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拳を天へ振り上げて足を固め、悪魔は戦闘態勢へ入った。覇気が空間を揺らし、棘が刺さるように肌が痛む。静寂すらも狂気に思えた。風がゆらゆらと葉を運ぶ。蝶は隠れ、烏は羽ばたく。鼠は走り、花は踊る。蛙は池へ飛び込み、佐藤サナは微笑む。そして、学校は鐘を鳴らした。
崩壊。ヤツの正面を拳が一閃し、地は砕かれた。砂と礫が霧散し、視界と安全は完全に崩れ去った。大地震の中心のようにあたりが揺れ壊れ、音や匂いすらも暴れている。ほぼ全ての感覚が封じられたこの状況で残っているのは第六感――詰まる所、勘という曖昧なもののみ。圧倒的危機である。そうだというのに、私は確信できていた。来るのは正面。今この瞬間だと。吸われるように起こった風が髪を撫で飛ばし、闇が迫る。当たれば即死である事は必然。しかし、その距離僅か二十センチ。もはや避ける事は不可能。先刻の鋭い攻撃とは違い加減が消えた変わりに勢いを得たそれは、掠るだけでも無事で済むかはわからない。まるでそう。悪魔が死を囁いているかのようであった。
刹那、光が悪魔の肉体を貫く。一本、二本、三本……。その矢は絶え間なく放たれてゆく。それは流星のような美しさと同時に歪なほどの狂気を秘めていた。悪魔の肉体が光に触れるたび少しずつ、確実に液体と化したかのように溶けてゆく。明確な殺意を持った無慈悲なる攻撃。これを狂気と呼ばずして何を狂気とするか。これで死なない訳が無いと、そう思っていた。が、実際はそんな温い敵ではなかった――悪魔という存在は。ヤツの身体は溶け落ちたものを吸い取り、身体として再び利用していた。尋常ではない回復速度で攻撃を事実上無効としている。もはや常識なんてものは通用しないのだ。
私よりも、この光の矢を扱う不知火レモンの方を脅威と認識したのか、悪魔は標的を変えて彼女に向け手歩み始めた。矢は何度も命中しているというのに、それが意味を持つことは無い。散らばった黒がうねりながら戻っていく。そうか、この腕を大きくした時もそうだ。これが全体に言える特性なのかはわからないが、少なくともこの悪魔は自身の肉体を自在に操る事が可能なのだ。それがコイツの能力。暗闇の中、右も左も上も下も全てがわからない。何時だったか、遠く昔には見えていた光までの道が今ではもう見えない。どうすれば良いのかわからない。”私が”負ける事だけは無いが、勝利への道筋が――この力の使い方がわからない。
悪魔はもう彼女の間合いへ入った。今私の眼の前で起こっているこれはとんでもない事だ。彼女は死ぬのだろうか。私は冷静だ。私は奇妙なほどに冷静だ。生きている気がしないほどに冷静だ。今この瞬間だけに集中していたいというのに、頭をノイズと激痛が走っていた。何かが脳にいるのだ。
『落ち着きなさい』
え。誰?
『あなたに宿った力。と言えば良いかしら?』
お前なのか。いやお前だな、私の脳にいるのは。
『ええ。まあ、それは今は良いわ。それよりも、少し身体を借りるわね』
――。
「おい、悪魔風情が。図に乗るな」
私の身体が動き始めた。不思議な事にそれは私自身の意思によるものではない。あの夢の中と同じように魂だけになっているのだ、今の私は。身体の外、空間をゆらゆらと飛んで。私は右手の掌を悪魔へ向けた。途端に全身を激痛と血液と何かが走る。氾濫の一歩手前と言えば伝わるだろうか。焼けるような冷えた痛みと共に、私の肉体が耐えうる瀬戸際でその掌に身体の全てが移っている。全身の血管が悲鳴を上げる。喜怒哀楽、過去の記憶、未来の記憶。私の全てが堕ちてゆく。水風船が膨れるように、私の右手も形を変え始めた。もはや感覚も無く、ただ赤い。伸び切った皮膚はあまりに薄く、肉が透けて見える。もう破裂する。そう本能が理解した瞬間。全ては私を壊すこと無く弾け飛んだ。禍々しい巨大な球が地を抉りながら進み。悪魔を一線に消した。
***
「――佐藤さん。佐藤さん? 起きて」
「んにゃ?」
目を覚ますと、空はもう深い紺で染まりきっていた。月は隠れてしまっていて見えないが、幾つかの星は顔を覗かせている。絶景とまではいかなくとも、それは十分すぎるほどに綺麗であった。
「良かった。やっと目を覚ました……」
「不知火、さん?」
不知火レモンがそこにはいた。彼女を見てこの場で眠る前の記憶と、麻痺していた悪魔への恐怖が打ち寄せるように蘇る。そうだ、私は――。自然と涙が溢れた。そうなった事に対する理由はある。だが説明はできない。それが言葉で言い尽くせぬほどに多くが絡まった感情であるからだ。ただ風が心地良かった。今自分がこの世界にいれている事が奇跡のように思えて仕方が無かった。
***
最後の街外まで続く、強力な何かによって抉られた地面の跡。その最端――太平洋でそれは目を覚ました。まるで深淵を見ているかのような黒い悪魔。既に限界を超えていて回復が間に合わず、殻のようになってしまっていた。もはやもう、その肉体は死んでいた。
――いや、ここまでの言葉には間違いがあった。回復はもう止まっているし。『殻のよう』ではなく、殻である。
「『まさか、外装が壊されるとは……。佐藤サナには、一体何が宿ったというのだ』」
海を歩みながら、白い悪魔は呟いた。その際に水面は一切揺れを起こさず、波紋は当然見えない。ただ淡々と水平線の向こうへと歩いていた。雲は天を覆いながらも月だけは隠してはいなかった。その静かなる明かりが彼女だけを照らしている。
『「まあ良い。いつかこの姿で、”魔王”として会おう」』
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