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「でもさ……ちょっとだけ、寝ぇへん?」
元がもう限界だと言わんばかりに、大きな欠伸をした。
……これは、誘われてるのか? 俺だって流石に眠いし、その誘いには全力で乗りたい。けれど、この重たいまどろみは確実に「朝チュン」コースや。一度目を閉じれば、翌朝まで起きられる自信なんて微塵もなかった。
「……元、ちょっと寝ていいよ。ええ時間になったら起こすわ」
俺はこの睡魔に打ち勝ってみせる。元が眠りについた瞬間に、目ん玉にわさびを塗りつけてでも、一晩中起き続けてやる。
「ん、じゃあ布団……」
元がふらりと立ち上がり、布団が敷いてあるはずの隣室の襖を開ける。
そこには真っ白でふかふかした、さっき食べた饅頭みたいないい匂いがしそうな布団が敷かれていた。これは、一瞬で夢の国へと誘われる事間違いなしや。
「ん、もとちゃんも。ちょっとだけ、ここ」
元が、自分の隣のスペースを、手のひらでポンポンと叩く。
……あかん。これは、絶対に寝られへんの確定やん。
けど、こんな顔で、こんな距離で誘われて、拒否できる男がこの世にいるか?
俺は生唾を飲み込み、促されるままその隣へと横たわった。
畳の匂いと、シーツから漂う太陽の匂い。そして、すぐ隣にいる元から漂う、ビールの混じった甘い匂い。
心臓の音が、静まり返った深夜の部屋にうるさく響く。
目は冴え渡っている。一晩中わさびを塗り続けるまでもなく、俺の全神経は、隣で無防備に目を閉じようとしているこの子に釘付けになっていた。
「ふふっ。ベタベタした触り方以外やったら、何しても怒らんよ?」
今朝、俺が元に投げかけた冗談が、暗がりの部屋にやけに生々しく響いた。
……ズルいわ。今のこの状況で、そんなこと言うなんて。
だって、今の俺は――正直、ベタベタした触り方しかしたくない。期待と、独占欲と。俺だって、一人の男なんやから。
「……大丈夫。何もせんから。おやすみ」
自分に言い聞かせるように呟いて、指先で元の柔らかな髪をそっと撫でる。
「ふふっ、触ったぁ……」と、元は満足げに少しだけ口角を上げて、そのまま深い微睡みの中へと落ちていった。
「…………セーフ」
肺に溜まっていた熱い空気を、一度に吐き出す。
あのアブナイまどろんだ空気のまま、もし元に何か誘われるような事でも言われたら。俺の理性は、間違いなく音を立てて崩れ去っていた。
今はとりあえず、ゆっくり休んでもらおう。
隣で規則正しくなり始めた寝息を聞きながら、俺は自分の心臓の音を鎮めることに必死やった。まずは、この子の酔いを覚ましてもらわな。
それにしても、元を起こすのは一時間後か、それとも二時間後か。
深夜の大浴場は何時まで開いているんやろう。そんなことをぼんやりと考えていた時、控えめなノックの音が響いた。
数人の旅館スタッフが、宴の跡を片付けに来てくれたのだ。
「夜分にすみません、お疲れ様です」
散らかったビール瓶や食器を運ぶ若い仲居さんを少し手伝ったら、彼女は顔を真っ赤にして「ひゃぁっ」と声を漏らし、逃げるように部屋を後にした。
……これ、ほんまにカッコいいと思われてるんか? それとも、俺の顔がそんなに威圧的なんやろうか。
大浴場の時間を聞くついでに、先ほどから熱心に世話を焼いてくれる女将に声をかけられた。聞けば、さっきの仲居さんは彼女の娘さんらしい。なるほど、料理が勝手にアップグレードされていたのは、そういう忖度の結果やったんかと、ようやく合点がいった。
綺麗に片付いた、静かな部屋。
元が寝息を立てている横で、一人深夜のテレビを見るのもスマホを触るのも、どうにも味気ない。
やり残したこと……といえば、あとはこの部屋の露天風呂くらいか。
一人で浸かるのも、それはそれで贅沢でいい思い出になるはずや。
俺は内風呂で一日の汚れを丁寧に落としてから、露天風呂へと足を踏み入れた。
ひんやりとした夜風が肌をなで、湯気が月明かりに白く立ち上る。
「……最高やな」
結局、誰にも邪魔されず一番風呂を独占できた。
今日一日、ほんまに楽しかった。最高に美味いもんを食べて、何より、好きな人がすぐ側で眠っている。
この高い宿泊料の何倍もの価値がある、一生もんの旅になった。もう、俺の人生に思い残すことなんて何一つない――そう確信できるほど、満ち足りた夜だった。
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