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子供の想像とて決して届きはしない果ての土地から夕暮れが流れ出てきて、空を赤く染め上げる。星の魁が一際輝き、最も喜ばしい祝福を一つか二つ地上にもたらした。わずかな雲まで全てが夜にその座を譲り、風に乗って西の土地へと流れてゆく。新たな夜の支配に数多の丘と無数の川が称賛を送る。
ユーアの小さな冷たい手を握り、訳の分からない散策をする。ユカリはもうどこに行くのか聞かないことにした。どこにも行かないのも魅力的に思えた。
ユカリはユーアを何度か盗み見る。何も変わらないはずなのに、何か違和感を覚えた。
「その曲って何ていう名前の曲なの?」
ユーアはいつもの曲を口笛で奏でていた。ユカリとユーアが出会ったときに吹いていた寂しげな曲だ。ユカリの問いにユカリを通してユーアは答える。
「知らない。あんたは質問ばっかり」ユカリの言葉にユカリが答えることになる。「知りたいことが沢山あるんだよ。いや、違うかな。知らないことに出会うのが楽しいというか。ユーアはそう思わない?」
ユカリは一人で会話を続ける。
「思わない。知らないでいいこともある。ある? あるかも。でも私は知りたいな。知らなくていいことも知りたい。曲名だって知りたくない?」
沈黙の間にユーアの口笛が小さく響く。
「別に知らなくたっていい。そっか。でも何の曲なんだろ。泥濘族の童謡なのかな。違う。もっと昔から知ってる。もっと昔?」
ユカリの独り言が止まった。
ユカリはユーアの言った言葉の意味を何となく察した。つまり、ユーアが泥濘族の村にやってくる前からこの曲を知っている、という意味だろう。ユーアの容姿は明らかに泥濘族とは違っている。興味は惹かれたが、そこまで詮索するまいと決めた。
二人の散策はすこぶる奇妙奇天烈なものになった。ネドマリアとの散策とは違い、呪いを選ばずに突き進んでいるために頭がついていけない事態が次々に引き起こされる。
腐りかけの木造螺旋階段を降りると、この街で最も高い塔の最上階にたどり着いた。そこから見える景色は得も言われぬ美しいものだった。白い露台で歌をうたい、踊りをおどる男女。まるでここから見る景色のために設計されたかのように左右対称の街。夕焼け空に黒い鳥の小さな群れが星を啄もうと飛び立った。しかし長くそこにいることはできなかった。
何を隔てているのかよく分からない妖美な魔の者が彫りつけられた門をくぐると、どこかの密室にいて、しかし気が付くと橋の下にいる。
ついには見上げるたびに星の位置が変わり、人ならざるものを視界の端に見た。棒きれを振り回す鼠のように小さい者。膝を抱えて宙に浮く妖しい者。空を仰ぎ、光る眼を瞬かせる者。神か怪物か妖精か。ユカリには判断がつかない。ただ無暗に近づくべきでないことだけは分かる。
ユーアが手を強く握った。何の拍子か偶然か巨人像の聳え立つ屋根の上の広場に戻ってきていた。一人の竪琴弾きが街の盛衰を寿ぐ調べを奏で、微笑みを浮かべて帰路を急ぐ者が何人か。いるにはいるが、誰もがどこか遠くの存在のようにユカリには感じられた。
広場にある小さな石像のいくつかがぼうっと魔法の明かりを灯していた。街のあちこちの石像や青銅像も光を灯しているのが見えた。昼間の様相とはまるで違う。粛とした夜の訪れとともに家々の不思議な生活が息づく窓辺に温かな灯がともる。塔の多いこの街で無数の窓辺の明かりが輝く様はまるで地上に氾濫した銀河のようだった。
広場の端へとユーアを引っ張り、屋根の縁に座って共にその景色を眺めた。
「永遠にこの街にいても見飽きる日が来ることはなさそう。そうかな。そうだよ。でもこの街の外にはもっと色んな景色があるはず。そうかな。そうかも」
手を繋いだまま、この街のどこかにある魔導書を行使すればユーアも共に迷いから解き放たれるはずだ。しかし問題は、ユーア自身がこの街に迷おうとしている節があることだ。今、迷いの呪いの全てから解放しても、再び本人が呪いに飛び込んでしまえば、もう見つけられないかもしれない。ユーアは『深み』に沈んで二度と浮き上がれないかもしれない。
そう思うとユカリは、その小さな手がとても存在の覚束ない幽霊の手のように思えた。今は一緒に迷い続けよう、そう考えた。
望みがあるとすれば、誰も見つけられていないが、確実にこの街のどこかにあるという迷わずの魔導書そのものだ。
魔導書によっては所有しているかどうかで効果の違うものがある。例えば魔法少女に変身する魔導書と動物の王様に変身する魔導書はそもそも所有していなければその魔法は使えない。守護者の呪文は周囲の人間の叫びによって力を得たり、所有者が叫びの呪文を行使しなければ主を変えてしまうが、初めに守護者を作り出すことが出来るのはやはり所有者だけだ。
「やっぱり魔導書を見つけるしかない。
魔導書? 迷わずの魔導書だっけ?
そう。
でもありとあらゆる魔法使いがそれを探求してきたのにあんたに見つけられるのかな。
やるしかないね。でも目的の場所にたどり着ける魔法なんだから魔導書の在り処にたどり着けばいいだけなのに。当然誰かが試しているだろうし、でも見つかってない。矛盾してる。
目的地にできない場所にあるか、物のある場所を目的地にすることができないか。
『誰か』を目的地にできないらしいから、そういうことかも。
目的地、と決めることができない場所にあるとか?
そもそもまだ街が無かった頃からここに魔導書はあって、でも見つからなかったらしいんだよね。
一筋縄ではいかないね」
いつの間にかユーアが一緒に考えてくれていることに気づいてユカリは心が温かくなった。
「場所。場所か。
場所ってなんだろ。謎々みたいだね。
分かった。空じゃないか? 何かしらの魔法で魔導書自体が空に浮かんでいる、とか。
わあ。正解っぽい。でも高い塔が沢山あるからなあ。既に探されているかも。
じゃあ地下はどう?
埋まってるってこと?
うん。たどり着かない理屈には適っているはず。
でも地下街があるし、遺跡が見つかってるって聞いたんだよね。地下を探してないってこともなさそう。でも、そうか。たどり着いても、そこにあることに気づかないっていう可能性があるんだね。
別の魔法で隠されているとか。
なるほど。
別の何かに変身しているとか。
うん。
あとは……」
ユカリは押し黙った。何も言葉が出てこない。いつの間にかユーアも口笛を吹いていない。
とにかく仮説を検証するしかない。迷わずの魔導書の力を使う必要もあるだろう。手を握ったままなら大丈夫なはずだが、確信は持てない。不安が渦巻く。ユカリはユーアの手を少しだけ強く握った。
「最近は減ったらしいけど」とユカリの口を通してユーアが喋る。「昔はよくこの街で子供が行方不明になることもあったみたいだ。だろうね。迷わせない魔導書があるといっても、ずっと幸福な気持ちでいるのは大変だろうし」
ユカリがユーアの横顔を覗くと、その幼い瞳はどこか遠くを眺めているようだった。
「ただ全部が全部迷子ってわけでもないらしい。どういうこと? 人攫いがあったんだとさ」
ユカリは唾を飲み込む。
「人攫い? 人攫いなんて今も昔もないわけじゃないけど。こういう街だから、もし子供が消えても呪いのせいだろうと誰もが思う。そこに付け込んだんだ。ここの魔法使いたちは何とも思わないのかな、そんな街を作ってしまったことに対して」
ユカリは強くかぶりを振って、強くユーアの手を握った。
「何とも思わないなんてことはないよ。この街の運営委員会は迷いの呪いの一部を解呪しようとしてるんだから。ネドマリアさんがその仕事を任されているの。たぶん解呪作業前の調査の段階だけど。へえ。いい人もいるんだな。さっきの人だよ。ふうん。まあ、いいけど」
広場には他に人がいなくなったようで、ユカリとユーアは二人きりだった。うろちょろするグリュエーのせいで少し肌寒くなる。
「それじゃあ、魔導書の在り処の心当たりは他に思いつかないみたいだし、あとは探すだけだな。そう、だね」
そうユカリが言うと不意にユーアはその手を離し、立ち上がり、後ろから両手でユカリの両眼を覆った。
「だーれだ?」と言ったのはユカリで「ユーアしかいないでしょ?」と言ったのもユカリだ。「そうだね。じゃあ、頑張ってユカリ」
瞬きすると景色を覆っていた手は消えて、振り返ってもユーアの姿はどこにもない。