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翌朝LINEを開いてみると、昨夜の未読分すべてが送信取り消しにされていた。
取り消したということは返信不要ということでいいんだろうか、かなりモヤる。
「俺にどうしろっていうんだよ」
苛立ちをかき消すように頭をワシワシと掻く。隣ではまだ絢香が寝息を立てていた。
朝方まで眠れなかったようだし(俺も眠れなかったからわかる)、このまま眠らせておいてやるか。
今日は久しぶりに二人とも休みだ。買い物に行ってランチしようって約束していた。時間もたっぷりあるし、取りあえず俺も寝よう。
ベッドに潜り込んで目を閉じた瞬間、仕事用の携帯電話が鳴りだした。
あーもう、なんて日だ。
急いで寝室を出て通話ボタンを押す。
「はい。おはようございます安西です」
救急科の医者からで救急車で受けた腹痛の患者が大腸の穿孔を起こしていて緊急手術が必要だという。
「……ええと、あと30分で行きます」
非番なのにセカンドコール。つまり、二番目に呼び出される。って、結局のところ非番じゃねえだろ。
「絢香。ごめん、呼び出しだ。昼には帰ってくるからランチにはいこうな」
「うん。わかった。頑張って」
絢香の頭にキスをして急いでシャワーを浴びた。
濡れた髪を拭きながらクローゼットから服を取り出すが仕事が終わったらデートすることを考えると服は適当には選べない。
襟付きのシャッに春ニットとグレーのスラックス。最近暖かくなってきたので軽めのジャケットを羽織ことにした。
休日の早朝ということもあり道路は空いている。ハンドルを握りながら頭の中で手術のシミュレーションをする。
今日の当直は東先生だから執刀医は彼。俺は助手に徹すればいい。
術後の経過は日勤の医者が診るんだろうし、となると思ったより早く帰れそうだ。
「申し訳ないけど、今日の俺は仕事よりもデートだ」
「何か言いました?」
東先生が聞いてくる。
「いんや、何でもねえよ。それより、素早く正確に、やろうぜ」
バチン、とウインクをすると東先生は無表情のまま頷く。おいおい、少しはノってくれてもいいんじゃねえの?
「もちろんです。お休みの安西先生にはできるだけ早く帰ってもらいたいですから」
「お、いいこと言うねえ。さすがは東先生」
当初の予定通り手術はとてもスムーズに進行した。穿孔の原因は腫瘍によるものだった。丁寧に切除して迅速の病理診断に出した。今後は抗がん剤による治療が必要になるだろう。
「安西先生。ありがとうございました。後は僕が」
#恋愛
水羽凛
299
22
#医者
GUMI。
664
東先生がそう言ってくれたので遠慮なく任せることにする。これから閉腹して患者の家族に説明して、病棟の看護師に術後の指示を出して……となかなかな仕事量だけど彼なら大丈夫だろう。
「悪いねえ。じゃあ、後はよろしく」
術衣を脱ぎシャワーを浴びて着替えると、病棟に顔を出した。
「あれ? 安西先生どうしたんですか?」
夜勤の看護師が俺の姿を見てそう言った。
「緊急オペがあってさ」
「そうだったんですね、お疲れ様です」
「俺はほとんど何もしてないさ。ほぼ東先生。患者はこれからICUに入るけど週明けには一般病棟に出られるんじゃないかな」
担当患者に変わりがないかだけ確かめて、急いでエレベーターに飛び乗る。
絢香が待ってる。そう思うと自然と気持ちが逸る。こんなにも誰かを愛おしいと思うのは初めてかもしれない。
七年前。俺は本気の恋をしていた――と思っていた。
ようやく医者として歩き始めた俺は先輩や同僚に誘われるまま、夜な夜な飲み歩いていた。
当時大学病院の医局だった俺は金に余裕があったわけではないけれど、一晩当直のバイトをすれば高級店で飲み食いできるくらいのお金はすぐに手に入った。
医者というネームバリューでいくらでも女の子に出会えたし、向こうから勝手に好きになってくれた。
仕事は辛いことも多かった。そのストレスを発散するかのように酒を飲んで遊んだ。毎日がとても楽しかった。世の中の女性が俺のことを好きになるんじゃないかと思ってしまうくらいにモテていたから。
そんな勘違い最強男子の俺でも落とせない子が現れた。
当時二十三歳だった和美だ。
雑草の中で咲くユリの花みたいに清楚で品があってほかの女の子よりも目を引いた。でもどこか寂しげでつまらなそうにしてる彼女に俺はアプローチすることにした。
『ねえ、君。全然飲んでないね』
『はい。明日仕事なので……顔むくんだら困るし』
聞けば駆け出しのアイドルで、飲み会には同じ事務所の先輩に無理やり連れてこられたのだという。
『じゃあ、抜け出さない? 俺が連れだしたことにして早く帰ればいいよ』
『でも……』
『心配しなくていいよ。責任は俺がとるから』
そう言いながら二人で飲めたらいいなと考えていた。当時の俺にはもちろん邪な気持ちしかない。
けれど、彼女は頑なだった。
『今日は帰らせてください』の一点張りで根負けした俺はタクシーで家まで送ることにした。
『……え。ここに住んでるの?』
彼女の住まいはアイドルが住んでいるとは到底思えない古びた木造アパートで俺は面食らった。
『アイドルのお給料じゃ生活できないんです。アルバイトもしてるんですけど、それでも生活が苦しくて……』
彼女の所属事務所の給料は歩合制で仕事がなければゼロの月もあるという。
『それでもアイドルになりたいの?』
思わず聞いてしまった。すると和美はこくりと頷く。
『はい。小さいころからの夢だったので……でも、もうあきらめないといけないかも。水道も電気も止められてしまったし、家賃も滞納していて』
『そんなに大変なのか。なにも知らなくて、なんかごめんな』
『いいんです。誰も悪くないんで……』
突然泣き出した和美を放っておけず、財布にあった数万円を握らせた。
『受け取れません』
涙をためた目で俺を見る。本当はもっと払ってあげたいが、残念だが手持ちがない。
『いいから。足りないかもしれないけど、使って。必要な時はいつでも俺のこと頼っていいからね』
それきっかけで二人で会うようになった。友達からは地雷女だからやめておけって忠告されたけどいくら告白しても首を縦に振らない和美に俺は執着していたんだと思う。
猛アピールの末付き合うようになった。
アイドルと付き合えて舞い上がっていたし、結婚してもいいと思った。売れない和美を支えるのは俺だって信じて疑わなかった。ワガママもかわいいと思えたし、どんな要求にもすぐに応えた。
けれど、彼女の要求は徐々にエスカレートしていき俺が応えられないと知るとかんしゃくを起こすようになった。
和美には仕事のストレスもあるのだからと理解しようと努力した。けれど、俺も仕事が忙しく彼女と喧嘩になることが増えていった。
結局、和美はアイドルとしてほんの少し売れた後、グラビアアイドルとして大成した。都心のタワーマンションで暮らし、欲しいものは何でも手に入るくらいには稼げるようになった。
そんな彼女にはいろんな男が寄ってきた。地位も名誉も金もある男たちだ。だから別れを告げられた時、俺は用無しになったのだと考えるようにした。
これで二度と会うこともないと思っていたのに……和美が救急搬送されてきて医者と患者として再会するなんて夢にも思わなかった。
『……正臣!?』
救急外来のストレッチャーの上で痛みに耐えながら俺の名前を呼んだ。
あの頃と変わらないどころか、思わず見とれてしまいそうなくらいとてもきれいになったと思った。
もちろん彼女の活躍は知っていた。テレビはあまり見ないが、街に出れば彼女が広告塔をしている商品の看板を目にすることもあったし、若い同僚には彼女のファンもいて医局に置かれた写真集を興味本位で覗いたこともあった。
『お久しぶりです、佐藤さん。救急医の診断通り、すぐに手術が必要です。それについて説明させてください』
あえて事務的に、淡々と医者としての責務を果たそうとする俺に和美は不満そうな顔をする。
『どうしてそんなに他人行儀なの?』
『おっしゃりたいことが分かりません……』
元彼面してなれなれしい口を利くほど馬鹿じゃない。ここは職場だし、今は医者と患者だ。
『正臣変わったね……昔はもっと優しかったのに。なんか怖いし、別の先生に手術してもらいたい』
まるで子供が拗ねるように頬を膨らませて顔を背ける。あざとかわいいを売りにしているのだろうが、ここは病院でしかも急を要するような容体だ。
『……申し訳ありません。当直の外科医は僕だけなんです』
ていうのは嘘で、後輩と研修医が待機している。だた、面倒そうな患者だからと救急医が俺を呼び出しただけ。
『じゃあ、前みたいにやさしくしてくれる? ならいいけど』
俺は短く息を吐いた。今、駆け引きしている暇はない。みんなに見られているが、知ったこっちゃない。
『……分かったよ、和美。久しぶりに会って緊張してたんだよ。俺がちゃんと治してやるから安心して任せてくれるか?』
なだめるように、あやすように、出来るだけやさしい言葉を選んだ。すると和美は安心したように腕を伸ばして俺の手を握った。
『うん、任せる。でもすごく怖いの』
『大丈夫。眠っているうちに終わるよ』
『目が醒めるまで正臣が側にいてくれる?』
『……約束する』
そう言ういしかなかった。
術後覚醒した時、俺がそばにいなかったらまた大騒ぎするんだろうなと余裕で想像できたので病棟に戻るまでずっと付き添うことにした。
おかげで絢香の作ってきてくれたオムライスを食べることができたのは翌朝。豪華すぎる朝ごはんは嬉しかったし、癒された。でもその後の和美のワガママに対応するのは心底疲れた。
俺が許容できるギリギリのラインを分かっているのか、絶妙に振り回す。呼んだらすぐに来いとか、看護師を部屋に入れるなとか。できることとできないことがあるんだと説明すれば、手術の傷跡がきれいに治らなかったら訴えると言い出した。
論点をすり替えるのは彼女の得意分野だ。
仕事だからと諦めていたが、俺の医者という立場を利用してプライベートでも呼び出すようになってしまった。
おかげで旅行に行けなくなってしまったのだが。あれは俺も反省している。
これ以上絢香を悲しませたくないし、もういいかげん、和美との関係は立つべきだろう。
通用口から病院の外に出ると日差しの眩しさに目を細めた。時計を確認すると十一時を過ぎたところだ。絢香に連絡しようとポケットを探る。
「正臣」
そう呼ばれて顔をあげた。
こちらへ歩いてくるのは上質なキャメル色のロングコートを着た女性。サングラスをかけていても俺には誰なのかがすぐに分かった。
「……和美。どうしてここに?」
って、大方想像はつくが。
「だって、連絡つかなくなったから心配で。きっと仕事じゃないかとは思ったのよ。やっぱりそうだったー」
彼女コツコツとヒールを鳴らして俺の隣に歩み寄ると腕を絡ませてくる。
「これから帰るんでしょ?」
「ああ」
「じゃあ、ランチに行きましょ? 西麻布に新しくできたベーカリーのランチプレートが絶品なの。少し前に雑誌の撮影でお邪魔したんだけどね、正臣も好きなはずよ」
「悪いけど、いけない」
そう言って彼女の腕を引きはがした。
「……は? 嘘でしょ、どうして私の誘いを断るの?」
信じられないといった様子で和美は綺麗な顔を歪める。
「先約がある。……それに和美は芸能人だろ。俺なんかとランチしてたら週刊誌に撮られるんじゃないのか?」
しかも、休日のランチ時なんて客がわんさかいる時間帯だろうに。
「週刊誌? そんなの私は構わないわ。正臣と結婚してもいいと思っているし」
「結婚? なにいってるんだよ。そんな気もないくせに」
甘言葉をちらつかせたら俺が言うことを聞くとでも思っているんだろうか。もうその手には乗らない。
「したくないの? 私と結婚」
「したかったさ」
……昔はね。
俺は和美の手を取ると正面入り口のローターリーまで引っ張っていく。そしてタクシーに彼女と乗り込むとマンションの住所を伝えて自分だけ降りた。
「運転手さん、お願いします」
ゆっくりと後部座席のスライドドアが閉まり始める。降りようとする和美を俺は手で押し込んだ。
「ちょっと、正臣! なにするのよ」
「ごめん、和美。今、俺には恋人がいるから。二度と連絡してこないで」
言い終わるか終わらないかでパタン、とドアが閉まる。走り去るタクシーを見送り、俺は車へと急いだ。
絢香に連絡を入れて、マンションのエントランスで彼女をピックアップすると予約していたレストランに時間ぎりぎりで到着することができた。
一軒家のこのレストランは住宅街の片隅でひっそりと営業している。にもかかわらず、予約の取れない人気店だ。
なんでもオーナーシェフは海外の三ツ星レストランで料理長を務めたことのある実力者らしい。
「今日、来れないかと思った」
食前酒の入ったグラスを傾けながら絢香が言った。
「俺は絶対に来るつもりだったけど? 絢香との休日、仕事で終わらせてたまるかってめちゃくちゃ頑張った」
俺は運転があるので炭酸水だけど、仕事終わりに絢香と飲むものはなんだってうまい。
「ありがとう。さすができる医者は違うねえ」
「それほどでもねえけどな」
最近気づいた。絢香に褒められるとすげえ嬉しいってことに。きっと俺の仕事ぶりを常に側で見てくれているからこそ響く言葉なのだろう。
今まで出会った女性たちも「すごい」とか「かっこいい」とか、おおげさに称賛するような言葉を使っていたけれど、あまりピンとこなかったのはそのせいだ。そんな子たちといくら出会いを重ねても真面目に付き合えるはずがなかったんだ。
「正臣」
「ん? どうした」
「スマホ、ずっとなってない?」
そういわれてどきりとした。気付かないふりをしていたがさっきから俺のジャケットのポケットの中でスマホが着信を知らせている。店内が静かすぎてバイブの音さえも絢香に届いてしまっていた。
「病院からじゃないの?」
「ああ、病院からじゃない……」
病院から持たされている携帯電話は胸ポケットに入っている。
「出なくていいの?」
プライベートのスマホに電話をかけてくるのは、絢香以外では家族か、和美しかいない。
家族からの電話なんて年に数回しかないし、こんなにしつこく鳴らすのは和美だけだ。
「……出なくていい。食事中だし」
「でも、誰からなのかは確かめた方がいいんじゃない? ご家族からだったらすぐに出てあげた方がいいと思うけど」
そういって絢香は俺をじっと見た。
おそらく絢香は電話の相手が誰なのか察しているんだろう。その上で俺にスマホを確認しろというってことは、その後の対応を試そうとしているんだろうか。
いや、本当に善意で言っているだけかもしれない。緊急の連絡なら電話に出た方がいいという純粋な気持ちから。
「早くしたら?」
「お、おう」
――ああああ、何が正解だ?
見るか。見るとしたらこの場で?それともトイレで?
「なにしてるの、かして? 私が見てあげる」
そう言って絢香は手を差し出す。俺は言われたとおりにスマホを手渡した。
「ごめん。和美さん、じゃなかった。三村さんだって。切れちゃったからかけなおしてくれば?」
画面に表示された名前を見て、絢香は言う。俺は無言で首を左右に振った。
「……三村さんはマネージャーだよ、和美の。だから電話はかけなおさなくていい」
「そ、そう」
俺が追い返したりしたからマネージャーに泣きついたんだろう。和美の行動パターンは学習済みだ。電話に出たら呼び出される。三村さんには悪いが、俺はもう和美にはかかわらない。
「なんか、ごめんな。せっかくのランチなのに……」
楽しい雰囲気をぶち壊してしまった。
「ううん、私が自分で見たんだしいいよ。それに出ないって言ってくれて安心した」
絢香は強張った表情を緩めた。
「不安にさせて悪かったよ。でももう関わらないってきめたんだ。だから絢香は心配しなくていいぞ」
俺は強い口調でそう言った。食事が終わったら二人の電話番号は着信拒否設定にして削除するつもりだ。
「……分かった」
絢香は俺の目を見てそう言った。おそらく完全には信じ切れていないのだろう。でもこれ以上和美とのことで不安にさせるつもりはない。
「うん。じゃあ、食べようか。ワインも追加する?」
これでようやく絢香との平穏な日々が訪れる。俺はそう信じて疑わなかった。でも…….
それから数か月後、東先生が病院を辞め大学病院へ戻ってしまった。
外科のエースであった彼の存在を失ったことは外科、いやこの病院にとって大きな損失であることに間違いはないだろう。
後任の医者は来たものの、東先生ほど仕事ができるわけでもなく(これが普通なのだが)結果として今までよりも業務量が増えた。
おかげで数年ぶりに医局で寝泊まりする生活が続いている。
「ねえ、正臣。今度いつ休める?」
病棟の廊下で絢香にそう聞かれて俺は言葉に詰まる。
「来週の木曜とか、かな」
といっても休める確証はないが……。
「木曜? 私日勤なんだけどな」
最近絢香と一緒に休日を過ごすことが出来なくなっていた。それはお互いにつらいことではあるが、仕事なのだから少しは理解して欲しいと思ってしまう。
だからつい、口調が強くなってしまった。
「仕方ないだろ! 最近オペ件数も増えてるんだから。それは絢香も分かってるよな」
そう言った途端、絢香がものすごく悲しい目をして顔を背けた。
「そうだね……ごめん。でも来月の14日は空けておいてよね」
小さな声でそう言って、俺に背中を向けて歩き出す。
「お、おい、絢香。待てよ……」
引き留めようとした。けれど、引き留めても状況は変わらない。俺が休めるわけでもなく、絢香が満足する答えを与えられるわけでもない。
そんなことを考えているうちに絢香はナースステーションへと戻ってしまった。
院内で顔を合わせているしコミュニケーションはとれている。そう思っていたのは俺だけだったんだろうか。
女心は難しい。
コメント
1件
ああ……もう、もどかしすぎますよ、安西先生! 絢香さんに「安心した」って言われたときは少しホッとしましたけど、最後の“来月の14日”の言い方、すごく気になります。和美さんをしっかり突き放したの、かっこよかったです。でも絢香さんのあの哀しそうな背中が胸に刺さりました。タイトル回収も憎いですね。続きが気になって仕方ないです!