テラーノベル
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澪様が素早く、坂を下ろうとしていた足を止めた。
「これは野良犬、か?」
澪様が疑問の声を漏らして、すっと一歩後ろに体を引いた。
私もびくりとして澪様の肩に顔を寄せる。
目の前の犬は確かに野良犬ぽっくなかった。
すらりとした引き締まった短い黒毛の体。耳はぺたんこ。顔は細長い。手足は長く、ほっそりとした狼みたい。
見たことのない犬の種類だった。
どこか気品さえ感じる佇まいだと思っていると、澪様が小さく、西洋犬かと呟いたとき。
犬がワンっと鳴いた。
私は驚き。手に持っていた靴を下に落としてしまうと犬は俊敏な動きで、下に落ちた靴をバクっと咥えて坂道の横。雑木林へと素早く逃げて行った。
あまりにも鮮やかな動きで、私達は呆気に取られてしまう。
「あ、靴を取られ……ちゃいました」
「ほんまやな……って、なんやねん。あの犬。見たことない犬種やった」
今の一瞬の出来ごとに驚きながらも、二人して雑木林の方へと視線を向けるが、既に犬の影は見当たらなかった。
「靴、せっかくお客様からもらったのに……どうしよう」
「流石にこの状態で、あんな素早い犬を追いかける気はせぇへんな」
「そうですよね。私の不注意でした。今度、お客様にお会いしたらお詫び致します」
私が犬を追いたいぐらいだったが足を怪我をしている上に、靴まで奪われては犬は探せない。
だからと言って澪様に探して欲しいと言うのは違う。
そう思ってしゅんとしてしまうと、澪様の足が雑木林へと向いた。
「千里、少しだけ探してみるか?」
「いいのですか」
「お客様に貰ったものやしなぁ……でも、深くは探さない。振り返ってもこの道が見える範囲内でまでや。犬が咥えて近くに落とした可能性もあるから。少し見るだけで良かったら」
それで充分だと頷くと澪様はよしと、私を抱き抱えて道の横。
雑木林へと足を踏み入れた。
がさりと、澪様が枯れ葉を踏み抜く音がした。一歩雑木林に入ると一気に緑の香りが濃くなる。
空気も少しひんやりとしている。
空から降り注ぐ光は、背の高い木々に邪魔されて、地面を充分に照らせていなかった。
きっと夜では闇深いことだろう。
そんな地面を私と澪様はゆっくりと見回すが、落ちているのは枯れ木に葉っぱばかり。
私の靴はどこにも無かった。
「靴、ないですね。犬が遠くに持って行ったのでしょうか」
「野良犬ならそうかも知れんが、あの犬はちょっと違うような……」
澪様は私の靴を探すと言うよりかは、あの犬に興味を持って正体を突き止めたいと言った感じだった。迷うように澪様がくるっと後ろを振り向くと、まだ坂道は見えている。
澪様は道と雑木林の奥へと見つめたあと、私を見てきた。
「千里、ここらでやめとこ。靴は新しいのを買ってやるから。お客様に何か言われたら僕がちゃんと説明する」
私も深く中に入って探したいとは思わなかった。靴は残念だが仕方ない。
──わかりました。探してくれてありがとうございます。もう戻りましょう。
そう言おうとしたとき。
雑木林の奥からワンッとまた鳴き声がして、私達が思わず声がした方を向くと。
「戻るのは困る」
いきなり私達二人の背後で人の声がした。
知らない男性の低い声。
澪様も驚き咄嗟に振り向こうとするが、私を抱き抱えている為に。澪様の動きは一拍遅く。
その間にカチャリと聞き慣れない音がした。
その瞬間、私も澪様も体をびくりと震わせた。
澪様より素早く首を後ろに向けると。
私達のすぐ背後に人がいた。
黒いスーツに、黒いレンズの眼鏡を掛けた表情がわからない男の人だった。
この人はいつの間に近づいて来たんだと、警戒する。
澪様に抱きついている腕に力が籠るが、その澪様は体を動かす気配はなかった。雑木林の奥を見つめるのみ。
突然のことで硬直しているのかと思った。
「み、澪様どうしたのですかっ」
私は忙しなく澪様と知らない男の人を交互で見る。
澪様の表情は苦渋に満ちている。本当に何があったのかと、心配してしまうと。
その理由が分かった。
それは後ろの男の人が、澪様の腰の上へと腕を伸ばしていて。
細い。黒い筒を押し付けていた。
なんだろう。この黒くて細長い筒は……。
表面は金属ぽっい光沢がある。
これは筒じゃなくて──。あるものを想像して肌がゾワリとした瞬間。澪様がゆっくりと低い声を出した。
「おい。後ろの誰か。物騒なものを突き付けるな。暴発したらどうすんねん」
「……」
男の人は何も言わない。
しかし不気味に口角を上げた。
この状況になんと言って良いかわからず、二人を見比べて口をパクパクさせてしまう。
「僕の腰に突き付けてるやつ。それ、銃やろ。制式拳銃か十四年式拳銃やな。さっきの音は引鉄を下ろす音。前に聞いたことがある」
──やはり銃!
びっくりして怖くて固まってしまう。
「ほぅ。良く分かったな」
「藤井屋のお得意様には軍人も居る。軍装品の輸入も取り扱ってるしな。商人なら自分が取り扱う商品を把握するのは普通や」
「ふんっ。だから、どうしたと言うのだ」
「接射は暴発の恐れがある。下手に撃つなよ。それに、これだけ接近されていたら逆に反撃出来る距離とは思うけどなぁ?」
澪様が不適切なに笑えば、男の人の上がった口角が下がった。
「何が言いたいっ」
「僕が暴れたら──それ。奪えると思う」
ひゅっと男が息を呑んで、眉を釣り上げる前に澪様が声を張り上げた。
「奪われたくなかったら! まずはこの子を離してやりたい。この子の安全を確保してくれたら、暴れるのはやめとくわ」
その言葉に生唾を飲み込んだのは男と私。
同時だった。
男はちらっと私を見てから「分かった」と言い「静かにその《《お方を》》離せ」と言った。
「……って言うことやから。千里、今から下に降ろす。降ろしたら僕とすぐに距離を取れ。後ろには怖いおっさんがいるから僕の前に。いいな。分かったら返事」
澪様の翠緑の瞳は力強く私を見つめていた。本当は離れたく無かったが、澪様はそれを許さないと瞳で語っていた。
「は、はい。分かりました」
本当は嫌だったが、返事をしてしまう。
「ええ子やな。帰りに和菓子、店中のもの全部買い占めるわ」
ゆっくりと私の体が降ろされ、足が地面へとついた。足の裏に柔らかで湿った土の感触は踵の痛みより生々しい感覚だった。
その足の裏の刺激に脅されるように、帽子と片っぽだけの靴を胸に抱き。
嫌々澪様と距離を取る。一歩また一歩。
ぱきんと細い枝を踏んだとき、我に返って足を止めた。振り返り、澪様を見ると五メートルぐらい離れてしまったと思った。
「み、みおさま──」
しかし、私の言葉に反応したのは澪様の後ろに佇む男だった。
「よし。お前はその場で跪け。手を上に。変な動きをしたら胴体の風通しがよくなると思え」
「分かった」
そろりと澪様は膝を折って、手を上にあげた。その顔はとても冷静だった。
「一つ、聞きたい。お前はひょっとして桐紋の関係者か?」
「な、何故っ。分かった!?」
男は驚きの声を上げると──私の背後で。
「そこからは俺が説明しよう」と、冷たい声がした。
驚きの連続で声もでない。
私は起きたまま悪夢か白昼夢でも見ているのかも知れない。それでも冷たい声がした方を向く。
そこには身長の高い男の人がいた。
黒のスーツ姿。黒髪は後ろに撫で付けている。
均整の取れた体躯。年はたぶん澪様と同じくらい。
その顔は彫刻のように整った顔で冷たい美貌の人。麗俐と言う言葉がぴったりだった。
澪様の後ろに立っている男の人とは、存在感が別格。直感でこの人が全てを仕組んだ人だと思った。
しかも手には紫の竹刀袋……もしくは刀袋と思わしき長い何かを持っていた。
その美貌や迫力に釘付けになるより、その手にしている得物で私や澪様に酷いことをするのではと、恐ろしく感じた。
「じゃあ──早く説明しろ」
澪様の声にはっとした。
澪様の声に明らかに目の前の人は、嫌そうに眉根を寄せたけども。私を見て真顔になり。
ザクザクと地面を踏めしめて私の前にやってきた。
「いや、こ、来ないでっ!」
思わず竦んで叫んでしまうと、男の人は前にピタリと止まり。
なんと私の前に片膝を着いた。それはまるで私に跪くようだった。
「えっ……な、なに」
「私の名前は|桐生黎夜《きりゅうれいや》と申します。千里様。古き|命《めい》により貴女を迎えに来ました」
「きりゅう……、迎えに?」
訳が分からなくて言葉を紡げない。
すると桐生と名乗った人がしゅるりと長物の袋の口を外し。
中から一本の刀を取り出して私の前に恭しく掲げた。それは青緑色の鞘に蒔絵が施され、鍔近くにある下げ緒は朱色。なんとも雅な刀だった。まるで美術品だと一瞬、目を見張る。
「貴女様に危害は加えません。驚くのは分かりますが、この刀の鍔をご覧下さい」
桐生と名乗った男が刀の鍔を私に向けた。
言われるがまま刀の鍔を見るとそこには……。
「桐の……紋──!」
私の家に来た人達が背負っていた紋と同じ!
精緻な桐紋の意匠が雑木林の中でもキラリと光る。
驚く私の声に続き、澪様の「やっぱりな」と言うつぶやきが後を追った。
澪様の言葉の意味はわからないけど、私が境内で見た黒のスーツの人達はこの人達だと分かった。私は桐紋の人達は着物を着て、追って来ると思い込んでいた。
なんと浅はか。さっきの犬もこの人達が用意した犬なのだろう。
この黒いスーツを着た人達の正体が分かると、とうとう居場所を突き止められてしまったと言う、恐怖もあったが怒りがじわりと湧いてきた。
ぐっと拳を握り締めて、目の前の人に負けるものかと口を開いた。
「古き命なんて、私は知りません! 私の家を無茶苦茶にしただけでは、飽きたらなかったのですかっ。私に危害は加えないと言いましたが、澪様や他の人にはその刀や銃で暴力を振るうつもりですか!?」
「家のことはただ申し訳なく。この黎夜の不得の致すところ。申し訳ありません。我々とて、無駄な暴力を振るうつもりはありません、しかし、千里様を守る為には、あらゆる手段を厭わぬことをお伝えします」
守るとは一体どう言うことだろう。
言葉に詰まると男──。桐生と言う人は素早く続きを喋った。
「そのことも含めて後ほど、ちゃんと説明いたします。重ね重ね多大な誤解をさせてしまい、心よりの謝罪を申し上げます」
言い終わると、礼儀正しく刀を横に置いて私に頭を下げた。
その表情も深く眉間に皺が刻まれ、後悔しているように見えた。
何故そのような行動になるのか。心情もわからず。私には全てが理解し難くて、心がはち切れそうだった。
「私には意味が分かりません。あなた方、豊臣……桐紋の方達は大爺様の縁の人達。私にはもう関係ありませんっ。今は戦国時代ではなく時代は大正です!」
「千里様、どうか落ち着いて下さい」
そう言われて誰が落ち着けるものかと、目がしらが熱くなった。
「お願いです。もう家に返して。放っておいて。私の家にあったものはすべて差し上げます。土地の権利もあげます。だからお願いです。澪様と私を家に返して下さい……っ」
気持ちが高まり。たまらず瞳から涙が溢れてしまった。
なのにこの目の前にいる、桐生黎夜と言う人は心痛を感じるような。深く反省しているような表情をするので困惑しかない。
「お気持ちごもっとも。ですが、千里様は我々と着いて来て貰います」
誰が行くものもか。
勝手に決めないで。
そう思った瞬間には桐生黎夜は音もなく立ち上がり。刹那に抜刀をして、私の後ろの澪様に向けて抜き身の刀身を向けた。
目にも止まらぬ動き。
枯葉も踏み抜く音すらしなかった。
「卑怯は承知の上。今の千里様に我々の言い分を通すには、こう言う他にありません『この男を助けたかったら、私に着いて来て下さい』と」
「!!」
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