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それから墓石に水を掛け。花立に花を活けた。お線香、蝋燭を灯して。仏式でもいいと澪様に言われて静子様の魂に祈りを捧げた。
私が祈り終わると澪様が、懐からあの|十字架《ロザリオ》と玄関で読んでいた小さな本を取り出した。表紙には聖書と書かれているのが見えた。
澪様はその本を手に取ると、胸の前に十字を切って祈り。最後には「アーメン」と締めくくった。
そうしていると本当に外国人の王子様みたいだ。
そして今なら、あのことを尋ねても答えてくれると思った。
「澪様が前に言っていた『日本一の商人になる』って約束。もしかして静子様との約束ですか?」
「なんや、独り言を聞かれていたか」
澪様はゆっくりと瞳を開けて穏やかな顔のまま、少し照れ臭さそうに笑ってから。大したことではないけど、と言葉を続けた。
「僕はどう見ても、見た目は外国人の姿をしているからそれを面白がる人間もいる。勝手に笑ってくるやつもいる」
「そんなの綺麗な澪様に嫉妬しているんですよ」
「今ならそう思えるけどな。小さいときはそうでもなく。売られたケンカは全部買って、殴り飛ばしてやったけどな」
ははっと軽く笑う澪様に、一瞬だけケンカをうった人達が気の毒に感じてしまったが、澪様の明るさに私もつい笑ってしまった。
穏やかな風が吹き、澪様の金髪が風に揺れる。
「静子さんが『どんな姿をしていても澪様は澪様。澪様の将来は、立派な日本一の商人!』って──口癖のようにいつも、やかましく言って来て。僕が十六のときかな。静子さんが病気で倒れて、病床で自分の心配よりも僕の心配ばかりしていた」
くすっと懐かしそうに澪様は笑い、空を仰いだ。
金髪の髪を風になびかせながら、空に語りかけるように喋る。
「そんな心配されたら、日本一の商人になるって言わなアカンやろ」
「──凄いです。澪様は立派です」
「そんなことない。つい最近、お茶会を無茶苦茶にしてやろうと思ってしな」
苦笑する澪様にそうじゃないと、否定する。
「あれはまた違う話しですっ。十六歳でちゃんと将来を決めるのが凄いです。私なんて、ずっと山の中でお茶を飲んで。静かに暮らして行けたらいいやって思っていたから」
「それも悪いことちゃうやろ。一人で生きていくのは偉いと思うけどな」
「でも、私は……」
堺に来てしまい、いろんな人たちを見て。私には出来ないことが多すぎると思ってしまった。
それらを言葉に出来なくて、胸に抱いていた帽子をきゅっと抱きしめる。
「将来迷ってるってことか。千里やったら何でもなれると思うけどな」
「そんな。私はお茶を点てることぐらいしか出来なくて」
「いや、それが凄いんやけどな。それこそお茶の先生でもいいし……あぁ。千里は英語が喋れるから学校の先生とか向いているんとちゃう?」
「……先生? 私が?」
「お茶会で説明するのも、話を聞くの上手やしな」
「本当ですか? 私が先生にっ……!」
お茶以外のことを褒められて嬉しい。
どうしようと顔が熱くなる。先生なんて、そんな立派な人に私がなれるのだろうか。
どうしたら先生になれるのか。でも私なんかがと、一気に胸の内で不安も期待も無い混ぜになるが、頬の熱は高まるばかり。
「もし本気で先生になりたいと思うなら兄上にも相談してみるから、良く考えとき」
その言葉に激しく頷くと「さ、これでええやろ。そろそろ行こう。また来るから静子さん」と言った。
最後に墓石に向かって柔らかく微笑む澪様を見て、胸がまたドクンと高鳴った。
今まで澪様の美貌にドキドキしていたことはあるけども……今日の胸の高鳴りはなんだかキュンと胸が締め付けられるような、切ない──ドキドキ。
胸のドキドキにも種類があると知った。
唇をきゅっと噛み締めて胸の高鳴りを鎮める。
「千里。よし行こか。最後にここの住職に挨拶したいから、本堂に戻るで」
「あ、はいっ」
澪様は|十字架《ロザリオ》と聖書を懐に戻し、手桶や箒を持って歩き出した。
私は最後にもう一度だけ、静子様にペコリと小さく頭を下げてから澪様の後を追った。
その背を見つめながら、先生という言葉が頭から離れず。
胸の騒めきも未だ収まらず。なんだかワクワクすると思っているとピリッと踵が痛んだ。
今まで感じたことのない妙な痛みだったが、先を行く澪様に着いて行かなくとはと、足をサクサクと動かす。
借りていた物を返して、本堂に行くとちょうど住職様と出会い。お茶をどうぞど丁寧に挨拶をしてくれて、作務室への方に通された。
そこは簡素な作りの和室だったが良く手入れがされていて、出されたお茶は温かいほうじ茶でほっとした。
その間、澪様と住職様は大人の世間話をしていた。
それは藤井屋のことだったり、今年の法要はどうするとか。最近はこの辺りも開発が進んで来たとか。
私は邪魔しちゃいけないと静かにお茶を飲み、そろりと先ほど気になった踵を見て──ぴくっと体を揺らしてしまった。
踵の状態を見て、澪様にこのことを伝えようかと思ったけど、まだ住職様と会話をされている。
話の腰を折るのも不粋かと思い。
先生になるのにはどうしたら良いんだろうと、踵から意識をそらして時間が過ぎるのを待った。
そして、住職様と澪様の会話が終わり。
では、ごゆっくりと住職様が笑顔で作務室を後にされた。
澪様がごくっとほうじ茶を飲み、私の方へと向いた。
「すまん。ちょっと待たせたな。久しぶりやったから少し話し込んでしまった。そろそろ行こか」
「あ、はい」
「せっかくやから、堺のカフェじゃなくて心斎橋まで行こ」
澪様は立ち上がり。作務室の入り口へと向かわれて、草履を履いて「千里はなにが食べたい」と聞いてきた。
けれども私は答えられず。
──のたりと。ゆっくりと立ち上がることに集中したものの、やっぱり踵に痛みが走った。
入り口で靴を履くことに、躊躇ってしまうと澪様が怪訝な顔をした。
「千里、どうした。手洗いか?」
「違いますっ。えっと、そのちょっと踵が……」
澪様が私の足元をみるから、そろりと腰を捻って足を上げながら踵を見せた。
実は私の踵は左右、どちらも血がじわりと滲んでいた。
痛みの正体はこれだった。何故こんなことになったのか分からない。
すると澪様が眉根を寄せた。
「あぁ、血が滲んでる。これは、やっぱり靴擦れやな」
「靴擦れ?」
「靴に慣れてなかったら、踵の皮膚が捲れてしまうこと。血が出てるなら、我慢せずに言えばよかったのに。絆創膏貰ってくるから此処に座って待ってろ」
すぐに戻ると、澪様は作務室を出て行かれた。私は入り口近くにあった椅子に腰掛けた。
「靴擦れかぁ。知らなかった。いつも通り着物にしておけば良かったかな」
澪様に迷惑かけたかと思うと心が澱んだ。
慣れないことはするものではない。ふうっと肩を落としているとすぐに澪様が戻って来た。手には絆創膏と消毒液が握られていた。
「澪様、すみません」
「ええから、立ち上がろうとするな」
そう言って澪様は私の前にしゃがみ込み。片膝をついて私の足首をきゅっと掴んだ。
「!」
「動くな。消毒するから。ちょっと痛いかもしれんけど、こんなのすぐ治る」
──い、いえっ。
痛みはあるのですが。
そ、それよりも足首を掴まれてしまったことがなんだか、こそばゆくて。
それに澪様がしゃがんで、頭が私より低い位置にあるのもなんか不思議な感じがした。
そんなこを言えないでいると私の踵につっと、消毒液が垂らされた。
「ぅんっ」
踵に冷たい刺激とチリッとした痛みが走る。
「染みるけど我慢。我慢」
澪様はそう言って、テキパキと傷を手当てしてくれた。絆創膏をしっかりと貼って貰ったところでちょっとだけ、痛みが引いた気がした。
「よし、ひとまずはこれでいいやろ。家に帰ったらまた絆創膏貼り替えような」
澪様は私の足首を離して、ゆっくりと立ち上がり。
私の足元に靴を揃えた。
「はい。お手数をお掛けしました。ありがとうございます」
「次、靴履くときは靴下を履いたらいい。初めて靴を履いたら皆、今みたいな怪我になるらしいから気にすんな」
はいともう一度頷き。
靴を履こうとすると踵が靴に擦れて、思わず痛みに足を引いてしまうと、その場によろけてしまった。
「っと、危ない」
とさっと澪様に抱き留められてしまい、腕にしがみつく。
薄墨の柔らかな着物の生地。その下にしっかりとした腕があると思うとまた胸がキュンとする。
なんで今日の私はこんなにも澪様に心が揺り動かされるのだろうか。意味がわからない。
「……歩くのはしんどそうやな」
ゆっくりと腕が離されて、私は靴の踵を踏んでその場に立った。
「ごめんなさい。ゆっくりと歩くので澪様、先に行ってて下さい」
「あほ。そんなんしてたら日が暮れてしまうわ。仕方ないな」
澪様はそう言うと、またしゃがみ込み込んで。下から私の顔を見上げた。翠緑の瞳は今日もとても綺麗で、山の緑より鮮やかだ。
「千里。僕の首に手を回せ」
「………え?」
「え、じゃない。坂の下まで抱えてやるから」
「そ、そんなことをして頂く訳にはいきませんっ! それならば這ってでも歩きます」
あわあわと首を振ると澪様がにっこり笑った。
「そうか。そうか。千里は僕が嫌いだと。触るのも勘弁。はぁ。一つ屋根の下、一緒に住んでると言うのに。なのに千里は僕が蛇蝎の如く嫌いで、触れるのも躊躇すると言うことか」
「そんな訳ありませんっ! 違うんですっ。今日は私にも良く分からないのですが、澪様に触れるとなんか、こう、胸がドキドキしてしまって辛いのです」
正直に言うと澪様から笑顔が消えた。
それはとても真面目な表情で、私と視線が合うと澪様は微笑しながら──ゆったりと長いまつ毛を伏せた。
「それは、きっと今だけ。たまたま僕が側にいただけやから……ずっと続くことはない。千里の帝はちゃんと現れる」
たまたま?
みかど?
なんのことだろうと思うと、ふっと澪様が笑った。
「とにかく気にせんほうがいい。それが何年も続くなら……」
「続くなら?」
「病気やな」
「!」
澪様はとても真面目な顔付きでハッキリ言った。
「そのときは病院ぐらい紹介してやるから。今はほら、首に手を回せ」
正直に告白した気持ちは煙に巻かれてしまった気がしたが、再度促されて嫌とは言えず。
思いきって、きゅっと両腕で澪様の首に抱きつくと私の腰と膝裏に手が回ってきて。あっと言う間に横抱きに抱えられてしまった。
「わ、わぁ。目線が高いっ。地面が遠いです」
「はいはい。落ちんようにな。空いてる手で靴持って」
片手で私の靴と帽子をさっと渡され、受け取ると澪様は歩き出した。
じゃりっと境内の地面を歩く音。
遠くで鳥が鳴く声。
上を見上げれば遥かな青い空。
私の目の前には澪様。
横抱きにされているので、澪様の横顔を改めて見つめる、
鼻梁や顎の形が綺麗。お肌だってきめ細かい。喉仏がくっきりしている首筋は艶やかだ。
──緊張する。
「……重たくはないですか」
「軽すぎるぐらいやな」
「澪様はいい香りがしますね」
「そりゃ良かった」
抱き抱えられて、密着して何だか凄く恥ずかしい。
それを紛らわしたくて会話して欲しいのに、そっけない態度で困る。
こんなところ人に見られてしまうと恥ずかしいと、周りをキョロキョロする。
見渡した境内には人が居なくて──いや、端に黒いスーツの人達がいた。法要だろうか。ふと気になったとき。
「千里、あまりキョロキョロするな。歩きにくい」
「あ、すみませんっ」
ぐっと澪様にしがみつく。
「って、今度は抱き付き過ぎっ。首、締まるわっ」
「そんなことを言われても、上手な抱きつき方なんてわかりませんっ」
「それもそうか」
ふふっと爽やかに笑う澪様。
その笑顔に胸がキュンとした。
なのにどこか苦しい。
触れ合っている部分が心地よい。
なのにちょっと恥ずかしい。
なんとも不思議な気分だった。
頭の隅でこの時間がずっと続けばいいのにと、思っていると──。
「千里。今日はカフェ行くのやめとこ」
澪様の残酷な言葉に驚いた。
「えぇ!? な、何ですかっ」
「足痛いのに、そんな中で食べても美味しくないやろ」
「そ、それはそうですけど」
「帰りに和菓子の店に寄ったるから、今日はそれで我慢しとき。今度また行こう」
優しく諭されるように言われると、反論なんか出来なかった。
「わかりました。今度、絶対に行きましょうね」
「ん」
私を抱きしめている澪様の手が私の腕を「分かった」と言うようにポンポンと叩いた。
まるで子供と約束を交わしているみたいだ。いや、澪様から見たら私は子供に違いないから、こうして抱きかかえてくれているのだ。
私が大人の女の人だったら、どんなふうになっていたんだろうと大人の澪様の顔をじっと見ていると──。
チャチャッと、爪が地面を蹴る音がした。
これは犬が走る音と似ていると思っていると、私達の前に黒い犬がさっと横から飛び出た。