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夜だった。
研究室にはランプの灯りだけが残っている。
壁際の棚には資料や薬品が積み上げられ、窓の外では冬の風が時折硝子を鳴らしていた。
静かだった。
紙をめくる音と、ペン先が走る音だけ。
こういう時間は嫌いじゃない。
むしろ落ち着く。
余計なことを考えなくて済むからだ。
「予紬さん」
不意に名前を呼ばれる。
視線を上げると、ソファに座ったしゆらがこちらを見ていた。
「ん?」
「まだ終わらないですか」
「終わらん」
即答だった。
しゆらは露骨に不満そうな顔をする。
「さっきもそう言ってました」
「さっきも終わってないからな」
「むぅ……」
頬を膨らませる。
最近よく見る顔だった。
気づけば夜になると研究室へ来るようになった。
理由を聞いても、
『なんとなくです』
としか返ってこない。
意味がわからない。
「眠くないのか」
「眠くないです」
欠伸をしながら言われた。
説得力がない。
俺は小さく息を吐き、再び資料へ視線を落とす。
しばらく静寂が続く。
数分後。
かさっ。
小さな音が聞こえた。
顔を上げる。
しゆらが机の向かいまで移動してきていた。
「……何してる」
「見学です」
「帰れ」
「嫌です」
即答だった。
本当に遠慮がない。
しゆらは机へ頬杖をつきながら、じっとこちらを見ている。
研究より視線の方が気になる。
「予紬さん」
「なんだ」
「楽しいですか」
「何が」
「研究」
唐突な質問だった。
俺は少し考える。
楽しい。
そういう感覚とは少し違う。
だが。
「……嫌いじゃない」
そう答えると、しゆらは少しだけ目を丸くした。
「へぇ」
「なんだその反応は」
「いえ」
しゆらはくすっと笑う。
「予紬さん、あんまり楽しそうな顔しないので」
「そういう顔だ」
「損してますね」
意味がわからない。
俺は肩を竦め、再び資料へ視線を戻した。
そのまま数分。
不意に部屋が静かになったことに気づく。
嫌な予感がした。
ゆっくり顔を上げる。
しゆらが机へ突っ伏していた。
「……おい」
反応なし。
「しゆら」
動かない。
寝ていた。
予想通りだった。
俺は小さく息を吐く。
だから眠いなら部屋へ戻れと言ったんだ。
起こそうとして立ち上がる。
その時だった。
しゆらの指先が白衣の袖を掴む。
「……」
無意識だろう。
寝ている。
完全に。
それでも離さない。
軽く引っ張る。
離れない。
もう少し強く引く。
ぎゅっ。
逆に強く握られた。
「おい」
むにゃむにゃ。
寝言らしい。
全く起きる気配がない。
俺はしばらくその手を見つめる。
細い指だった。
力なんてほとんどないはずなのに、不思議と振り払う気になれない。
「……なんなんだ、お前」
当然返事はない。
聞こえているわけもない。
研究室には静かな寝息だけが残る。
窓の外では風が鳴っている。
ランプの灯りが揺れる。
俺は小さく息を吐き、椅子へ座り直した。
その瞬間。
しゆらの指先から少しだけ力が抜ける。
安心したみたいに。
まるで俺がどこかへ行くと思っていたみたいだった。
「……」
意味がわからない。
本当に。
意味がわからない。
だが。
気づけば俺は資料ではなく、しゆらの寝顔を見ていた。
穏やかな顔だった。
警戒も、不安もない。
完全に安心しきった顔。
そんな顔で眠られると、無理に起こす気も失せる。
俺はもう一度小さく息を吐き、資料を開く。
白衣の袖は掴まれたままだった。
結局その夜。
しゆらが目を覚ますまで、俺は一度も席を立てなかった。
結局その夜。
しゆらが目を覚ますまで、俺は一度も席を立てなかった。
窓の外を見る。
時計の針は、とっくに日付を跨いでいた。
「……」
資料へ視線を落とす。
だが数行読んだところで止まる。
白衣の袖を掴んだまま眠るしゆらが視界に入るからだ。
長い白髪が机へ広がっている。
ランプの灯りを受けて淡く光るそれは、雪みたいだった。
半魔の特徴。
人間とは少し違う証。
周囲の連中はその髪を見るたびに距離を取る。
だが。
俺には最初からよく分からなかった。
何がそこまで違うのか。
気づけば。
指先がその髪へ触れていた。
さらり。
絹みたいな感触が指の間を滑る。
「……」
我ながら何をやっているんだろうな。
だがしゆらは起きない。
安心しきった顔で眠っている。
少しだけ髪を整え、額へかかった前髪を避ける。
そこで初めて気づいた。
目の下に薄く隈がある。
最近は研究の手伝いばかりしていた。
昼は資料整理。
夜は実験補助。
本人は平気そうな顔をしていたが、疲れていたらしい。
「……頑張りすぎだ」
小さく呟く。
もちろん返事はない。
規則正しい寝息だけが聞こえる。
俺は小さく息を吐き、ゆっくり立ち上がった。
そのまま起こさないよう身体を支える。
「ん……」
小さく身動ぎする。
だが起きない。
相当眠いらしい。
軽い。
思っていたよりずっと。
研究室の外へ出る。
廊下は静まり返っていた。
足音だけが響く。
しゆらの部屋へ着くと、そっとベッドへ寝かせた。
白い髪が枕へ広がる。
起こさないよう毛布を掛ける。
そこで。
服の裾が引っ張られた。
「……」
しゆらだった。
眠ったまま。
俺の白衣を掴んでいる。
「おい」
離れない。
起きない。
困る。
数秒考える。
そして。
「……朝には忘れてるだろ」
小さく呟き、白衣を脱いでベッド脇へ置いた。
これで解決だ。
たぶん。
俺はそのまま部屋を後にした。
翌朝。
研究室の扉が勢いよく開く。
「予紬さん!!」
聞き慣れた声。
朝から元気だなと思いながら顔を上げる。
しゆらだった。
だが様子がおかしい。
顔が真っ赤だった。
耳まで赤い。
「……どうした」
「ど、どうしたじゃないです!」
「?」
意味が分からない。
しゆらはわたわたと慌てながら言う。
「わ、私……その……!」
言葉が続かない。
俺は首を傾げる。
そしてふと思い出した。
昨夜。
「……ああ」
しゆらが固まる。
「部屋まで運んだ」
数秒沈黙。
真っ赤になる。
さっきより赤くなる。
「なっ……!」
「寝てたからな」
「で、でも……!」
「起こしても起きなかった」
事実だった。
しゆらは完全に停止する。
しばらくして。
両手で顔を覆った。
「……」
「しゆら?」
「……忘れてください」
小さな声だった。
「無理だろ」
「忘れてください……」
「なんでだ」
「なんでもです……」
耳まで真っ赤だった。
俺には理由がよく分からない。
ただ。
朝から妙に落ち着かないしゆらを見ていると、少しだけ面白かった。
だから。
「ちなみに」
「な、なんですか……」
「白衣返せ」
しゆらは完全に固まった。
昨夜。
白衣を掴んだまま眠っていたことを思い出したらしい。
数秒後。
「ぁ……」
湯気が出そうなくらい顔が赤くなった。
「……」
「……」
研究室に沈黙が落ちる。
俺は書類へ視線を戻した。
しゆらはまだ固まっている。
しばらくして。
「……洗いました」
小さな声が聞こえた。
「そうか」
「ちゃんとです」
「別に疑ってない」
「……干しました」
「そうか」
会話が続かない。
というより。
しゆらが一人でどんどん恥ずかしくなっている。
意味が分からない。
昨夜はただ部屋まで運んだだけだ。
「予紬さん」
「ん?」
「普通……」
しゆらは視線を逸らした。
「普通、起こしませんか」
「起きなかった」
「何回くらいですか」
「三回」
「……」
「四回だったか」
しゆらが両手で顔を覆う。
何故だ。
本当に分からない。
「そんなに嫌だったのか」
そう聞くと。
しゆらが勢いよく顔を上げた。
「ち、違います!」
予想外の大声だった。
研究室に響く。
今度は自分で驚いたらしく、慌てて口を押さえた。
「……違うのか」
「その……」
しゆらは視線を泳がせる。
耳は真っ赤なままだ。
「嫌じゃないですけど……」
「じゃあ問題ないだろ」
「問題あります!」
「あるのか」
「あります!」
即答だった。
本当に分からない。
しゆらはしばらく何かを言おうとしていたが、結局諦めたらしい。
机へ突っ伏した。
「……予紬さんはずるいです」
「なんでだ」
「なんでもです」
むすっとした声だった。
その時。
机へ置かれていた白衣が視界に入る。
綺麗に畳まれている。
だが。
ふと気づく。
袖口が少しだけ皺になっていた。
掴まれていた場所だ。
昨夜のことを思い出す。
寝ぼけながら離そうとしなかった指。
安心したみたいな寝顔。
無防備な呼吸。
「……」
俺は小さく息を吐く。
すると。
突っ伏していたしゆらがこちらを見た。
「予紬さん?」
「なんだ」
「今、笑いました?」
「笑ってない」
「絶対笑いました」
「気のせいだ」
「嘘です」
しゆらはじーっとこちらを見る。
その視線に耐えきれず、俺は書類へ目を落とした。
すると。
ふいに。
机の下から服の裾を引かれる。
見る。
しゆらだった。
椅子ごと少し近づいている。
「……何してる」
「確認です」
「何の」
「逃げないか」
意味が分からない。
だが。
しゆらは昨夜と同じように、白衣の裾を摘んだままだった。
少しだけ不安そうな顔で。
俺はその手を見る。
それから。
無意識に、その頭へ手を置いた。
「逃げんよ」
ぽん、と軽く撫でる。
一瞬だった。
本当に一瞬。
なのに。
しゆらは完全に固まった。
「……え」
俺も固まる。
今のは少しまずかった気がする。
だがもう遅い。
しゆらは耳まで真っ赤になりながら、ゆっくり俯いた。
「……」
「……」
「……予紬さん」
「なんだ」
「今日、変です」
「お前がな」
その瞬間。
しゆらは顔を隠すように机へ突っ伏した。
しばらく起き上がらなかった。
コメント
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おお、めっちゃ良い雰囲気の話だな……! 第1話から一気に引き込まれたわ。研究に没頭する予紬さんと、ひたすら彼にまとわりついて眠っちゃうしゆらの温度差が絶妙で、見ててすごく楽しかった。「意味が分からない」って言いながらも、白衣の袖掴まれて席立てなくなるところとか、無意識に頭撫でちゃうとことか、もう予紬さんの方が全然分かってない感じがたまらんのよ(笑)。無防備なしゆらの寝顔に触れたくなる気持ち、すごく分かる。次が読みたいわ!🔥
かきまぜたまご