雪香と蓮と決別してから、三日が過ぎていた。
私にとっては、とても苦しい日々だった。
仕事をしていても、頭の中には雪香と蓮が去って行く姿が思い浮かんで憂鬱な気持ちに陥る。
そんな中ミドリから連絡が入り、久しぶりに会う約束をした。
ミドリは忙しい中、状況を報告する為に私の昼休みに時間を合わせてやって来た。
待ち合わせの店には既に彼が居て、ぼんやりとした様子で端のテーブルに座っていた。
「お待たせ」
対面に座りながら声をかけると、ミドリは疲れたような顔を向けて来た。
「久しぶりだね」
「そうだね……そういえばこの前会ったのもこの店だったね」
それ程時間は経ってないけれど、ひどく懐かしい気持ちになった。
そういえばあの時、ミドリに言われたんだった。
蓮に深入りするな、頼り過ぎるなと。
私は反発したけれど、結局ミドリが危惧していた通りになった。
「沙雪、顔色悪いね。何か有ったのか?」
自分の酷い顔色を棚に上げ、ミドリは顔をしかめた。
「最近忙しくて寝不足だからかも。それよりお兄さんはどうなったの?」
気遣って貰えた事を嬉しく思いなら、本題を促す。
「兄はこれから裁判になる、結果がどうなるか分からないけど前科がつくしこの先の人生は相当厳しいものになると思う」
ミドリは顔を曇らせながら言う。
「そう……どうして横領なんてしたのか聞いた?」
最も気になっていた事を聞くと、ミドリの表情は更に暗く憂鬱そうになった。
「それは……端的に言うと金の為だ。兄は経済的に相当困窮していたそうだ」
「経済的にって、本当に?」
目の前に座るミドリをまじまじと観察する。
高そうな生地の黒いシャツに、恐らくブランド物のシルバーのネックレス。
衣装にお金をかけているのが分かる。経済的に困っている様にはとても見えなかった。
それに緑川秋穂も子持ちの専業主婦とは思えない程小綺麗な装いだった。
「沙雪の言いたいことは分かるよ。でも見かけはともかく、緑川家は本当に経済難だったんだ……僕が知らなかっただけでね」
「知らなかったって、そんなこと有るの?」
お兄さんが横領する程困っている状態で気付かないなんて、信じられなかった。
家計を預かりお兄さんが黙っていたとしても、勘が鋭そうなミドリなら異変に気付きそうな気がする。
「僕は大分前に家を出ていたんだ。それから滅多に帰らなかったんだ」
「ミドリは一人暮らしなんだ」
なんとなく、実家に住んでいると思っていた。
「兄が結婚した時に家を出た。それ以来僕は実家の状況なんて何も知ろうともしないで、気楽な一人暮らしをしていた」
ミドリは日本有数の商社で働いているそうだから、給料はかなり貰っているはずだ。
お兄さんは何故、ミドリに相談しなかったのだろう。弟には言い辛かったのだろうか。
「でも、お兄さんが言わなかったとしても、秋穂さんに相談されなかったの?」
秋穂はミドリに遠慮無く頼っているように見えたけれど。
「秋穂は経済状態の危機を知らなかったんだ。家計の管理は兄がしていたし、毎月の生活費は変わらずに渡していたようだから」
「え……いくら家計の管理をしていなかったと言っても、気付くんじゃない?」
秋穂が夫に無関心だったとは思えない。それなのに、どうして……。
「秋穂には知られないように取り繕ってたそうだけど、兄は資産運用に失敗したんだ。その失敗を取り返そうとして余計に悪化してしまった」
「その補填に会社のお金を? いつ頃から?」
「初めて横領をしたのは、雪香と出会う前だ。最初は少額だったけど、徐々にエスカレートしてしまったそうだ」
ということは、一年以上前から、罪を重ねていたということになる。
「横領については、雪香も知っていたの?」
「初めはもちろん黙っていたが、失踪直前に話したそうだ」
「それなのに、別れなかったの?」。
「そうみたいだ」
「どうして……」
雪香の考えが分からない。
「兄は誰にも投資の失敗を打ち明けられず追い詰められていた。両親は年老いているし、秋穂との夫婦関係も元から良くなく子供だけの繋がりだったそうだ。孤独で雪香のような何もかも話せる相手が必要だったのだと思う」
確かに一人で抱えるには重すぎる秘密だとは思うけれど釈然としない気持ちが拭えない。
家族って何なのだろう。一番困っているときに支え合えないなんて、あまりに寂しい。
「……そろそろ時間だ、貴重な昼休みにこんな話をして悪かったね」
ミドリが店の壁に掛かっている時計を見ながら言った。
「ううん、こっちこそ事情を教えて貰えて良かった」
かなり踏み込んで聞いてしまったけれど、ミドリは気を悪くする様子もなく答えてくれた。
「沙雪にはたくさん迷惑かけたし当然だよ」
母や蓮はそんな気遣いしてくれなかったけど。ミドリは律儀なんだなと思った。
「もういいよ。家が大変なんだから私まで気にしている暇なんてないでしょ」
少しだけ笑って言うと、ミドリは綺麗な形の目を細めた。
「沙雪には謝ることが沢山あるな……秋穂の行いや、俺の態度」
「ミドリ?」
なんとなくミドリの雰囲気が変わった気がして、私は眉をひそめた。
自分を俺なんて言っていただろうか。不審がる私にミドリは言葉を続ける。
「沙雪なら気付いてると思うけど俺は秋穂を好きだった、義姉としてじゃなく一人の女性として」
突然のミドリの告白に、私は驚き息をのんだ。
「だから実家から距離を置いたし、関わらないようにしてた。頭では間違ってると分かりながら秋穂の過ちを見逃して、逆に沙雪を責めてしまった」
まるで懺悔をするミドリにどう反応すればいいのか分からず私は困惑していた。それでも彼の気持ちは理解出来た。
間違っていると分かっていても、自分にとって一番大切な人を庇い守りたくなるのは、誰にだってある。
「……もういいよ。ただ秋穂さんを庇いたかっただけなんでしょ? あの時は怒りが沸いたけど私も嘘ついて脅したから。蒸し返す程気にしていない」
「嘘?」
ミドリは怪訝な顔になる。
「証拠の写真撮ったって言ったでしょ? あれは全部嘘。そんな暇無かったし」
「そうなのか……沙雪なら出来そうだと思って、真に受けてた」
苦笑いのミドリに、私は少し迷いながらもこれからのことを問いかけた。
「ミドリはこれからどうするの?」
「え?」
「秋穂さんとの関係とか……彼女離婚するんでしょ?」
ミドリはさり気なく視線を逸らした。
「……子供がいるからフォローは必要だろうけど、具体的には何も決まっていない」
ミドリは秋穂を女性として好きといいながら、積極的に彼女と関わろうとしていないように感じた。
以前は必死になって守っていたのに。その心境の変化の理由が気にはなったけど、さすがにそこまで内面に踏み込めなかった。
少しの沈黙の後、ミドリは話題を変えて来た。
「兄と秋穂の離婚は決まったけど、雪香は兄と別れる気が無いようだ。家を追い出されても気持ちは変わらないと言っていた」
「ミドリは雪香に会ったの?」
「一度会った、沙雪は会って無いのか?」
「……うちを尋ねて来たけど、ろくに話さなかった。どうしても雪香を許せなくて、追い返したの」
傷ついた顔をしながらも、蓮に支えられアパートの部屋を出た雪香。
あの日の光景を思い出すと、未だに胸が痛くなる。
ミドリは私の冷たい対応を知っても非難するようなことはなく、ただ黙って頷いた。
その後、私たちは穏やかに別れ、それぞれの道へ歩き出した。