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「また太った?」
次の休みの日、実に半年ぶりに実家に姿を見せた、30歳の娘に対して、70歳になったばかりの母は眉間に皺を寄せた。
「そう?体重も服のサイズも変わってないけど」
嘘だ。服のサイズが変わったのは、先日明らかになった。
体重の方は怖くて計っていない。
そもそも眞美のアパートにある電子体重計は動くのだろうか。もう何年も触っていないからわからない。
「それとも、体型が変わったのかしらね。何か、野暮ったくなってる」
せっかく来た娘に笑顔も向けずに集中攻撃だ。
苦笑しながら無意識にカーディガンの前を留める。
「せっかく紅葉が美しい季節なのに、そんな真っ黒のカーディガンで体型を隠すしかないなんて、悲しいわね」
母はもうこちらを見ずに奥に入ってしまう。
トン。トン。トン。ギシッ。
杖先のゴムがフローリングを軋ませる。
彼女の右手には花柄の四点杖が握られている。
母がリウマチを発症したのは、眞美を生んですぐのことだったという。
初期症状は、指の強ばり、そして膝の関節痛。
それに続いて腕と膝の変形。
たちまち指は動かせなくなり、膝も痛みと変形が強く、杖がないと短距離もままならなくなった。
今はなんとか投薬で、病気による間接破壊のスピードを遅らせているが、それでも一人での生活はだんだん大変になってきている。
近い将来、自分がこの家に戻り、母を支えなければいけなくなるだろう。
でもそれにはーーー。
「ところで、約束、覚えてる?」
リビングのソファに座って、やっと一息ついたところで、向かい側に座った母が、紅茶のポットを緩く回しながらこちらを見る。
(やっぱりきたか)
「約束?」
心の中でため息をつきつつ、一旦はとぼけて見せる。
「そうよ。私が70歳。あんたが30歳になっても、めぼしい相手がいなかったら、私が選んだ婚活パーティーに参加するっていう約束」
ポットを脇に置き、その傍にタイマーを設置すると、母はこちらの答えも聞かずに、傍らに置いてあったバックを引き寄せ、中からパンフレットを取り出した。
「はい、これ、来週だからね。来週の日曜日。場所は駅前のホテルね。それとこれ、買っといたから」
ネットで買ったらしい、花柄のワンピースも取り出してその上に置く。
ふわっとしたAライン。ハイウエスト。
色も落ち着いた花柄で上品だ。
やはり母のセンスは悪くない。
これに黒か、濃いめの茶色のカーディガンを合わせたら、体型もカバーできるかもしれない。
(いや、そうじゃない。婚活パーティーなんて行きたくないとはっきり言わなきゃ)
「お母さん、私………」
「行くわよね。約束したもんね」
母は、70歳にしては張りのある、美しい顔で、ばっちりビューラーもマスカラも施した存在感のある二つの目で眞美を睨む。
25歳頃に適当に約束を交わした自分を恨めしく思う。
あの時は5年もあればなんとかなると思っていた。
太った体型も。
荒れた肌も。
艶のない髪の毛も。
男運のない人生も。
「私は、40歳であなたを産んだ」
母が目を落として話し始めた。またこの話だ。
「相手は私が生涯でただ一人愛した人」
ーーー気持ち悪いんだけど。親のそういう話。
「その人との子供がどうしても欲しかった。たとえ何を犠牲にしても」
ーーー主に犠牲になっているのは私なんだけど。
「親に勘当され、あなたを産んだ」
ーーーそのせいで私には、お父さんも、お祖父ちゃんも、お祖母ちゃんも、いないんでしょ。父の日、敬老の日で私がどんなにみじめな思いをしたか、わかってないんだから。
「40歳で出産。42歳でリウマチ発症。それでもあなたを必死に育ててきた」
ーーー感謝してるよ。だから誕生日プレゼントだって送るし、小言を言われるのをわかっていながら、こうやって訪ねてきてるんじゃない。
「はっきり言うとね」
母の鋭い目が眞美を見詰める。
ーーーわかるよ。これから病気を背負いながら年老いていく自分のそばにいてほしいんでしょ?ある程度の収入のある旦那を見つけ、私には仕事を辞めて、そばで支えてほしいんでしょ。
ーーーそうしてあげたいよ。できるなら。でもーー。
「私、あなたが結婚するのを見届けてから死にたい。それだけなのよ」
————え。
何言ってんの。たかがリウマチで。いるから、そんなのたくさん。
70歳でしょ。若いから、まだまだ。
笑いたいのに。
笑い飛ばしたいのに。
言葉が出てこない。
「いないの?いい人」
母が、切なそうな顔で、こちらを見つめてくる。
『いてよ。良い人。私だって、あんたに婚活パーティーなんて、参加してもらいたくないのよ』
心の声が聞こえてくる。
私は5年間、何をしていたんだろう。
好きなだけ食べて、好きなだけ飲んで、ゴロゴロゴロゴロ乙女ゲー攻略に励んで。
母のことも、自分のことも考えずに。
「ねえ、いないの」
母の眼に涙が溜まってくる。
まずい。このままだと、自分も泣きそうだ。
「いないことも、ないけど?」
気づくと言葉を発していた。
「なんだ、いるの?」
まだ半信半疑の母がこちらを覗き込む。
「まだ、付き合って、ちょっとしか経ってないけど」
「どんな人?」
「———会社の人で、同い年で」
「うん」
「いい人よ」
母は今度はバックの中から、小さな紙を取り出した。
「ちょうどよかった。私、知り合いから水族館のオープンチケット貰ったの。もしよかったら、その彼、誘ってみたら?」
受け取る。
県北に最近できた水族館だ。
こんなオープンチケット、配られるわけないし、母にそんなチケットをくれる知り合いもいない。
黙って目を、母に戻す。
「誘ってみて?今電話で。もしダメならチケット勿体ないから、他にあげるわ」
母も、本気だ。
まずい。
どうしよう。
でも誰かに電話をかけないと、母は納得しない。
電話帳をスクロールする。
まず会社の人間で番号を知っている人間が数えるくらいしかいない。その上男なんてーーー。
一度「わ」までいって、また上に戻る。
やっぱり上から下まで見ても一人しかいない。
『綾瀬 海斗』
この男しか。
呼び出しコールが鳴る。
1回、2回、3回、
ーーーお願いだから。
4回、5回、
ーーー出るな。
「はい、綾瀬です」
母の希望でスピーカーに切り替えたスマートフォンから、広いリビングに綾瀬の高い声が響く。
「ーーーあ、私。お疲れ様」
しょうがなく言うと、
「あ、お疲れ様です」
社内で聞くのと寸分も変わらない明るい声が響く。
もうこうなったらヤケクソだ。
バレたらバレたでしょうがない。もう覚悟を決めるしかない。
「あのね、今、実家に来てて」
「———はい?」
綾瀬の声が曇る。そりゃあそうだ。会社の同僚から急に休みに電話がかかってきて、こんなこと言われたら。
「水族館のチケットをもらったんだけど」
「ーーーは、い?」
綾瀬の頭の上にたくさん浮かんでいるだろうクエスチョンマークが手に取るようにわかる。
「い、一緒に行かない?」
「ーーーーーー」
沈黙が走る。
そりゃそうだ。
母もこちらを見ずにテーブルの一角を見ながら耳を澄ませている。
ーーーとんだ、茶番だ。
急に馬鹿らしくなった。
もういい。
正直に母には言おう。
婚活パーティーでもなんでも参加しよう。
この素敵なワンピースを着て。
忘れずに黒いカーディガンも羽織って。
それでうまくいかなかったら何度でも。
母が安心できる相手を探しに行こう。
「いいんですか?」
切ろうとしたスマートフォンから声が響いた。
「ーーーは?」
「俺、水族館、大好きなんですよ。やったね!」
綾瀬の飛び切り明るい声が、整理整頓された実家の広いリビングに響き渡った。