テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
「おはよう、もとちゃん」
耳元で響いた柔らかな声に、ゆっくりと瞼を持ち上げる。
視界に飛び込んできたのは、開け放たれたカーテンから差し込む鮮やかな朝の光だった。
「……ん? おはよう……」
返事をしながら、俺は心臓が止まるかと思った。
目の前には、微かに湯の香りを纏い、浴衣に身を包んだ元が俺を覗き込んでいる。……え、待て。今、何て言った?
「……え!? 今、何時!?」
「六時やで?もしかして、まだ眠かった?」
見事に「朝チュン」を迎えてしまった事実に、全身から血の気が引いていく。
一人で露天風呂を堪能して、少しだけ……と目を閉じたのが運の尽きやった。
「……大浴場、一人で行ったん?」
「いや、行ってない。……内風呂と一人露天風呂して、ちょっと寝てから元のこと起こそうと思っててんけど……」
自分で説明していても情けなくて、泣きそうになってくる。
せっかくの「二人きりでの大浴場」の約束を、俺は眠りこけてなかった事にしたんや。
「俺もさっき、一人で内風呂と露天風呂入ってきた。めっちゃ贅沢な気分やったわ」
俺の絶望を包み込むように、元がふわりと微笑む。
あー、もう。恋の確認とかそんなことはもうどうでもええ。この笑顔を見られただけで、俺の負けや。
「……もとちゃん、浴衣めっちゃはだけてるで?」
ふふっ、と元が可笑しそうに笑いながら、俺の乱れた胸元と足元を整えてくれる。
触れられる指先の熱に、心臓が跳ねた。……めちゃくちゃ恥ずかしい。
「……浴衣似合ってるな?」
「ん?ありがとう、意外と綺麗に着れてるやろ?」
まだ少し湿り気を帯びた髪と、上気した頬。元は自分の姿を見せるように、くるりと回ってみせた。
着崩れているわけでもないのに、その隙のない着こなしが、かえって秘めた色気を際立たせている。……これは、ほんまに恋やな。下に心を書いて、恋。もう俺、鼻の下伸びすぎて滑り台になってんちゃうか。
「あ、はんちゃんたちが来たら、一緒に大浴場行く?」
「え!? いいの!?」
朝の光に打たれた絶望を、一瞬で消し去るような元の提案。思わず、耳を疑うような大声が出た。
「絶対、長風呂になるけどな。のぼせんように気いつけんと」
「……まあ、そうなるやろな」
顔を見合わせて、二人で笑い合う。
元の柔らかな表情を見ていると、彼の中にあったはんちゃんへの恋心は、もう確かめるまでもなく、静かに思い出へと変わっているように見えた。
……それが、俺の前でだけ見せている、優しさだったとしても。今の俺には、それだけで十分すぎるほどだった。
「はい、もとちゃんのタオル」
「あ、ありがとう」
はんちゃんたちと入れ替わりで、俺たちは二人きりで大浴場へと向かった。
元に白いタオルを首へとかけられ、「うわ、温泉来てる感あるわ!」と無邪気にスマホを向けられる。……しまった。俺もスマホを持ってきて、元の浴衣姿を納めまくるべきやった。いや、でも風呂上がりの姿を撮る方が、俺得な気もするけれど。
廊下ですれ違う旅館のスタッフ数人が、俺だけでなく、隣を歩く元を見てあからさまにうっとりと目を奪われていた。焦って元の腕を引き、歩を早める。
本人は全く気づいてへんみたいやけど、この浴衣姿はあまりに無防備で、俺以外にとっても、魅力的すぎる服、なんやと思い知らされた。
とはいえ、いざ大浴場に入ってみると、意外なほど緊張はしなかった。
見慣れた男の姿。一応、タオルを巻いて、あからさまにさらけ出すのを控えたせいもあるだろう。
適度に鍛えられた元の体つきを「綺麗やな」とは思ったけれど、直接肌が触れ合わない限りは、案外冷静でいられる自分に少しだけ拍子抜けした。
朝の光が差し込む、貸切状態の広い露天風呂は最高だった。
たわいもない話をいくつか交わすと、元は「のぼせたわぁ」と言って早々に上がっていった。朝から一人で部屋風呂も堪能していたし、もう十分やったんやろう。
「これ、ここのオリジナルやって」
「うまそう」
風呂上がり。自販機の横で、乳白色の瓶を二人で手にする。
「これ、……あの有名なメーカーのアレやんな?」
実在する飲み物の名前を出した俺に、元が吹き出した。
「旅館がオリジナルって言い張ってるんやから、信じてあげようや」
元の、それが優しさなのか何なのかわからん理屈に、二人でまた大笑いした。
……楽しい。
けれど、残念なことに、昨日よりもずっと「いい友達」になれてしまった気がする。
ほんまに、これでええんか?
……ええよな?元という存在そのものを失ってしまうくらいなら。このまま友達としての好き、に閉じこもっている方が、ずっと安全なんやから。
喉を鳴らして飲み干した液体は、驚くほど冷たくて、少しだけ甘酸っぱかった。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!