分かる日が来ます」
「お祖母様。では貴族でなくなってしまったら?」
卑屈でも皮肉でもなく、本当に思ったままを口にした幼い孫娘に、祖母は優しく頭を撫でながら諭した。
「貴族で無くならないようにしなくてはね。貴族でなくなるのは領民への裏切りなのよ。彼等は私達を信じてこの地に留まってくれているの」
「領民が?」
「そうよナーシャ。このお洋服もこのリボンも、領民たちがこの家を信じて働いてくれているから、ナーシャは買うことが出来るの。その期待に私達は応えてあげなければいけないの。その為に必要なのは、日々のお勉強を《《身に付ける事》》。学ぶだけなら誰でも出来るわ、身に付けなければ意味がないのよ」
「お父様もお兄様もお勉強しているのね」
ナーシャは少しだけ痛む脹脛を擦って祖母に尋ねる。
すると祖母は悲しい顔をした。
「セシルも今ナーシャと同じ様に頑張ってるわ。でも⋯スティーブは⋯頑張っていた筈なのだけどね」
祖母の悲しい顔にナーシャも悲しくなって、小さな手で祖母の頬を恐る恐る撫でてみる。
するとその小さな手に祖母の少し骨ばった手を重ねて、そのまま頬ずりしてくれた。
ナーシャの記憶の中の祖母は厳しくても、優しさを秘めているように思えた。
それは彼女の臨終まで続いた。
今わの際で、祖母はナーシャへ言葉を残してくれた。
「ジェストを信じて付いていきなさい。貴方は侯爵家を出るけれど、出た先にも領民はいるのよ。貴族と生まれたからには、それを義務だと感じなさい」
残した言葉のジェストは、今はもうナーシャの側には居ない。
平民になろうとするナーシャは、領民を祖母を裏切るのだと思い今まで耐えてきたのだ。だが昨夜、ナーシャはセリナから手紙を渡された。
祖母がセリナに託した手紙だった。
もしナーシャの心に限界が来たら渡してほしいと頼まれていたという。
そこには、祖母のそれまでの教えとは、真逆の事が書かれていた。
『貴族の教えは貴族であろうという心が保てる間だけでいい。貴方が心を壊してまでなど領民も望んでいないわ。貴方の立場の中に、心が堪えきれない事情が出来たら、今度は信じられる領主の元で働く事もいいと思う。そうなったとしても、ナーシャが学んだ事は無駄にはなりませんよ。貴方の幸せを空から願っているわ』
これを読んだ時、ナーシャは少し複雑な気持ちになった。自分が信じていたものが崩れ去る音が聞こえた気がした。
「どうしてお祖母様、こんな矛盾⋯」
「お嬢様、大奥様はいつもお嬢様の幸せを願っていましたよ」
「でも、こんな」
「おそらく、いつもは貴族として教え導く事が義務でした。ですが大奥様にも孫の幸せを願う権利もあっていいでしょう?」
「義務?権利?」
「はい、義務と権利です。学びを疎かにする者は義務は果たさず権利ばかりを主張します。大奥様がお嬢様に常に教えていたのは、貴族としての義務です。ですが心の中ではお嬢様の幸せを常に願っていたのです。ですから耐えられなくなった時にと私にお手紙を託したのです」
「お祖母様には|現在《先》が見えていたのかしら?」
「どうでしょうか、手紙が開かれることのないことを願ってもいらっしゃいましたから」
「⋯⋯⋯そう」
祖母の教えに背くのが、残念で辛いと思っていたナーシャの背を押したのは、ナーシャの幸せを願う祖母の優しい手紙だった。
コメント
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第4話、読み終わりました。おばあ様の手紙が本当に沁みました…。「義務と権利」の話、厳しさの中に孫の幸せを願う優しさがあって、ナーシャの背中を押す温かいエピソードだったなあ。家を出る覚悟を決めた彼女のこれからが気になります。続きを楽しみにしています🌷