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「おはようございます」
次の日、白い光沢のあるストライプのシャツに、薄いグレーのカーディガンを羽織った綾瀬が出勤するなり、眞美はその細い体をバルコニーに引きずり出した。
「ど、どうしたんですか?」
いつもと寸分も変わらない艶やかな髪型で目を見開く綾瀬に、強制的にコーヒーを渡しながら、言う。
「昨日の電話、ごめんね。忘れてほしくて」
「へ?」
こんなの生き恥甚だしいが、言うしかない。
「年老いた親を安心させるためだったの。だから、無かったことにしていいから」
「あーーーー」
綾瀬は手に握らされたカップのコーヒーを一口飲み、言った。
「もしかして、俺、恋人のフリさせられたってことですか?」
さすが元営業。察しが良い。
「そう。ごめんね。電話に出るとは思わなくて」
半分本当で半分嘘だった。
休日の真昼間に年頃の男性が、デートもせずに同僚の、しかもどちらかといえば仲の良くない女からの電話に一発で出るとは思わなかった、というのと。
もう一つは、人当たりの良いこの男なら、もしかしたら断らないでいてくれるんじゃないかという淡い期待も確かにあった。
そしてその期待に彼は応えてくれたのだった。
「ーーーお母さん、おいくつですか?」
綾瀬がカップに唇をつけながら、上目遣いに見つめてくる。
そういうあざといポーズをしても様になるくらい可愛い顔をしているのが、癪に障る。
「70歳。あれ、言わなかったっけ?」
綾瀬はなおも眞美の顔を覗き込んで聞いた。
「お兄ちゃんか、お姉ちゃんいます?」
「いないけど。私、母が40歳の子で、一人娘なの」
(もういいでしょ。なんであんたにこんなこと話さなきゃいけないんだか)
「でもあなたには感謝してる。これで、首の皮一枚繋がったから。じゃあね」
言いながら踵を返そうとすると、
「ーーーー!」
後ろから手首を掴まれた。
「ーーー何?」
「つまり心配してくれたお母さんに、嘘ついたってことですか?」
「そうだけど?」
「お母さん、可愛そうですよ。それじゃあ」
「ーーー」
(何が言いたいの?)
「そんなんじゃ、数か月後、『そう言えば、水族館に一緒に行った彼氏とは順調?』とか聞かれますよ」
(わかってるわ、そんなの。)
「『あー、この間別れた』とか適当に嘘ついて。そういうのを繰り返すんですか」
「な………」
無表情で言葉を続ける同僚を見上げる。
掴まれた手首が痛い。
「それともそのうち、誰か王子様が迎えに来てくれると、本気で思っているんですか?」
(なんでーーー)
「いないですよ、王子様なんて。もし百歩譲っていたとしても、今の栗山さんのところに来ると思いますか」
(ここまでーーー)
「王子様だって、選りすぐりますよ、もちろん。綺麗で可愛くて、若くてスタイルのいいお姫様に飛びつくに決まってるじゃないですか」
(言われなきゃいけないの!!)
眞美は掴まれた手首を振り払って、綾瀬の顔を睨んだ。
「そんなの、あんたに言われなくてもわかってんの!ほっといて!!」
言うなり、バルコニーのドアを勢いよく引く。
と、そのドアが、もっと勢いよく閉じられた。
見上げると、華奢な綾瀬にしては大きな手が、硝子戸に張り付くように押し付けられている。
「ホント、イラつくわ」
(………え。何?今、何て言った……?)
おそるおそる、振り返る。
朝陽を背後から浴びて、綾瀬の顔がよく見えない。
しかしその見下ろす顔が、怒っているのだけはわかる。
「嘘はついちゃいけないんですよ?特にお母さんには。閻魔様に舌を抜かれたいんですか?」
低い声が上から降ってくる。
言ってる内容は幼いのに、顔は少しも笑っていない。
(こいつ、こんなに、背が高かったっけ…?)
全身に鳥肌が立つ。
「次の休み。楽しみにしてますね」
『やあ。今日は来てくれないのかと思ったよ』
マーキュリーは、広大な図書室で、今日も分厚い本を読んで待っていた。
『ーーーやはり。ここ数日、宇宙の波動がおかしくなってきている。コスモバーストが頻繁に起き、ブラックホールの形成や惑星系の分裂が起きている』
眼鏡を引き上げながら、何やら難しいことを言い出した恋人を、眞美は見上げた。
『これは、数百光年という短いサイクルで輪廻を繰り返し、また同じ時代が来ようとしている。つまりは宇宙の崩壊ということなんだけど』
何かしら、穏やかなじゃない状況に陥りつつあるのは、辛うじてわかる。
だけどーーー。
『気づいたからには、止めなければいけない。他の誰でもない、この俺が。
そしてそれには、同士を募っている時間がない。今すぐにいかなければ』
眼鏡を外した藍色の瞳が、眞美を見つめる。
『そんな悲しい顔をしないでくれよ。わかってくれ。これは、俺と君の未来のためでもあるんだ』
① 行かないで!
② 私も連れて行って!
③ わかったわ
「わかったわ————」眞美は頷く。
『ありがとう。でも、俺は案外弱い人間みたいだ。見て見ろよ。こんなに指も、身体も震えている。心の底では怖いみたいだ』
「マーキュリー…」
① 抱きしめる。
② 服を脱ぎ、温めてあげる。
③ その唇にキスをする
『―――――眞美?』
何も選ばずスマートホンを握りしめている眞美をマーキュリーが覗き込む。
『眞…………』
「やばい。土曜日、何着てこう」
眞美はスマートホンごと恋人をベッドに投げ捨てると、クローゼットを開け放った。
水族館なんて、行くのは実に10年ぶりだ。
世の女性たちは、皆どんな格好をしていくのだろう。
ダメージジーンズでカジュアルに?
ホットパンツでポップに?
ロングスカートで大人っぽく?
プリーツスカートでエレガントに?
「どれも持ってねーっつの」
クローゼットのハンガーには、チェックのチュニックが掛かっている。
1枚ではない。実に10枚以上はある。
赤、青、紺、グレー、緑…。色もなんでもござれ。
「はは。店開けるんじゃないの?これ」
クローゼットを閉じて壁のカレンダーを見る。
隣の市のファッションセンターで、「大きいサイズ」を物色したいところだが、今週は新車登録と所有権解除が立て込んでいるため、毎晩残業だ。
「大きいサイズ」専門のネットショップをサーフィンしてもいいが、届くまで数日かかるのと、届いた商品のサイズが合うかはわからない。
「どうしよう…」
絶望にも近い気持ちでもう一度クローゼットを開く。
チュニック、チュニック、チュニック、チュニック。
チェック、チェック、チェック、チェック。
チュニックが張り出た腹や、突き出たお尻をカバーしてくれるし、チェックが体のたるみを隠していくれる。
眞美はこの服が大好きだ。
意外と着回しもできるし、シーズンを選ばない。なおかつ着ていてみすぼらしくもなければ、妙に浮くこともない。
でもそれは、女友達と旅行に行く場合や、近場の少し大きいショッピングプラザに行く場合であって、車で何時間もかかるような遠方の水族館に、男と出掛けるときの服装ではない。
「はー」
思わずため息が出る。
(そもそもなんで私があんな奴と水族館に行かなきゃいけないのよ)
自分の体型への苛立ちは、都合よく矛先を変える。
(何が閻魔様よ。馬鹿にして。この期に及んでまた、勿体ないだの、脂肪燃焼だのほざいたら、本当に一人で帰ってきてやるんだから!)
怒りに任せて幾多の困難を共に乗り越えてきたチュニックたちをかき分ける。
「—————あ」
そこには数日前、母が自分にくれた、花柄のワンピースが、チュニックとチェックの間に挟まれて、控えめに掛けられていた。
「ま、まあ。一回も着ないの、勿体ないし?合わなかったら早めにメルカルにでも売らないと冬になっちゃうし?」
誰も聞いていないのに言い訳を呟きながら、眞美は部屋着を脱いだ。
ワンピースのファスナーを下ろし、上から切る。
裏地にも上質かものを使っているらしく、それは何のストレスもなく眞美の体の上を滑っていく。
腕を通す。
二の腕のところもゆったり作られており、袖も肘近くまでの長さで、しかも広がっていた。
背中のファスナーを上げ、首元のボタンを留める。
ハイウエストも締め付けるほどではなく、バストとウエストの境目でメリハリをつけてくれている。
(意外にいいかも…)
おそるおそる姿見鏡の前に立ってみる。
「おお……」
思わず自分で呟いてしまった。
そこには、ボンレスハムの如く制服に身体をやっとのこと包んでいる眞美も、それこそトドのように上下同じ部屋着をひっかけている眞美もいない。
可憐で、それでいて控えめで、上品で、なおかつ瑞々しい、大人の女性が立っていた。