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ベッドから起き上がって窓際のソファへと移動したウーヴェにぴたりと寄り添うように移動したリオンがそこに袋に入れられたままの日記があることに気付き、片付けなければならない問題はまだまだ残っていることを思い出すが今日一日の休みだけでどうにかなる事ではないとも気付いていた。
二人並んでソファに座るが、リオンが日記を手にすると隣でウーヴェの肩がぴくりと揺れる。
その些細な動きが悲しくて日記をひとまず横に置いたリオンは、ウーヴェの髪に顔を寄せながら肩を抱き、いつまでもビクビクしなくても良いと伝えるものの、それが無意識に起こる反射的なものである事を小声で教えられて納得したように溜息を吐く。
「んー、確かにそうだよなぁ。俺もやっぱり今でもゾフィーの話が出たら胃の辺りが気持ち悪くなるもんなぁ」
ある種当事者であり最も身近にいた部外者であったあの事件がリオンにもたらしたものは大きく言葉では表せないほどだったが、それよりも遙かに重大で今でも思い出してうなされる事件の当事者であるウーヴェのそれは今のリオンならば理解出来るものでもあった。
そんな反応を起こさせる日記をそっと横に置いたリオンは、つい先ほど聞かされたことを思い浮かべながらウーヴェの肩に腕を回して軽く引き寄せる。
「どう、した?」
「うん。……親父がお前を特別な子どもって言った意味が分かった」
それは己が考えていた様な物理的な意味ではなく精神的なものだったと告げて白とも銀ともつかない髪に口づけたリオンは、ウーヴェが訝るように見つめてくる事に気付いて目を細める。
「どうして親父やムッティはファーストネームなのに、兄貴やアリーセはミドルネームを呼ぶのかも分かった」
家族間での呼び方が違う理由を教えられたと告げると、ウーヴェの口から微苦笑がこぼれ落ちる。
「俺も、大学の時にイェニーに言われて……気付いた」
「そっか」
「ああ。小さな時からエリーはエリーだった、から……それがおかしな事だとは思わなかった」
それが日常だったから気にも留めなかったと苦笑するウーヴェの言葉からギュンター・ノルベルトのあの日の決断が正しくウーヴェに働きかけている事を知ったリオンは、陰になり日向になり己の息子を守る二人の父の横顔を自然と思い浮かべると、太陽を直視した時のようなまぶしさを感じて目を細める。
そうして一体何度目になると思いつつも、人として偉大な二人の男と比べれば小さすぎる己に忸怩たる思いを抱いて項垂れそうになるが、ターコイズ色の双眸にじっと見つめられている事に気付くと、心の奥の深い場所に居場所を得ている一つの思いが頭をもたげる力を分け与えてくれたため咳払いを一つして気分を切り替える。
「オーヴェ」
「何だ?」
たった今感じた思いを言葉にすることは出来るしそれを持ち合わせているが言葉にしなくとも伝わる思いは必ずあることをウーヴェとともに過ごした日々で教えられたリオンは、小首を傾げるウーヴェの頬に手を宛がうと、この世に存在している奇跡を神に感謝しつつ額に口付ける。
「どうして生まれてきたとか、生まれてくるべきじゃなかったとかずっと思ってて苦しいだろうけど、……お前が生まれてくれたこと神に感謝する」
そして、辛い事件を経験し家族との形が大きく変わったとしても、生きることを選んでくれているお前に最大の敬意を。
もしかするとマザー・カタリーナでさえも聞いた事が無いと思うような真剣さを通り越した声にウーヴェが息をのみ、己の頬を両手で挟んだままじっと見つめるリオンに呼びかけようとするが、再び額に口付けられて言葉を飲んでしまう。
「ダンケ、オーヴェ」
その言葉に込められた万感の思いを感じ取れないウーヴェでは無いため、逆にリオンの頬を両手で挟むと先程口付けられた額をコツンと重ね合わせる。
「お前も」
「お互い様だな」
「ああ」
額を重ねて小さく笑い合う二人だったが、まさかこの部屋でこうして笑い声を上げられる日が再び来るとは思わなかったとウーヴェが自嘲気味に呟くとずっとベッドにいたのかと問われて静かに頷く。
「ああ。……あのベッドでずっと寝ていた」
そんな暮らしが一年近く続いたが、毎日顔を見せてくれるベルトランやアリーセ・エリザベスらの力を借りて何とか起き上がれるようになったとき、ベルトランが小さな子どものように大粒の涙を流しながらウーヴェを抱きしめたことがあった。
そのことを後年になってアリーセ・エリザベスから教えられたウーヴェは、ベルトランが幼なじみで本当に良かったとあの時も抱いた感想を口にする。
「そーだな。良かったなぁ、オーヴェ」
総てが灰色の世界だったかも知れないがその中でも変わること無く接してくれる幼なじみは本当に貴重な存在だと笑うと、ウーヴェの視線が一瞬左右にさまようが可能な限りの笑みを浮かべてリオンを真正面から見つめる。
「オーヴェ?」
「……あの時はベルトランとエリーがいた。今は……お前がいてくれる」
あの日々に得ていた春の陽のような暖かさとは比べられないほどの熱量を持つお前がいてくれるおかげで、そこにあるだけで緊張してしまう日記を読んでも良いとさえ思えてくることを教えられて呆然と目を見張ったリオンだったが、言葉の意味を理解した瞬間、さっきとはまた違うが他の誰よりも頼りになる男の顔で太い笑みを浮かべ、対照的に目を細めるウーヴェをしっかりと抱き寄せる。
「……生きていて良い……言ってくれて、ありがとう、リオン」
あの事件で一人だけ生き残った自分がこの部屋で日がな一日ただ目を開けて天井だけを見ていた頃から決して消すことが出来なかった悩みに一つの答えを出してくれてありがとうと、リオンの肩にくぐもった声で告白したウーヴェだったが、素直な思いを口にしたことで心の枷が外れたのか、一つ身体を震わせさらに身を寄せてリオンのシャツの背中を握りしめる。
「……もう、戻りたく、ない」
過ぎ去ったはずの時が何度も何度も繰り返され、夢か現実か分からない時間を一人でその恐怖をやり過ごす日々には戻りたくないとリオンのシャツに吐露したウーヴェだったが、かすかに震える吐息が耳元に落とされた直後、身体の芯が震えるような声が聞こえてきつく目を閉じる。
「戻さねぇよ。それにお前はもう一人じゃねぇ」
だからもう独りで泣くな。
その言葉にいつものように反論しようとしたウーヴェだったが、リオンの温もりが全身を包むだけではなく心も抱きしめてくれているのだと気付くと、心の奥底の誰も手を伸ばすことのできない場所で独り蹲っていた小さな背中に一筋の光が差し込み、それに気付いた背中が動き出す。
いい年をした男が昔を思い出した恐怖で震えているなどなんとも情けないとどこかで嘲笑う声が聞こえ、ようやく起き上がった背中がまた震えて小さくなってしまうが、次いで聞こえてきた言葉に蹲る背中が一際大きく震え、それと同調するようにウーヴェの身体が痙攣したように震え出す。
「怖いときは怖い、痛いときは痛いって言って良いんだぜ、オーヴェ。我慢するなっていつも言ってくれるのはお前だろ? だったらお前もお前に同じことを言ってやれよ」
今まで怖いとも痛いとも言わずに堪えていたお前自身に言ってやれと強く優しく響く言葉で囁かれ限界まで目を瞠ったウーヴェは、闇の中でただ独り蹲って背中を振るわせていた小さな身体が意思を持って起き上がると同時に周囲の空気が流れ出したのを広がる世界で見続けているが、背中が振り返った瞬間、開いた口から悲鳴にもうめき声にも聞こえる声が流れ出す。
そこにいたのは事件が解決しもう安心して家に、愛する家族に囲まれて暮らして良いと教えられ、身の危険を感じなくなったはずの己だった。
凄惨な事件を経験した後ではその前と世界はがらりと変わっていて愛する家族の顔すら認識できないほどだったが、その中でも父と兄だけは以前のように父であり兄であるとの認識を持つことができていた。
ただ、その二人が今回の事件の原因を作っただけではなく、何の関係もない-とウーヴェは思い込んでいる-ハシムの命を無残にも奪ってしまったという事実と今でもやはり大好きな家族であることに変わりはないという思いの狭間で身動きが取れなくなり、どうすれば良いのかが分からない不安からその場に蹲り時すら止めてしまっていた。
大好きな二人が事件の中で唯一の救いだった少年を殺し仲間割れをした大人達が死んでいく中、最後の最後に身を投げ出して己を庇った女性の命を奪いながらも生き残ったという罪悪感と家族への思いにどうすることもできずにいた小さな己が、命を落とした彼らから受けるかも知れない報復を恐れ、永遠に事件の中にいればこれ以上何も悪いことなど起こらないと考え蹲っていたが、その背中に光が当たり止まっていた時計が一つ進んだ様な気がして身体が震え出す。
ただ独り暗闇に蹲り、今まで誰かが当ててくれていただろう光にも気付かずにいた頃に戻りたくなかった。
時が止まった世界に独りでいたくなかったし、また小さな己をそんな世界に戻したくはなかったが、事件から二十数年が経過したにも関わらず、心の奥底にいる幼い己に救いの手を差し伸べられないことも痛感していた。
だから、今ここでそれをできる唯一の男の顔を正面から睨むように見つめ、シャツを握りしめて震える声で懇願する。
「リ、オン……リーオ……っ! い、や……だ、も、う、いや、だ」
「うん」
「……助け、……も、ぅ……」
「うん。もう終わりにしようぜ、オーヴェ」
みっともないほど途切れ掠れる声だったがリオンにしてみればまた聞くことのできた助けを求める声に感じ、苦しそうに荒い息を吐くウーヴェの頬を撫でると、その手の動きに誘われたのか、今まで決して乗り越えることのなかった強固な堤防を感情の波が乗り越えた証の涙が溢れウーヴェの肩が上下する。
嫌だ、もう嫌だと繰り返すウーヴェを黙って抱きしめ背中を撫でたリオンは、嫌だと繰り返す姿から過去の事件の傷が治癒したのではなくただ隙間だらけの柵で囲い蓋をされただけのものだったことに気付くが、当時の様子を思えばそれだけの治療しかできなかっただろうことも簡単に予測できてしまう。
だからいつまでも夢にうなされ、事件の影響から本当ならば愛してやまないはずの家族-特に父と兄-を嫌悪し、見るだけで心身に不調を覚えるのではないのか。
本来ならばウーヴェがこの家に戻ってきた時から誰かがこうしてウーヴェを抱きしめ、もう安全だともう何の心配もしなくて良いと言葉でも態度でも伝えなければならなかったのだが、どうして誰もそれをしなかったのかという疑問が芽生えてくる。
ただ、その疑問故にレオポルドやギュンター・ノルベルトらに対して何らかの感情を抱く訳ではなく、それができなかった理由を知りたいという強い思いを感じただけだった。
「お前は今まで頑張ってきた。だから俺の前でだけはもう頑張んなよ」
今までずっと頑張ってきたお前を見せてくれたのだから、次は頑張らない己の心に素直なお前を見せてくれと笑顔で強請ると、ウーヴェの目が限界まで見開かれる。
「――素直じゃ無いお前も好きだけど、素直なお前はもっと好き」
「ア……あぁ……・っ・・!」
「うん。本当に、素直なお前が好き、オーヴェ」
感情が高ぶると未だに発語障害を持つ人のように意味の無い音だけを途切れ途切れに流してしまうが、そんなウーヴェでも何ら変わらないと言いたげな顔で頷くリオンの前、最早抑えられない感情のままに涙と鼻水で端正な顔を汚しながら言葉に出来ない思いを垂れ流す。
こんなウーヴェは家族ですら見た事が無いだろうが、信頼の証にそれを見せてくれた事への感謝と、小さな子どものように顔をぐしゃぐしゃにしながら肩を揺らすウーヴェがただ愛おしくて、何よりも大切な宝のように抱き寄せれば一際大きく肩が上下し、聞いているだけで胸が締め付けられる悲鳴混じりの声に名を呼ばれてここにいると答える。
「二十年以上ずっと独りで抱えてきたもんなぁ。お前が泣くのは見たくねぇけど、ガマンさせるのはもっと嫌だからなー」
だから今は何も考えずに泣け。本当ならば過去の事件で流すはずだった涙、それを今ここで流してしまえと囁きウーヴェの目尻にキスをしたリオンは、耳に流れ込む声に心臓を鷲掴みにされたような痛みを覚えて目を伏せると、ウーヴェの背中に回した腕に無意識に力を込めてしまうのだった。
今まで誰にも明かすことのできなかった秘密の一端に触れただけではなく、その核心にまで手を伸ばしてきたリオンに自ら救いを求めたウーヴェだったが、長年抱えていたそれをすべてさらけ出しても良いのだと言葉と態度で教えられ、自分自身ですら忘失していた-というよりは思い出さないように心が働きかけていた-言葉を突如思い出してしまい、たった今まで流していた涙をぴたりと止めてしまう。
ウーヴェの反応に一瞬戸惑ったリオンだったが、腕の中で身体を震わせながら悲鳴を上げて泣いていた時とはまた違う震え方をし始めたことに気付き、今日だけで本当に沢山の顔を見てきているウーヴェがどんな表情を見せるのかと身構えた瞬間、子どものような悲鳴が流れ出して顔を顰めてその衝撃をやり過ごす。
恐怖を感じた人が放つ常軌を逸したような悲鳴に似ていると咄嗟に判断をしたリオンは、ウーヴェの腕を掴んで顔を覗き込もうとするが、焦点だけではなく歯の根も合わないのかカチカチと恐怖に歯を鳴らしながら今度は助けてくれと繰り返す。
「オーヴェ?もう大丈夫だ。もう誰もお前を殴ったりしねぇ」
だからもう安心して良いと言い聞かせるにしては口早に告げるが、それでも助けてという言葉が流れ出し、いつか見た景色だとリオンの脳味噌が判断を下し、その時と同じならば大丈夫と冷静さも取り戻す。
「大丈夫だ、オーヴェ。誰も怪我しねぇから、もう大丈夫だ」
誘拐されていたときのように誰もお前を殴ったりしないと、過去に何度か見た姿であることを再認識しながら告げたリオンの耳に流れ込んできたのは、二人を好きだともう思わない、言わないから殴らないでくれという掠れた声で、咄嗟に誰のことを指しているのかが理解出来ずに顔を覗き込むと、恐怖と苦痛に端正な顔を歪めたウーヴェがお願いだから殴らないでくれと繰り返す。
「ああ、もう殴らない。もう大丈夫だ」
「……も、ぅ……?」
「うん。もう誰も殴られない」
その言葉を信じたい、信じようとする動きをウーヴェの目の中に見いだし、胸をなで下ろしたリオンだったが、本当に二人は僕のように殴られないのかと問いかけられて蒼い目を驚愕に見開く。
「オーヴェ……?」
「二人……が・・、殴られ……っ……!」
二人が殴られるのは嫌だと、感情に邪魔をされながらも必死になって訴えるウーヴェの肩を掴んだリオンは、痛みと衝撃に身を竦めるウーヴェの顔を覗き込みながら誰と誰が殴られるんだと驚きを声に出さないように気をつけつつ問いかけるが、ウーヴェの口から出てくる言葉は嫌だという短い単語だけだった。
「ああ、うん。嫌だよなぁ。誰も殴られたくねぇよな」
焦れて急かしたくなるのをぐっと堪え、誰も殴られたくないよなぁと暢気さを装って返すリオンにウーヴェが頷き、皆が痛い目に遭うのは嫌だと繰り返すが、根気よくリオンがもう大丈夫だと繰り返したおかげで呼吸も落ち着き体の震えも治まってくる。
「……エリー、……母さん……」
声にのみ恐怖が残っているのか、震えて掠れる言葉が教えてくれたのは、アリーセ・エリザベスとイングリッドの名前だったことから、ウーヴェが庇っていたのはその二人だったと気付いたリオンは、幼い頃に良くマザー・カタリーナがリオンを慰めるときにしてくれたようにウーヴェを己の足の上に抱き寄せ、色を無くした顔に何度もキスをすることで安心させようとする。
その行動は無意識のものだったが、ウーヴェがリオンの肩に懐くように顔を寄せたため、髪を撫でて背中を撫でると、嗚咽を堪えるように肩が上下する。
「もう大丈夫だからなー。お前が好きだって言っても誰も怪我なんてしねぇ」
ここにいるのはお前を愛し、またお前も本当は愛している人達ばかりだと見え隠れする耳に囁きつつ頬にキスをすると、ウーヴェの腕が上がってリオンの背中に回される。
「リーオ・・っ……」
「ああ。もう大丈夫だ。お前はもう事件から解放されてるし解放されても良い」
だから素直になって思いを口にすればいいと促すが、ウーヴェの中で葛藤が続いているようで言葉にされたのはリオンに対する感謝の思いだけだった。
ただ、ウーヴェが先ほど口にした、好きだと言えば二人が傷つけられるとの言葉の意味を考えたリオンは、ウーヴェが事件から二十数年が経過した今でも母と姉を庇っているのではないかと疑問を抱き、己の脳味噌がぽんと思い浮かべた言葉に絶句してしまう。
父や兄を好きと言えば殴られると何度か言ったことがあったが、それは自身のことではなく母や姉が殴られると言いたかったのではないのか。
そこまで思いが及んだとき、ウーヴェが腕の中で身動いだため、ハッと気付いたリオンがウーヴェの顔を覗き込もうとするが、腕を突っ張って俯かれてしまい、唐突な狂乱からの立ち直りに驚き、もっと抱えているものを吐き出させた方が良かったのでは無いかという思いから肩を抱きつつ涙の跡が残る頬にキスをする。
「顔洗いに行くか?」
「……行く」
過去に流すはずだった涙を今流して心が満足したかも知れないが、さすがに涙と鼻水とで顔を汚したままにするのは成人男性の矜持が許さないだろうと問いかけると静かに頷かれるが、足の上から降り立とうとするウーヴェの腕を掴んだリオンは、訝るように見下ろしてくる涙に濡れたターコイズを見上げて片目を閉じる。
「リオン……・?」
「今日のおやつはお前の好きなリンゴのタルトと俺のリクエストでチーズケーキだってさ」
「……うん」
「な、お前が好きなおやつって何だった?」
「おやつ?」
「そう。リンゴのタルトに命をかけてるのは分かってるけどさ、他にも好きなのってあったんじゃねぇの?」
それを教えてと強請ると暫くウーヴェが考え込むように小首を傾げるが、カスタードプディングが好きだったと答えると、勢いよく立ち上がったリオンがウーヴェの腰に腕を回したかと思うと、そのまま力任せにウーヴェを肩に担ぐように抱き上げる。
「!?」
「今日はお前が本当に良く頑張ったからなー。ムッティのチーズケーキは食いてぇけど、お前の好きなタルトとプディングに変更して貰おうぜ」
驚愕に瞠った目で見下ろしてくるウーヴェに片目を閉じて悪ガキの顔で笑ったリオンは、頑張ったお前にご褒美だともう一度繰り返して涙の跡が残る頬に何度目かのキスをすると、ぽたぽたと音が聞こえるほどの大粒の涙が頬に落ちてきたため、小さな子どもをあやすように背中を撫でて髪を撫で、ついでのように白い髪を肩に懐かせるように引き寄せる。
「ずーっとみんなを庇ってたんだよなぁ。どーしてそんな事が出来るのか教えてくれよ。な、オーヴェ」
「……っ……ン……っ!」
「顔洗いに行こうかー」
「自分で、行ける……っ……」
「うん。分かってる。でも俺が下ろしたくねぇ」
いくら家とは言っても子どものように抱き上げられている姿を家族に見られるのは嫌だと腕を突っ張ろうとするウーヴェに悪ガキでは無い顔で再度笑いかけたリオンは、お前の頑張りを褒め称える事は出来ないのだからとも笑うと、ウーヴェが涙を溜めた目で見つめて来る。
「顔洗ってさ、おやつの用意をしてるムッティとハンナを見てようぜ」
お前が小さな頃に毎日当たり前のように見ていた家族の光景を見に行こうと笑いかけると、ウーヴェが何度も頷いて今度は自らリオンの首に腕を回して隠すように顔を寄せる。
「……・ぅ、ん……」
「カスタードプディングかー。美味そうだよなぁ」
そう言えばゾフィーが何度か作ってくれたことがあったとも笑い、しっかりとした足取りでウーヴェの部屋を出たリオンは、廊下の先で心配そうな顔でこちらを見つめているアリーセ・エリザベスに気付き、声を掛けるなと合図を送る。
「さー、顔を洗って、ムッティとハンナにすげー美味いタルトを作って貰おうなー」
それを食べて少しでも元気を出そうと笑い、アリーセ・エリザベスにも笑いかけたリオンは、ウーヴェを抱き直してゆっくりと階段を下っていくのだった。
顔を洗って涙と鼻水を洗い流した後、後ろで腕を組んで壁に寄りかかっているリオンを鏡越しに見たウーヴェは、泣き顔を見せてしまった気恥ずかしさに目を逸らしそうになるが、鏡の中で直視せずに見つめた蒼い瞳-今は色を無くしているために灰色にしか見えない-が優しくて、ゆっくりと振り返ればリオンが壁から背中をはがして両腕を差し出してくる。
その手に自然と誘われるように身体を前に傾げれば、しっかりと受け止められてこれもまた自然と安堵の溜息が零れ落ちる。
「すっきりしたかー?」
「……うん」
「そっか」
「今日は……朝から泣いてばかり、だな……」
いい年をした男が情けないと、リオンの胸板に自嘲を零したウーヴェは、背中に回った腕がそれでも構わないと言ってくれているように感じ、灰色の世界でも見慣れた色を宿す瞳を見上げると照れたように細められる。
「へへ。オーヴェの泣き顔なんて俺しか見られないよな」
それを見せてくれたのが本当に嬉しいと笑うリオンに釣られて小さく笑みを浮かべたウーヴェは、お前に見せることも恥ずかしいから嫌だと強がると、もーまたそんな素直じゃ無いことを言うといつもの不満がリオンの口から流れだし、背中に回された腕に力が込められる。
「リオン、痛い」
「……意地っ張りでガンコだけど、誰よりも頑張り屋のオーヴェ」
そんなお前を俺もお前の家族も愛している。
その言葉にウーヴェが一つ肩を揺らすが、己を褒めるリオンに応えたいのか顔を上げてリオンの頬を両手で挟む。
「……うん」
素直なその頷きにリオンがじわじわと笑みを浮かべると、再度ウーヴェの腰に腕を回して勢いを付けて抱き上げるが、今度は先程のように腕を突っ張ったりすることは無く、素直にリオンの肩に懐くように頬を押し当てる。
「……ありが、とう、リーオ……」
「お前に礼を言われるのって気持ち良いから好き」
だからもっと素直になって礼を言ってくれ、笑顔を見せてくれと笑顔で強請るリオンに頷き、くすんだ金髪に頬を押し当てて目を閉じる。
「……今まで、誰にも、言えなか……た……」
それに気付いてくれて、聞いてくれてありがとうとも礼を言うと、もう独りで抱え込む必要は無いからと何度でも言い聞かせると笑いながらリオンに優しく守るような言葉を伝えられて頷く。
二十数年もの間独りで抱え込んでいたものを分かってくれる、傍にいてその問題に向き合ってくれる存在は言葉では言い表せない奇跡のようなものだったため、その思いだけは素直に伝えようと決めてリオンのくすんだ金髪に頬を宛がったまま言い慣れていてもやはり自分たちにとっては大切な言葉を途切れつつ囁く。
「……俺の、太陽……お前が、いるだけ、で……俺は、笑える……」
今は世界は灰色だけど、それでもそんな世界でもお前の光は眩しいぐらいだとふわりと笑うと、リオンの顔がウーヴェの胸元にぐりぐりと押しつけられる。
そのくすぐったさに小さな声が自然と零れ、それがさらにリオンの動きを加速させたのか、何度も頭が押しつけられてウーヴェが笑う声が徐々に大きくなる。
「リーオ、くすぐったい……っ!」
「んふー。オーヴェ大好き愛してる」
頭に頬を宛がったまま笑い声を上げるウーヴェにいつもと変わらない声で告白し、その勢いのままドアを開けて廊下に出たリオンは、長い廊下の先のドアが開いてイングリッドの顔が見えたことに気付くが、ウーヴェの笑顔と笑い声が嬉しくて、さらに胸に顔を押しつけると、ウーヴェがリオンの頭にしがみつくように腕を回す。
「も、ぅ……ホントに、やめてくれ……っ」
苦しいぐらいくすぐったいから止めてくれと、さっきまでとはまったく違う涙を流しながらウーヴェが笑い、頼むから止めてくれと笑うウーヴェ以上に笑顔になったリオンは、ウーヴェの身体越しに見えた彼女の顔が驚きに彩られているのを視界の隅に収めると、掛け声を放ってウーヴェを抱き直しそのまま廊下の先にあるレオポルドの部屋に向かって歩いて行く。
「リオン……?」
「んー?」
「どこに行くんだ……?」
「うん。お前が頑張ったご褒美はもうちょっと後にして、その前にもう一踏ん張りしようぜ」
「?」
ウーヴェの疑問に笑み混じりの太い声で返したリオンは、ご褒美のタルトはもう少し後にしよう、その前に頑張ろうと告げてウーヴェの頬にキスをすると、驚愕の顔で見守るイングリッドに片目を閉じてその前を通り過ぎる。
「お前がさ、俺がいない時にここにいても今みたいに笑えるようになる為に、もう少しだけ頑張ろうぜ」
その言葉にウーヴェが口を閉ざして眉を寄せるが、レオポルドの部屋の前でリオンが足を止めたことに気付くと、自然と身体が強張ってしまう。
腕の中で身体が緊張を覚えたことに気付いてそれを解すためにもう一度ウーヴェの頬にキスをしたリオンは、ウーヴェのクリニックのドアをノックするときのように激しくドアをノックすると、部屋の中から今のは何だという驚きの声が上がる。
「リオンか!?」
「正解、親父」
この家でそんな風にドアをノックするものなどいないため、リオンかと叫んでドアを開けたレオポルドの前、己の息子を子どものように抱き上げたまま太い笑みを浮かべるリオンがいて、思わず呆気に取られてしまう。
「オーヴェ連れてきた」
「あ、ああ……」
それは構わないが、と、躊躇いを感じながらリオンとウーヴェを部屋に招き入れたレオポルドは、振り返った先でもう一人の息子が自分と同じように驚きながら椅子から立ち上がったのを見、どんな言葉を掛けることも出来ずにウーヴェを抱き上げたまま先程の椅子の前に向かうリオンをただ見守っているのだった。