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テラーノベルの小説コンテスト 第3回テノコン 2024年7月1日〜9月30日まで
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 重々しい溜め息をこぼす。本当に今日も酷い一日だったと擦り切れた靴の爪先を見下ろしながら帰り道を歩く。

 まだ水曜日。一週間が長く感じる。

 傾いた日射しがじわじわと左腕に滲みる。遠く響く蝉の声が寂しさを掻き立てる。夏休みまであと二日。それまでの辛抱と歯を食い縛りながら教室での時間を過ごした。

 我慢しながら一日を過ごすことに慣れたつもりでいた。それでも耳元で侮辱の言葉を囁かれ、罵詈雑言を騒がしい教室に混じって聞こえる時間は本当に長かった。

 視界の隅で交互に現れる爪先と流れる地面を何とはなしに目で追っていると、ふと目の前にもう一つの影が現れた。はっと顔を上げる。

「おかえり」

 夕日に生える白い肌。くたびれたワイシャツとスラックス。ふとそよいだ夏風に真っ直ぐな黒髪が滑らかに揺れた。幼い頃から見てきた、優しくも儚げな微笑みに、ふとじわりと視界が滲んだ。

 まだ学校から少し歩いた橋の上。こんな所まで迎えにきてくれた、と考えるのは少し自意識過剰か。

 どうしたの、と聞くとあっさりと考えていた事を当てられた。どうして、と聞くも彼は答えずに私の方に軽く手を差し伸べてきた。

 松井兄さん。近所に住む幼い頃からの馴染みで、彼の家は彼を含めて七人の兄さん達が住んでいる。何かと昔から私に構ってくれて、今や家族ぐるみの付き合いだった。

 それから彼と並んで歩く。今日学校であったことを聞かれて、適当に退屈な授業の話をした。

 兄さん達は歴史がとても詳しくて、お陰で社会科の授業は得意になった。つい先日の期末テストも好成績を残すことができて、兄さんの一人である篭手切兄さんと桑名兄さんから凄く褒められた事を何となく思い出した。

 松井兄さんは相変わらず優しく微笑みながら頷いている。

 そんな彼には本当の事など口が裂けても言えそうにない。昔から本当に優しく接してくれた兄さん達に、心配はかけたくなかった。

 左腕がずきずきと痛んだ。

 ゆっくりと歩を進めていたつもりだったのに、気付いたら兄さん達の家の前にいた。近所でも取り分け目を引く大きな木造のお屋敷。私にとっては見慣れたよく手入れされたお庭、土間、お座敷。部屋に通されると藺草の優しい香り。お茶をとってくると松井兄さんは部屋を出ていく。いつもは誰かしら兄さん達の声が響く家の中は驚く程静かだった。もしかしたら、私の事を迎えにきてくれたのは、ただ単に誰も家に居なくて退屈だったからなのかもしれない。

 からんと軽い音を立ててグラスの中で氷が揺れる。兄さんは冷えた緑茶と羊羮を持ってきてくれた。

 兄さんの家に行く度に何かしらいただいてしまうのが申し訳なくて一度断った事もあるが、兄さん達は口を揃えて遠慮しないでと言ってくれた。

 なので今回も出された羊羮に手を伸ばす。松井兄さんは口数が少なく、ただ静かな時間が流れていく。

 向かいに座る松井兄さんは、グラスを静かに傾けながら夏風に吹かれる庭のアジサイを眺めている。

 緑茶はとてもよく冷えていて、西日に火照った身体を涼めてくれた。

「──篭手切がさ」

 ふと、松井兄さんが口を開いた。少し驚いてグラスを置いた。

「土曜日に、みんなで水族館に行こうって言い出したんだけど……」

 篭手切兄さんらしい提案に、少し笑ってしまった。兄さん達の中でも末っ子なのに、行動力は凄い。歌やダンスを嗜んでいて、お祭りもだいすきだ。

 頷くと、松井兄さんは話を続ける。

「それでよかったら、君も行かないかい?」

 少し予想できていたが、改めて松井兄さんから言われると不思議な感じがした。いつもは篭手切兄さんや桑名兄さんが誘ってくれるからだ。

 綺麗な顔立ち、透けるような白い肌、絹糸のような真っ直ぐな髪。女性が羨む程に美しい容姿に憧れているのは事実。そんな松井兄さんから話を持ちかけられると、少し鼓動が速くなる。

 いいの、と首を傾げると、少し嬉しそうに兄さんは頷いてくれた。

「君もちょうど夏休みに入るでしょ? 気分転換にいいかな、と思って」

 みんなでと言うことは、村雲兄さんや五月雨兄さん、豊前兄さんも来るのだろうか。稲葉兄さんはあまりそういう場所は好きじゃなさそうだからどうなのだろう。

 みんなで水族館に行くなんて何年ぶりだろう。幼い頃は毎年家族と一緒に連れていってくれて、海沿いのキャンプ場でバーベキューをしたり、海水浴をしたり、とにかく夏は楽しみだった。

 中学に入ってから両親も兄さん達もそういった場所は行かなくなったから、懐かしさで胸がいっぱいになった。

 思いきって頷いてみる。

「よかった」

 再びにこり、と嬉しそうに笑う松井兄さん。また、鼓動が強くなる。本当に綺麗。中学に上がった頃からだろうか。顔を会わすと、こうなる。松井兄さんに会うと、胸がざわつく。

 楽しみ、と自分の鼓動をはぐらかすようにこぼしている。頬が熱い。とっさに左手で髪をかき上げる。

 その時、松井兄さんは目を見開いた。

「どうしたの、それ……」

 部屋の空気ががらりと変わる。何だとチラリと松井兄さんの視線の先を探る。

 しまったと腕を下ろそうとした時には、既に遅く、凄い剣幕をした松井兄さんが左腕を掴んでいた。

 左腕に生える赤。細かい生傷から静かに赤い玉が膨らんでいく。露草色の瞳が鋭それを睨み付ける。

 なんでもない、なんて言い訳はきっと通用しない。唇を噛んだまま俯いていると、再び声音低く松井兄さんは問うてきた。

「誰にかやられたの?」

 もう沈黙を許さないとばかりに鬼気迫る表情。震える唇で、俯いたまま、頭を振る。そして、自分でやったと正直に話した。

 机に書かれた言葉。捨てられたノート。勉強机に入っていた虫の死骸。すれ違い際に轟く脅しの地団駄。今日はそれらが一層酷く、つい耐えられずに休み時間の女子便所に隠れて腕を切った。

「…………」

 松井兄さんはしばらく黙ったまま目を閉じる。そしてかっと見開く。

「こん馬鹿が!」

 部屋に響く怒声。再び見開かれた兄さんの瞳は、潤んでいる。

「なんでもっと早く言わなかった!」

 普段の松井兄さんからは想像もできない程の声量に怯んで仰け反る。しかし腕を掴む松井兄さんの力は強い。振りほどく事も許されない。

 視界が歪み、熱い雫が頬に落ちる。きゅ、と目を閉じる。

 途端、身体が温かくなる。甘い香りが鼻腔をつく。心地よい圧迫感。

 松井兄さんが私の身体を抱きしめていた。

 声をかけるも反応はない。ワイシャツの生地が擦れる音。

 兄さんも、泣いていた。小さく呟く兄さんの声。耳を澄ます。

「──ごめん……」

 どうして謝るの、と震える唇で問う。

「君が……」

 涙声で、兄さんは答えた。

「自分自身で……血を流さなければならない程、追い詰められていた事に……気付けなくて……」

 兄さんは嗚咽を漏らしながらそれきり黙った。

 華奢な身体とは裏腹に、私を抱きしめる力は振りほどけない程強く、布越しに触れた肌の感触が心地いい。そのまま、部屋の中に兄さんのすすり泣く声が響いた。

「……ねえ」

 暫しの沈黙の後に、ようやく兄さんからの抱擁から解放された。

「……学校、辛い?」

 涙で頬を濡らしながら、松井兄さんは微笑んだ。その寂しげな笑みに胸が痛くなる。

 頷くと、ぽん、と頭に薄い手のひらが乗る。長い付き合いの中でも松井兄さんに頭を撫でられるのは初めてだ。

「無理して行かなくてもいいからね」

 これ以上兄さん達に甘える訳にはいかない、と返す。松井兄さんは頭を振った。

「勉強くらい、僕でよければ教えられるし……」

 何より、と兄さんは続ける。

「嫌な思いしてまで行く場所じゃないよ。学校なんて」

 きゅ、と胸が熱くなる。進学を気にする両親の期待に、自分の心を圧し殺していた事を自覚した。そうか、私、今まで無理をしていたんだ。

 小さく、ありがとうとこぼした。

「……水族館」

 ふと松井兄さんは呟いた。首を傾げると、一つ大きく深呼吸して一際優しく微笑んだ。

「楽しみだなぁ」

 松井兄さんの一言に頷くと、二人で合わせたかのように笑いだした。こんなに笑っている松井兄さんを見るのは初めてだ。

 どんどん松井兄さんが好きになる。

 からりと玄関の開く音。数人の足音。この家に賑やかさが戻ってきた。

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