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#恋愛
水羽凛
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#医者
GUMI。
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「ねえ、絢香」
夕方の申し送りが終わり帰り支度を始めていると日菜が話しかけてきた。
「なあに、日菜」
「今日これから空いてたら飲みに行かない?」
「お、いいね。行こう!」
日菜はお付き合いしている東先生を追って、近々この病院を退職する予定だ。引っ越しの準備が忙しそうで最近プライベートで会う機会も減っていたのでこの誘いはとても嬉しかった。
着替えるために更衣室に向かい、そこで内科勤務の里奈と出くわす。暇しているという彼女も誘い三人で飲みに行くことになった。
病院から徒歩圏内のイタリアンバルに入る。平日ということもあり、店内は割と空いていた。
それぞれ好きなお酒を注文し、乾杯する。
「そういえば日菜は里奈と面識なかったよね? この子は内科病棟勤務の箱崎里奈。見た目は派手だけど、いい子だよ」
そう紹介すると里奈は「派手じゃないもん」と唇を尖らせる。
「この子は日菜」
「はじめまして、及川日菜です」
「どうも、里奈です。及川さんって東先生の彼女なんですよね? めちゃくちゃ有名人ですよ。近くで見るとすごくかわいいですね」
里奈はお世辞は言わないタイプだ。少々ストレートな物言いが気になることはあるが、本音で話せて私は好き。
「ええ!? 有名人なんて、そんな……困ります。私なんかかわいくもないし、彬とは釣り合ってなくて……」
里奈の勢いに押されて、日菜のネガティブが発動している。
「なに言ってるんですか、院内人気ナンバーワンの外科医の彼女って胸張ってくださいよ。大声で自慢したっていいくらいなのに」
「そうそう。里奈、もっと言ってやって! この子、自自信なさ過ぎて自滅するタイプなの」
「もう、絢香までそんなこと言ってー」
それから私たちは女子トークに花を咲かせた。日菜が病院を辞めてしまったらこんな風に仕事帰りに飲みに行くこともできなくなってしまう。なんだか寂しい。
安西先生とはすれ違いの生活だ。里奈とは病棟が違うのでなかなか思う様に会えない。ふとしたときに孤独を感じる。
それから二時間ほどして解散となった。私は明日夜勤だけれど、二人は日勤なのだそうだ。病院前でバスに乗りマンションまで帰る。
オートロックを解除してエントランスを抜けエレベータホールに向かうとうずくまる人を見つけた。
ロングヘアの細身の女性だった。
「大丈夫ですか?」
驚いて駆け寄り手首に触れた。体温も問題なさそうだし、脈拍数も正常に近い。意識もありそうだ。
「どうしましたか?」
私が問いかけると、その人は消え入りそうな声で答えた。
「……めまいがして、気分が……」
「めまいがしたんですね。今すぐ病院へ行きましょうか」
「平気です。部屋に……少し休めばきっと……」
「分かりました。お部屋までご一緒しましょうか。何階ですか?」
「最上階です」
(最上階!? 何者?って、今そんなこと考えている場合じゃないってば)
私はその人を支えながら最上階のボタンを押す。
「すぐ着きますからね!」
それにしても身長が高い。かなり痩せてはいるが骨格はしっかりとしている。モデルとかそういった職業の方だろうか。
失礼かもしれないが、予想うよりも重い……。
「着きましたよ」
「これで、ドアを」
私は渡された鍵で部屋のドアを開ける。
中に入るとセンサーライトが点灯した。大理石が敷き詰められた広い玄関。奥から黒いラブラドルレトリバーが駆け寄ってくる。そして心配そうにその人の顔を何度も舐めはじめた。
「……ヴェガ。大丈夫だよ」
大丈夫とは言うが息が上がっている。とても辛そうに見えた。
「早く横になった方がいいですよ。これ、お返ししておきますね」
私は鍵をその人に握らせる。
「ご親切に送ってくださってありがとうございました。もう、平気ですから……」
「じゃあ、私はこれで……」
そう言って帰ろうとした。けれど、玄関にしゃがみ込んだまま動く気配がない。全然大丈夫じゃないじゃない。
「やっぱり帰れません。私看護師なんです。ご迷惑でなければすこしお邪魔してもいいですか?」
「迷惑じゃありません。逆に、助けていただけてありがたいです」
私はその人を支えながら部屋の中へと入った。
とても広いワンルームで、部屋の壁の約半分は大きな窓になっている。窓の外は遮るものがなく夜景だけが広がっていた。
先生の部屋と全然違う間取り。
中央にソファーとテーブル。グランドピアノもある。その奥には大きなベッドをみつけた。
「横になれますか?」
私はその人をベッドの端に座らせた。そして衣類の締め付けをなくそうとデニムのボタンを外した。そこでようやく違和感の正体に気付く。
……この人、男だ!
どおりで身長も高くて骨格もしっかりしているわけだ。髪は長くて顔も中世的で女性に見えなくはないけれど、声だって……。
「水を……」
「え?はい。お水ですね」
部屋の中を見渡すとウオーターサーバーがあった。キッチンの棚からコップを持ってきて注ぐ。
「どうぞ、こぼさないようにのんでください」
その人が起き上がるのを待ってコップを口元までもっていく。
間近で見ると、本当にとてもきれいな顔をしている。
ギリシャ彫刻のように端正で透明感のある目鼻立ち。きれいな肌に艶やかな黒髪がとてもよく似合っているし、着ている白いオーバーサイズの襟付きシャツはシンプルなのに品よく着こなしていた。
「飲めました?」
「……はい。めまいも治まったみたいです」
「そうですか!……よかった」
治らないようならこれから受診できる病院を探そうかと思っていたところだ。
「普段からめまいをよく起こされるんですか?」
「いえ。健康だけが取り柄のはずなんですが、時差ボケのまま仕事に追われていたのが原因かと」
「時差ぼけ? お仕事はお忙しいんですか?」
どんな仕事をしているのか気になったが、なんとなく聞けなかった。
「ええ。でも、今日で終わりましたからしばらくはゆっくりできそうです」
「よかったですね。ゆっくり休んでください。体調、大丈夫そうなら私はこれで失礼します」
自ら上がり込んでいしまったが、曲がりなりにも男性の部屋だ。早く帰らなければ。
「ええ、そうですね。いろいろとご親切にありがとうございました。……そうだ。お礼をしないと」
そう言ってその人はデニムのポケットから財布を取り出す。
「いいですって。お金なんていただけません」
両手を振ってそういと、男性は困ったように眉尻を下げた。
「……ごめんなさい。日本円は手元になくて。あとでもいいですか?」
――え?違った!? めちゃくちゃ恥ずかしいんですけど。
「やだ、ごめんなさい。そんなつもりで言ったんじゃないんです。お金はいただけません」
必死で否定すると男性はクスクスと笑った。その笑い方も上品で、豪快に笑う先生とくらべてしまう。
「わかりました。でもお礼はさせてください。僕の名刺を渡しますからお時間があるときにでもご連絡いただけると嬉しいです。今日は本当に助かりました。ありがとう」
私は名刺を受け取ると、逃げるように部屋を出てきた。
「びっくりした」
いろいろ驚くことがり過ぎてすっかり酔いが醒めてしまった。
熱いシャワーを浴びてソファーに寝転ぶとさっきもらった名刺をまじまじと見る。ピアノのイラストに名前と連絡先が書かれたシンプルなもの。
私は彼の名前をスマホで検索してみることにした。
「鷹藤琉加(たかとうるか)」
その名前を打ち込むと、思っていた以上に彼に関する情報がヒットする。写真や動画、インタビュー記事やファンの書き込みなどなど。私は一番上のサイトを開いてみる。
「……天才ピアニスト」
そう書いてあった。 どうやら彼は世界的にも有名なピアニスト兼指揮者らしい。タキシード姿で撮られた写真は間違いなく先ほどまで目の前にいた人物に違いなかった。
生れは日本だが、ウイーン育ち。母親はオーストリア人で音楽家として活躍しているようだ。父親は有名ブランドの日本法人の社長を務めた後、財閥系企業の役員をしていると書いてある。
検索したら家族のことまで知られてしまうなんて少し気の毒だなと思いながら私はいくつかのサイトを梯子した。
「知れば知るほどすごい人なんだけど……お礼してもらうために自分から連絡なんてできないよ」
偶然顔を合わせるようなことがあれば別だけど。でも彼はあまり日本にはいないようだし、きっともう会うこともないだろう。そう思い、彼の名刺を手帳の間に挟んだ。
それから、数日後。
先生が当直で不在ということもあり、私は仕事帰りに近所のバーに立ち寄った。最近こうして一人で夜を過ごすことが増えた。
節約生活ばかりでは気が滅入るし、せっかく素敵でおいしいお店が多い地域に住んでいるのだからたまには(でもなくなっているが)プチ贅沢をしても罰は当たらないはずだ。
三杯目のお酒を注文しようか迷っていた時、数名のグループ客が入ってくる。騒がしくなるのは嫌だなと思って席を立とうとすると背後からいきなり声を掛けられた。
「こんばんは」
一瞬ナンパかと思い身構えたが、違ったようだ。「この間はどうも」と言われようやく振り返る。
「……鷹藤さん?」
今日は髪をまとめているからか印象が違ってみえる。服装もTシャツにカーゴパンツというカジュアルな装いで今日はちゃんと男性だとわかる。
「そうだよ。また会えたね……ええと、」
そう言って鷹藤さんは私をじっと見た。そこで名前を名乗らなかったことを思い出す。
「ああ名前、お伝えしていなかったですよね。竹光です。竹光絢香」
「絢香。どうして連絡くれなかったの?」
「ずっと待ってたのに」と真剣なまなざしを向けられて、私は思わず顔を背けた。
「ご、ごめんなさい」
「……謝ってほしいわけじゃないよ」
いいながら鷹藤さんは私の隣のスツールに腰を下ろすとマッカランをストレートでオーダーする。
「絢香はなに飲む?」
「私はもう帰ろうかと思ってて」
それは嘘ではなかった。もう帰るつもりでいたし、鷹藤さんの連れの人たちはすでに酔っているようでとてもにぎやかだ。。
「そうか、残念。一緒に飲みたかったのに。じゃあ、またね」
鷹藤さんは注文したグラスを手に取ると、仲間の要るソファー席へと言ってしまった。
「……じ、じゃあ、また」
正直拍子抜けだった。
もう少し引き留められるかと思っていた。私から連絡しなければ次に会える保証だってないのに「また」だなんていったりして。
でもそのくらいでちょうどいいのかもしれない。私には安西先生という恋人がいるのだし。
案の定、ひと月ほど経っても鷹藤さんと会うことはなかった。
同じマンションに住んでいても同じ時間に通勤するような生活スタイルでもなければ出くわす確率なんてほとんどない。
その日、私は夜勤明けで、仕事が終わると先生を見つけて駆け寄った。
「今日は帰ってこれるんだよね?」
そう小声でささやくと、先生は小さくため息を吐く。
「……無理だろ。今日は大きなオペが二件。それ以外のも合わせたら六件だ」
「でも前から約束していたじゃない」
「されてたっけ? わりぃ、記憶にない」
カレンダーにも書いておいたのに……。
東先生が病院を辞めてから安西先生に仕事の負担がのしかかっているのは知っていた。だから極力「会いたい」とか「いつ帰ってくるの」とか負担になるような言葉は言わないようにしてきたつもりだ。
だけど、だからって、約束すら忘れるなんて酷すぎる。
「……ああそうですか。わかりました」
かわいげのない言い方をしてしまったと思ったが、取り繕う気持ちにもなれなかった。案の定先生もむっとしたようで、
「おい、なんだよその言い方は!」
そう言って先生は私をにらんだ。
彼には私がただのワガママな彼女に見えているんだろう。これ以上話をしても無駄だ。
「……もういい」
私はそう言い捨てて踵を返す。
「おい、絢香。もういいって、どういう意味だよ」
先生は私の肩を掴んだ。でも私は振り返らずに言う。
「そのままの意味だよ。だって、今夜は帰ってこれないんでしょ? ううん、今夜も、だよね?」
「それは、仕事が……」
「分かってるよ。正臣は仕事が大事なんだよね。ねえ、気づいてる? 私たちもうずっとキスもしてない……これって付き合ってる意味あるのかな?」
世の中には“気持ちさえ繋がっていれば会えなくても大丈夫”なんてカップルはたくさんいるのだろう。
もちろん男女の関係がなくてもいいと思う人も。
以前の私ならこういう考え方もありだな、なんて思っていたし自分がその立場になったら受け入れられるものと思っていた。
でも違ったみたいだ。
好きな人とは一緒にいたいし、同じ時間を過ごしたいと思う人間なんだ。
「……お疲れさまでした」
そうとだけ言って私は踵を返した。
もしかしたら帰ってきてくれるかもしれない――なんて心のどこかで期待していた。
けれど、二十一時を過ぎても連絡すらない。
以前は帰宅できないときは仕事の合間を縫ってLINEや電話をしてくれていたのに。
「もう待たないからね……」
私は作った料理とケーキの箱をもってエレベーターに乗った。
――ピンポーン。
インターフォンを鳴らすとヴェガの吠える声が聞こえる。少ししてガチャリとドアが開いた。
「……絢香!? どうしたの」
鷹藤さんは驚いたようにそう言ってドアの補助ロックを外してくれた。
「いきなりでごめんなさい。お礼の件、まだ有効ですか?」
言い淀まないように、少し早口でそう言った。すると鷹藤さんは優しく微笑んで
「もちろん」
と言ってくれた。
「よかった! もし嫌じゃなかったらこれ食べてくれませんか? 作ってきたので」
私は中身が見えるように紙袋を広げた。たくさん詰め込んできたのでずっしりと重い。
「……ええと」
「……あ。いいんです。手料理食べられない人もいますし断ってくれて全然大丈夫なんで!!」
急に押し掛けた上に困らせてしまったようで、なんだか申し訳ないことをした。
「なんか、ごめんなさい」
「ううん、そうじゃなくて。絢香が料理してきてくれたんじゃお礼にならないでしょ?」
「いえ、そんなことないです。ひとりじゃ食べ切れなくて、手伝ってもらえたらすごく助かるんです……」
ひとりで食べ切れないと言ってみたが、ここには二人分詰めてきた。おすそ分けということではなく、全部引き取ってもらうつもりでいる。迷惑を承知の上だ。
「わかった。いただくよ」
「ありがとうございます!」
「そのかわり、絢香も一緒に食べることが条件だよ。だって、かなりの量だし、僕一人じゃ食べられないよ」
「……はは」
「それに」そういって鷹藤さんは私の目をじっと見つめる。少しグレーがかった瞳に見つめられるとすべて見透かされたような気持になる。
「このまま絢香を部屋に帰しちゃいけないきがするな。だって、今にも泣きだしそうな顔、してるから」
そう言われて思わず動揺してしまった。否定しようにも言葉が出てこない。
「図星かな。僕でよければ話し聞くよ。どうぞ、入って」
そう言って鷹藤さんは玄関のドアを大きく開いた。
「……でも、ご迷惑じゃ」
「大量の料理を置いていかれる方が迷惑だよ。それよりも、ヴェガが外に出ちゃうから早く入って、さあ」
いまさら帰りますだなんて失礼過ぎて言えない。もしもの時は……いや、もしもの時なんてきっとない。そんなことをする人だなんて思えないから私はここへ来たんじゃないのか。
「失礼します」
玄関へ入るとヴェガがしっぽを振りながら飛びついてきた。私の顔を見上げた後、紙袋をクンクンと嗅ぎ始める。
「ヴェガ、行儀が悪いぞ」
鷹藤さんはヴェガの鼻先を軽くつかんで諭すようにそう言った。するとヴェガは素直に私から距離を取る。
「絢香、今のうちに靴脱いじゃって」
「あ、はい。ありがとうございます」
私は荷物を床に置き、靴を脱ぐと端にそろえた。
「ヴェガはローストビーフなら食べられますかね? ソースは別で持ってきたのでかかってませんし」
「ありがとう。よかったな、ヴェガ。絢香の手料理だってよ!」
ヴェガはその意味が分かったかのように嬉しそうに尻尾をフリながら「ワン」と鳴いた。
「ねえ、絢香はワインのむ?」
「いいんですか?」
「もちろん。赤でも白でも。カクテルも作ればあるよ。ああでも、ロストビーフなら赤がいいかな」
鷹藤さんは私の荷物をもってリビングへ入っていく。私は彼に続いて部屋にはいった。
リビングはダウンライトに照らされていてホテルのラウンジのような雰囲気だ。
「そこのソファーに座って。僕はワインとグラス出してくるから」
「はい、失礼します」
私はリビングに置かれた白いL字ソファーに腰を下ろした。
まるでマシュマロの上に座ったかのような座り心地だ。なんとなく落ち着かず、床に膝立ちになると持ってきた料理とケーキをテーブルの上に並べる。
「あの、鷹藤さん。取り皿ってお借りできますか?」
キッチンにいる彼に声をかけた。
「もちろん。ほかには何が必要?」
「すみません。お箸やフォークもお借りしたいです」
「オーケー」
鷹藤さんは手際よく食器を出してならべてくれた。広めのテーブルが埋め尽くされて、我ながらよく作ったものだと感心する。
「さあ、いただこうか」
お勧めだというナチュラルワインで乾杯すると、鷹藤さんは「おいしい」といいながらたくさん食べてくれる。
「お口に合いますか?」
「どれもおいしいよ。絢香って料理上手なんだね。ヴェガも満足したみたいだよ」
中心部分のお肉を切り分けて与えると、ぺろりと平らげて専用のソファーでうたた寝を始めている。
「よかったです。今日はありがとうございました」
私のわがままを聞き入れていくれて、それからここへ押しかけた理由を聞かないでいてくれて。
「ううん、僕の方こそ美味しい料理をありがとう。お礼と言っては何だけど」
鷹藤さんは立ち上がるとピアノの椅子に座った。そして細くて長い指先で鍵盤をはじく。
「この曲は」
鷹藤さんが引いてくれたのは、誕生日を祝う曲だった。私は驚きで目を見張った。
「……どうしてわかったんですか? 私の誕生日だって」
ワインに酔って饒舌にはなっていたかもしれないけれど、今日誕生日だってことはひとことも話していないはずだ。
「どうしてって? それは僕がエスパーだから」
「ごめんごめん。実はケーキの箱の窓からHappy birthdayのメッセージが見えちゃってさ」
「……そうだったんですね。恥ずかしい」
ケーキを予約する時、プレートのメッセージをどうするか聞かれ、何も考えずに『Happy birthday Ayakaでお願いします』って言ったんだった。
「おめでとう、絢香。君の誕生日を祝えてうれしいよ。ありがとう」
「ありがとうだなんてそんな。私の方こそ、一緒に過ごしてくださってありがとうございました。鷹藤さんがいなかったら、今頃部屋で……独りで……あれ、やだ、ごめんなさい」
勝手に涙があふれてきて止まらなくなってしまった。早く泣き止まなければと思えば思うほど、止めることができない。
「絢香。こっちにおいで」
鷹藤さんは手招きして自分の隣に座るように指をさす。私はゆっくりと立ち上がり、彼の隣に座った。
「泣きたい時は泣いていいんだよ」
そういってまるで優しく包むような曲を弾いてくれた。私は鷹藤さんの演奏を聴きながらひとしきり泣いた。けれど気持ちがはれることはなかった。
「今日はありがとうございました。遅くまですみません」
気づけば夜中の零時を過ぎてしまっていた。
「またいつでもおいで。お酒とピアノだけはあるから」
「それじゃあまるでピアノバーみたいですね」
「あはは、違いない。ヴェガも絢香の事気に入ったみたいだし、来てくれたら喜ぶよ、な」
「ワン」とヴェガが鳴き、鷹藤さんは慌てて玄関のドアを閉める。
「今日はありがとうございました」
頭を下げ、到着したエレベーターに乗り込もうとすると、鷹藤さんが乗り込んでくる。
「送っていくよ」
「大丈夫ですよ、同じ建物内ですし」
「うん。でも心配だから」
断る必要もない気がして私は鷹藤さんの厚意に甘えることにした。
「じゃあ、お願いします」
エレベーターの中で、鷹藤さんは今制作中のアルバムがあるのだと話してくれた。
「曲選びに悩んでてさ、絢香の意見聞かせてよ」
「私なんかじゃ分かりませんて」
流行りの曲すら疎い私に鷹藤さんのアルバムの曲を選ぶお手伝いなんてできるはずがない。すると鷹藤さんは首を左右に振る。
「違うんだ、分からないからいいんだよ。たくさんの人に聴いてもらいたいからこそ、音楽に精通している人たちばかりで決めたらいけないと思ってる。絢香のように素直な感性の持ち主が僕には必要なんだから」
「私でよければ、ぜひ」
「ありがとう、よろしくね」
そうこうしているうちに部屋の前まで来てしまった。バッグから鍵を取り出す。
「じゃあ、また。おやすみなさい」
そう言って鍵穴に差し込もうとした瞬間、ドアが開いた。
「絢香、こんなに遅くまでどこへ行って……」
中から出てきたのは仕事で帰宅しているはずのない先生だった。先生は鷹藤さんの姿に気付き眉を顰めた。
「どちら様?」
「あのね、この人は……」
慌てて説明しようとすると先生は私の言葉を遮った。
「絢香に聞いてない。あなた誰ですか? 人の彼女をこんな時間まで連れまわして」
先生は怒りの矛先を鷹藤さんに向けている。
でも、彼はなにも悪くないし、むしろ感謝して欲しいくらいだ。
ほぼ初対面の私の誕生日を一緒に過ごしてくれたのだから。
「もう誰だっていいでしょ! 正臣には関係ないし」
「関係ないわけないだろ。こいつがだれかくらい聞いたって罰は当たらねえと思うけどな!」
まるで獲物に襲い掛かろうとしている熊のように見える。私は二人の間に割って入ろうとする。けれど鷹藤さんは私の肩をそっと掴んでそれを制した。
「申し遅れました。僕は鷹藤琉加と申します。上の階に住んでいて、以前体調を崩したときに絢香さんに助けていただいたんです。それで今日はそのお礼を兼ねて部屋にお招きしました」
鷹藤さんはそういうと私に向かって残りと微笑む。私は瞬時に凍り付いた。
確かに彼の言ったことは事実だ。
けれど、今の先生には本当のことなんて言わなくてもいいことだってわかるはずだ。旨い嘘をついてくれると思っていたのに火に油を注いでどうするつもりなんだろう。
「……招き入れただと?」
案の定先生は怒りでわなわなと震えている。けれど鷹藤さんは顔色一つ変えずに先生を見つめている。好戦的ともとれる表情だ。
どちらも引かないつもりなら私が話すしかないだろう。
「あのね、正臣」
「お前は黙ってろ」
「ううん、黙らない。だって私が押しかけていったんだもん。だから鷹藤さんはなにも悪くないの。むしろ、こんなことになって迷惑かけてしまった感じ」
「本当か? でもなんで男の家になんていったんだよ、絢香」
「それは絢香の――」
そう言いかけた鷹藤さんに自分で言葉を重ねた。
「誕生日だったの。……昨日私の誕生日だったんだよ」
「えっ……」
「料理もケーキも食べ切れないと思ったから鷹藤さんに食べてもらおうと思って持って行ったの!! 鷹藤さんはなにも悪くない」
そう彼はなにも悪くない。むしろ私を寂しい気持を忘れさせてくれた。
「だからって男の家に上がり込むのかよ」
「……だったら正臣が帰ってきてくれたらよかったじゃん。仕事仕事で私の誕生日も忘れちゃったくせになにいってんの? そんなに仕事が好きなら仕事と付き合えばいいと思う!」
そうすれば誰も傷つかなくていい。先生だって責められる必要もないし、私だって寂しい気持ちに押しつぶされることもない。
先生の表情からはどんどんと怒りの表情が消えていき、うなだれるように肩を落とす。
「……んで。なんでそんなこと言うんだよ。俺は絢香のこと愛してるのに……」
「どう信じればいいの?」
「こっちへこい!」
そういうと先生は私の腕を掴んで部屋の中へ引き入れた。
玄関のカギをかけ、そこに私の背中を押し付けると強引に唇を重ねてくる。
無造作にスカートをたくし上げてショーツ指をひっかける。こんな風に体を求められて愛情を感じられる女性がいるんだろうか。
「絢香、愛してる」
先生の言葉だけが薄暗い廊下に響いて、私はまるで抜け殻みたいな体で先生を受け入れていた。
***
「この間はごめんなさい。鷹藤さんのこと巻きこんでしまって……」
仕事帰りに立ち寄ったバーでたまたま居合わせた鷹藤さんに私はあの夜の日のことを謝罪した。
彼は静かに首を横に振ると私をじっと見つめてくる。目元にかかる綺麗な髪が彼の色気を引き立てていてたまらずに視線をテーブルに落とす。
「あ、あの。私の顔になにかついてますか?」
もしここが照明の暗いバーでなかったら頬が紅潮していることがバレてしまうだろう。
「ううん、そうじゃなくて。絢香の顔をみる限りでは仲直りしたわけじゃなさそうだけど、正解?」
「……実は、そうなんです」
あんなことがあってさすがに仕事をセーブしてくれるのかと思いきや、同僚医師の当直を替わったりしてほとんど家に帰ってきてくれなくなった。
避けられている、のだろう。
「別れちゃえば?」
「……え?」
「僕なら絢香に悲しい思いなんてさせないんだけどな」
「……僕なら?」
それって、僕と付き合ったらってこと?それとも、単に自分なら悲しませないってだけ?
私は鷹藤さんの方を見た。
けれど言葉の真意なんて読み取れるはずもなく、彼の綺麗な横顔を盗み見ただけで終わってしまった。
「なに?」
「ううん、なんでもないです」
「あ、そうだ。絢香に元気の出る曲でもプレゼントしようかな……ねえマスター、いい?」
マスターが頷くのを待ってから立ち上がり、鷹藤さんは壁際にあるアップライトピアノの椅子に腰を下ろす。
そっとピアノのふたを持ち上げると同時にマスターは店のBGMの音を下げた。
客の数名は彼のことを知っているのだろう。会話を中断して体ごとピアノの方へ向けたり、スマホを掲げる人もいた。
始まりは静かなバラード。やがてアップテンポの曲に代わり店の中は即席のコンサートホールとなる。
鷹藤琉加のライブチケットはなかなか取れないそうなのでここに居合わせた人はとても幸運だ。もちろん私も。
やがて彼の演奏を聞きつけてか、小さなバーには人がどんどんと流れ込んでくる。ふと見ると先ほどまでのんびりとグラスを拭いていたマスターも接客に追われていた。
私は鷹藤さんの演奏に耳を傾けながら飲みかけのマティーニに口を付ける。
「おいしい……」
なんて素敵な夜だろう。家に帰ればひとりぼっちで寂しさを募らせていたに違いない。
不意に目が合った。すると鷹藤さんは私を呼んだ。
「おいで、絢香」
みんなの視線が集まる。戸惑っているともう一度名前を呼ばれた。私は人をかき分けるようにして鷹藤さんのそばに立つ。
「座って」
鷹藤さんはそう言って椅子の端に座りなおし、戸惑う私の腕を引っ張って隣に座らせた。
それから私の耳元で「新曲だよ」と言って鍵盤を弾く。まるで、曇った心を晴れやかにしてくれる、まるで初夏の太陽のような曲だった。
「どうだった?」
「とても素敵で、不思議と元気が出ました」
「よかった。絢香は笑ってた方がいいよ」
アンコールが沸き起こる中、私と鷹藤さんは店を出た。支払いはチャラでいいとマスターが言ってくれた。
酔っているせいか、高揚した気持ちでマンションまで帰る。
「今日はありがとうございました。素敵な曲でした。早くリリースされないかな」
「ハハ、気に入ってくれたんだね。嬉しいよ」
一緒にエレベーターに乗り込んで、私は途中の階で降りる。
「じゃあ、また。おやすみ」
「はい。おやすみなさい」
美味しいお酒と、素敵な曲。あんなに贅沢な時間を過ごすことができてとてもいい夜だった。
鼻歌交じりで部屋のドアを開ける。
暗い廊下を進んでリビングの明かりをつけると、ソファーに座る先生の背中を見つけて息が止まりそうになる。
「ヒッ……ビックリした……。帰ってるなら灯りくらい付けたら」
先生はゆっくりと私を見て「飲んできたのか?」といった。
「うん。だって、今日も正臣は帰ってこないかと思ったから……」
「……そうか。またあいつと一緒だったのか?」
「だったら何?」
ひとりで居たくないから飲みに出かけた。鷹藤さんとはたまたま会っただけだし責められるようなことはしていない。
真っ直ぐに彼を見つめた。すると先生は嘆息するとゆっくりと立ち上がる。
「……絢香は俺の女だろ?」
「そうだよ。そう思うならもっと一緒にいてよ。私の事縛り付けるくらい側にいてよ。私だって寂しいんだよ」
「分かってる」
「だったら……」
「ごめん」
「なんで謝るの?」
「情けない男だなって思ってさ。俺不器用だから、仕事もプライベートも両方上手く回せないんだよ」
大きな先生が急に小さく見えた。だから思わず、
「別れた方がいいのかもね」
そう口にしてしまった。でもこれは本心ではなかったのかもしれない。その証拠に、次の瞬間私はとてつもない後悔の念に苛まれることになる。
「……そうだな。絢香がそうしたいんなら、別れよう」
信じられなかった。先生が別れを選ぶなんていちミリも考えていなかった。
私は心のどこかで、別れなくて済むような努力を先生がしてくれるんだろうと考えていたのだと思う。
コメント
1件
もうもうもう!!!!!😭💕 第6話、胸がぎゅうぎゅうする展開すぎて読んでる間ずっとソワソワしちゃったよ……!! 絢香の“別れよう”に先生がすんなり乗っちゃったシーン、まじで心臓止まるかと思った……でも、それまでのすれ違いが積もり積もってたから、自然な流れというか、納得しつつも切なすぎて泣ける……😭 鷹藤さんの新曲プレゼント、あそこめっちゃエモかった!「おいで、絢香」って呼んで、隣に座らせて弾くピアノ……完全にヒロイン待遇じゃん!?もうキュンが止まらんかった……✨ 続き、どうなっちゃうの!?絢香はこれからどうするんだろう……鷹藤さんとの距離、もっと縮まったりするのかな??次話が待ち遠しすぎるよ……🌸