コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
四階のバックヤード。観音扉の向こうからは幼い子供達がはしゃぐ声が聞こえてくる。店内放送で流れているイベントのお知らせに、香苗と睦美は目を合わせて大きく頷き合った。
「じゃあ、先に行ってるね!」
「了解!」
それ以外に掛け合う言葉なんて必要ない。いつも通りにやればいいだけなのだから。ステージがどこであろうと、目の前にいる子供達の為に精一杯演奏し、歌うだけだ。ピアノがあって、ともに香苗がいる。どこに行こうが、それだけは変わらない。
店長の一声で決まった定期開催案は、繁忙期を避けた隔月イベントということに落ち着いたみたいで、四階のテナントショップの中にはそれに合わせた特別セールを実施するところもあったりと、全く別の盛り上がりも見せている。
店長の読み通りにあの日の売上が上がっていた売り場では、今日は通路側に在庫処分のワゴンが出ている。他の売り場でも通路にはみ出すようにラックが出ていたりして、フロア全体がとても賑やかな雰囲気だ。そのおかげか、ステージ上のピアノも電子ピアノからアップライトピアノへとグレードアップしていた。
睦美がステージ脇のパーテーションから顔を出すと、観客席からは拍手と歓声が沸き上がる。手を振りながらピアノの前に着席した後、ステージを取り囲んでいる観客を見渡してみる。期待に満ちた沢山の幼い瞳が、真っ直ぐに自分のことを見つめていた。例に漏れず前列に見覚えのあるツインテールキッズ達がいるのは何よりも心強い。もちろん、当然のようにその中には沙耶の顔もある。子供達同士もイベントごとに顔を合わせるからか、なんとなく仲良くなっているみたいで微笑ましい。
睦美の演奏に合わせて登場したリンリンお姉さんに、子供達の瞳がさらにキラキラと輝きを増す。音楽に合わせて思い思いに身体を揺らし、知っている曲だったら大きな口で歌っていた。睦美にとってその反応こそが全てで。その笑顔が見れるからこそ、苦手だったピアノだって平気になれた。自分が演奏することで誰かが喜んでくれる、それ以上の理由なんて思いつかない。
立ち見している観客の後ろからはスーツ姿の男性達が今日のイベントの様子を伺っている。その中には満足気に顔を綻ばせている店長と、彼の横で何やら手元のファイルを見ながら一生懸命に説明している副店長の姿があり、さらにその後ろには遠巻きにスマホのカメラをこちらへ向けている佐山チーフがいた。観客席には千佳の姿は無かったから、出産で来れなかった妻子にステージの撮影を頼まれたのかもしれない。
睦美の奏でるピアノの音に合わせて、香苗がツインテールを揺らしながら歌声を響かせる。彼女の歌声に合わせて音色を放つ黒色の大きな楽器。それは睦美の指先の動き通り、自由自在に音を出し続ける。子供の頃はあんなに嫌だったピアノの練習が、今こうして活きて子供達を喜ばせている。叶うことなら過去の自分に伝えてやりたいとさえ思う。あなたの演奏で誰かを楽しませることができるようになるんだよ、と。
あの時、沙耶を連れて市民センターを訪れていなかったら、ずっと知らないままだった香苗の秘密。ただの同僚だった彼女は、今は一番の友人であり、相棒になっている。彼女が誘ってくれたことで、今自分はここにいて、再びピアノを弾くようになった。母が言っていたように、これは奇跡なのかもしれない。沢山の奇跡が重なりあったことで、睦美はこうしてピアノのお姉さんになったのだ。
「じゃあ、次のお歌はみんなも一緒に歌ってくれたら嬉しいなー」
香苗の言葉を合図に、睦美は子供達が大好きな行進曲を奏で始める。その場で飛び跳ねながら歌い出す子供達と、睦美も一緒に声を出して歌う。フロア中に響き渡る歌声に、遠くの方から首を伸ばして眺めている客。膝の上に座らせた幼児のお腹をポンポンと優しく叩いてリズムを教える若い母親がいれば、手を繋いでいる子供の手を曲に合わせて揺らしている人もいる。それぞれが思い思いに、このステージを楽しんでくれていた。
この日の最後の曲を終えて、観に来てくれた子供達とのお別れを終えた後、睦美達は薄暗いバックヤードへと続く扉を潜り抜ける。ライトアップされた明るいステージとは真逆のここだって、そこまで嫌いじゃない。
「無事に終わったねー」
「二回目だからどうなるかと思ってたけど、意外と集まっててホッとしたぁ」
前回は初の試みということで、たまたま人が集まってくれただけだったんじゃないかと考えてしまっていた。レギュラー開催が決まった途端に誰も観に来てくれなかったらと、あえて言葉にはしなかったがお互いに不安に思っていたんだろう。どちらからということもなく、睦美達はお互いの身体をギュッと抱き締め合った。初めて一緒にステージに立った時以来の抱擁だ。何も言わず、それぞれの肩に顔を埋め、ステージの成功を静かに喜び合う。
「あの時にリンリンが誘ってくれたおかげだね」
「むっちゃんが一緒じゃなかったら、ここで歌おうなんて思わなかったよ」
もう一度ギュッと力を込めて抱き締めた後、二人は腕時計で時刻を確認してから慌て始める。
「わ、急いで着替えて売り場に戻らなきゃ!」
「ほんとだ、急ごう! 早く休憩、回さないと!」
二人一緒だからこそ実現した、今日のステージ。売り場の方からはまだ賑やかにはしゃぎ回っている子供達の声が聞こえていた。