テラーノベル
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#ファンタジー
#ダーク
小一時間ほど急な獣道を登り続け、鬱蒼とした木々のアーチを抜けたとき、唐突に世界を取り巻く空気の色が変わった。それは吹き抜ける風の匂いの変化でも、単なる光の強さでもない。視界を四方から圧迫していた分厚い森のベールがふいに解け落ち、空間そのものが一気に外側へと解放されたことによる、圧倒的な感覚の広がりだった。
振り返れば、つい先ほどまで自分たちを飲み込んでいた、濃く重なり合う緑の影が横たわっている。だが、一歩前へ踏み出せば、そこにはどこまでも高く澄み切った秋の空があり、薄く引き伸ばされた雲があり、遥か彼方まで連なる丘陵の起伏が、昼下がりの柔らかな陽光を受けて静かに波打っていた。
視界の果てまで、なだらかな尾根が続いている。足元の背の高い草はすでに夏の瑞々しい勢いを失い、ところどころが金色に乾きはじめており、踏みしめるたびにカサリと軽く鳴いた。下から吹き抜けてくる風がその乾いた穂先を一斉に撫でていくたび、丘全体にさざ波のような美しい揺れが広がっていく。
ソラスは思わず足を止めた。
この世界に、こんなにも広大で美しい景色が存在していたことを、すっかり忘れてしまっていたような気がした。いや、三百年という途方もない旅の記憶の中では確かに知っていたはずなのに、まるで生まれて初めて見る景色のように、新鮮な驚きを持って胸に迫ってくる。
張り詰めていた胸の奥に、ゆるやかで透明な静けさが満ちていく。あの昏い森の中で、あれほど濃密に渦巻いていた血と殺意の気配が、嘘のように遠い。世界は、誰の思惑も悲劇も関係なく、ただそこに在るだけで、こんなにも美しいのだと。
「……綺麗」
無意識のうちに小さくこぼれ落ちた感嘆の声に、数歩先を歩いていたユスティナが振り返る。
「疲れたか」
相変わらずのぶっきらぼうな言い方だったが、彼女の歩幅は、ソラスを急かさないように自然と緩められていた。ソラスは、柔らかく首を横に振る。
「ううん。ただ、少し……この景色を見ていたくなって」
その言葉に、ユスティナは何も返さず、再び前を向いた。ただ、歩く速さをほんのわずかだけ落とし、ソラスの歩調に合わせてくれた。
黄金のさざ波が立つ尾根を少し進むと、風化した岩肌が露出した一角が現れた。草に囲まれたその場所だけが、白く乾いた石の舞台のように突き出している。アルベルトが言っていた休息の岩場だと、すぐに分かった。
四方から心地よい風がよく通る場所だった。眼下を見下ろせば、自分たちを拒み、そして守ってくれた森が、巨大な緑の海のように広がっている。そのさらに向こうには、箱庭のように小さくなった村の屋根が点在しているのが見えた。遥か遠くには淡く霞んだ山並みが幾重にも連なり、空との境界線を曖昧に溶かしている。
ユスティナが無言のまま、手頃な岩に腰を下ろす。ソラスもその隣にゆっくりと座った。白い石はひんやりとしていて、魔力の酷使で火照りきった身体に心地よかった。吹き抜ける尾根の風が、汗と泥に塗れた髪を乾かし、火照った頬をひどく優しく撫でていく。
しばらくの間、ふたりとも何も言葉を交わさなかった。ただ、眼下に広がる圧倒的な景色を静かに見下ろし続ける。
ソラスは、浅く乱れていた自分の呼吸が、ひどくゆっくりと整っていくのを感じていた。胸の奥でまだわずかに疼いている傷の痛みも、魔力酔いの名残も、秋の風に溶けるように少しずつ和らいでいく。
「世界って……こんなに、澄んでいたんだ」
あの暗い森の中にいた時間が、永遠のように長く、ひどく閉鎖的なものだったように思える。あの濃い緑の奥底で、世界はもっと狭く、血の匂いに塗れた息苦しい場所になっていた。
だが、今は違う。見上げる空がある。遥か遠くまで見渡せる光がある。たったそれだけのことで、自分がどれほど深い絶望の中で息を詰めていたのかが、痛いほど分かった。
ふと視線を落とすと、眼下に森の境界が見えた。自分たちがつい先ほど抜け出してきた場所だ。上から見下ろす木々は何事もなかったかのように静かに立ち並び、ただのありふれた森にしか見えない。だが、ソラスには、あの葉群の奥底に沈殿している途方もない時間と記憶、そして、自分を生かしてくれた大いなる沈黙の意志が、確かに感じられた。
ありがとう、と心の中で静かに呟く。それは森を従える主としての命令でも、すがるような願いでもなく、ただ純粋な世界に対する感謝だった。
隣で、ユスティナが短く息を吐いた。
「ここから先は見通しがいい分、隠れ場所が少ない。少し休んだら一気に下るぞ」
戦士としての的確な判断に、ソラスは静かに頷く。
と、その時。岩場のすぐ脇から、かすかな水音が耳に届いた。耳を澄ませば、風の音に紛れるほど細いその響きは、チョロチョロと途切れることなく続いている。白い岩の裂け目に沿って、透明な水が脈打つように静かに湧き出し、細い筋となって下の窪みへと流れ落ちていた。ユスティナが先に気づき、素早く腰を上げる。
「水だ」
短く言って、岩の縁にしゃがみ込んだ。ソラスもゆっくりと立ち上がり、その隣へ歩み寄る。覗き込むと、石の窪みに溜まった清水が、午後の陽光を受けてキラキラと淡く揺れていた。底に沈んだ色の違う小石が、全く歪みなく見えるほどに澄み切っている。森の奥の、あの泥と血に塗れた淀んだ水溜りとはまるで違う。冷たく、軽く、どこか硬質な印象さえ受ける、純度の高い岩清水だった。
ソラスは両手を差し出し、小さな掌で水をすくった。指先に触れた瞬間、はっとするほどの鋭い冷たさが走る。だがそれは、氷の魔法のような刺すような冷気ではなく、身体の芯に溜まった熱を静かに奪っていく、命の冷たさだった。そのまま震える手で口元へ運ぶ。冷たい液体が土でひび割れた唇に触れ、乾ききった喉を通り、胸の最奥へと落ちる。
ごくり、と。
自分の内側で水が鳴る音がした。身体の泥濘が、ひどくゆっくりと洗い流されていくような清涼な感覚。極限まで張り詰めていた死への恐怖や罪悪感が、清らかな水と一緒に胃の腑へとほどけていく。
思わず、深く目を閉じた。
尾根の風が銀色の髪を揺らす。岩肌に当たる細い水の音が、すぐ耳元で規則正しく続いている。たったそれだけの、自然の営みのはずなのに。ソラスは今、自分がひどく深く、絶対的な静寂と安寧に包まれている気がした。
「……おいしい」
自然にこぼれ落ちたその言葉に、ユスティナがちらりと横目を向ける。
「ただの水だ」
そう素っ気なく言いながら、彼女も同じように手ですくって喉を鳴らす。飲み終えたあとにこぼれたわずかな吐息には、彼女の言葉とは裏腹の、深い安堵の色が確かに滲んでいた。
ソラスはもう一度、清水をすくった。指の隙間から零れ落ちる透明な滴が、光を弾いて白い岩に散る。その一粒一粒のきらめきが、やけに鮮やかに、生命力に満ちて見えた。
――生きてる。
ふいに、そんな生々しい実感が、空っぽになっていた胸の奥底に満ちてくる。狂気に満ちた戦いも、血を吐くような逃走も、頭蓋を割るような四百年前の記憶の奔流も。そのすべてが一時的に遠くへ押しやられ、ただ今、ここには、生身の自分の身体と、冷たい水と、風だけがある。
それだけの、極めてシンプルで美しい世界。湧き水で喉を潤すという、生き物としてあまりに当たり前の行為が、今の彼女にはひどく尊く、奇跡のようなものに感じられた。
ソラスは両手に残った冷たい水を、泥に汚れた顔にそっと当てた。清らかな冷たさが熱を持った頬を伝い、ひどく優しく熱を奪っていく。目を開けると、視界の霞みが少しだけ晴れて澄み渡っていた。岩場を吹き抜ける風が、新鮮な水の匂いを運んでくる。金色に乾いた草の香りと混ざり合い、それが秋の始まりを静かに、しかし確かな手触りをもって告げていた。
死線と死線の間に与えられた、束の間の休息。風に揺れる草の海が鳴る音が、静かに耳に届く。遠くの空で名も知らぬ鳥が短く鳴き、その響きがまた、どこまでも澄んだ大気の中に溶けていく。
ソラスは、遥か遠くの地平線を見つめ、静かに目を細めた。
世界はこんなにも穏やかで美しく、そして――個人の悲劇などお構いなしに、容赦なくどこまでも続いている。巨大な流れの中で自分もまた、こうして確かに呼吸をし、生きているのだ。それが何故かとても不思議で、そして、どうしようもなく嬉しかった。
岩場を離れる時、ソラスは名残惜しそうに、もう一度だけ背後を振り返った。白く乾いた石の舞台と、その脇を縫って落ちる細い清水の筋は、何事もなかったかのように静まり返っている。つい先ほどまであの場所に身を預け、命の冷たさを味わっていた自分が、すでにひどく遠い幻の中にいるように感じられた。
ユスティナが無言で先に立ち、歩き出す。なだらかだった尾根は徐々に下り勾配へと変わり、足元を撫でていた黄金の草は、少しずつ背の低い青草へと姿を変えていく。吹き抜ける風は相変わらず心地よく通り抜け、彼女たちの髪と破れた外套を後ろへと引いた。
視界の端で、眼下に広がっていた緑の海がゆっくりと迫ってくる。先ほどまで遥か下に見下ろしていた濃い緑の天蓋が、下るにつれて徐々に視線の高さへと戻ってくるのが分かる。木々の先端が風に揺れ、その向こう側に細く覗いていた空の面積が、少しずつ削り取られていく。
ソラスは歩みを進めながら、世界と森との境界線を静かに見つめていた。森の底で過ごした時間が、まるで遠い昔の夢のように感じられる。あれほど濃密で、血と魔力にまみれた重苦しい気配が、今はただの美しい自然の景色の一部として横たわっている。
「……同じ、森なのに」
胸の奥底に、ひどく不思議な感覚が残る。あの暗がりの中で自分は残酷な記憶を取り戻し、失われていた絶大な力を取り戻し、そして何より――自らの意志で”守る”という選択を取り戻した。それでも、森は何も変わらず、ただそこに在り続けている。まるで、世界に存在する悲劇や決断など、最初から何も起きなかったかのように。
尾根を完全に下りきると、踏み固められた細い道が足元に現れた。獣や山に入る少数の人間が行き来することで、長い年月をかけて自然に形作られた古い狩猟道だった。両側から鬱蒼とした木々が迫り、開けていた視界は一気に狭く、暗くなる。固く締まった土の表面には、雨風に晒されて風化した古い足跡がいくつも残っていた。ユスティナがふと足を止め、鋭い視線で周囲の気配を一瞥する。
「……ここからは、一本道だ」
低く告げられた警戒の声に、ソラスは静かに頷いた。先ほどまでの開けた尾根の風景とは違い、ここではあらゆる音が分厚い葉群に吸い込まれていくような、特有の重い静けさがある。風の通り道は塞がれ、代わりにカサカサという細かな葉擦れの音だけが、耳元にねっとりと張り付いて残る。
数歩、薄暗い道を進む。その時だった。
前方を歩いていたユスティナの歩みが、唐突に、ぴたりと止まった。彼女の背中から発せられた異様な緊張感に当てられ、ソラスもつられたように足を止める。細い獣道のその先。薄暗い木々の間に、ひとつの影が音もなく立っていた。
――人影だった。
背の高い重厚な鎧姿の男。一本道である狩猟道を完全に塞ぐようにして、ただ静かに、岩のように佇んでいる。距離はそれほど遠くない。だが、互いの細かな表情までは読み取れない程度の距離。その絶妙で曖昧な間合いが、かえってこの状況の現実味を薄れさせ、不気味なほどの静謐さを生み出していた。
森の風が微かに吹き抜ける。頭上の木々の葉がざわめき、斑な木漏れ日がちらちらと明滅する。その光の合間に、影の男の輪郭が、ゆっくりと、しかし残酷なほどはっきりと浮かび上がった。漆黒の髪を後ろへ流し、塵一つなく整えられた白銀の鎧に身を包み、腰には長剣を帯びている。ただそこに立っているだけだというのに、その立ち姿には、いかなる奇襲も通じないような微塵の隙も存在しない。
ソラスの胸の奥で、心臓が警鐘のように小さく鳴った。知っている、と。彼女の魂の直感が、冷たい汗とともに告げていた。ユスティナは、無言のまま腰の剣に手をかけ、ソラスを完全に庇うように半歩だけ前に出る。
その油断ない動きに呼応するように、影の男がわずかに視線を動かした。彫刻のように整った顔を、ゆっくりと上げる。冷徹なアンバーの瞳が、一切の感情を排した深淵のような静けさで、真っ直ぐにこちらを見据えていた。
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