テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
この物語はキャラクターの死や心の揺れを含む描写があります。読む際はご自身の心の状態にご配慮ください。
観測機関の廃墟を後にし、静寂が支配する古都タネクスを――ふたりは、また歩いていた。
イロハとレンは、風に削られた街の門の前に立っていた。朽ちた石造りのアーチには、もはや文字すら残っていない。
「観測機関……あれが本当に、私たちを見守っていた組織の成れの果てだなんて」
イロハはぬいぐるみを強く抱き締める。
イロハの声には、怒りでも悲しみでもなかった。ただ、冷えきった理解が滲んでいた。
レンが彼女の横顔を見つめ、問いかける。
「イロハ、お前……何か気づいたのか?」
「いえ、まだよく分かりません。ですが、私を消そうとしていることは明らかです。」
風が吹き抜け、タネクスの瓦礫を揺らす。
「そういえば、イロハのせいで観測機関が消滅するって言ってたな……一体どういうことなんだ……」
「……あの少女。リアスは、’’自分たちが存在する未来を選んでいるだけ’’と言った。……つまり、あの人たちは自分達に都合のいい未来を選んでいるってこと。本来あるべき未来が選ばれないことによって、世界は歪んでゆく。そして私は、’’未来を正す者’’。あの人たちにとってはきっと邪魔なだけ。
だから、私を消去するために“試作体”が作られた……その中には、私の“友達”もいた」
レンの顔が曇る。
「……フユリさんも、か」
イロハは小さく頷いた。
「……私が今言ったことは憶測に過ぎませんが、もしこれが本当だとするならーー」
そのときだった。
銃声。跳ねる火花。瓦礫の向こうから現れたのは、黒衣に身を包んだエージェントたちだった。全員が、まっすぐにイロハだけを見ている。
「目標確認。排除を開始する」
瞬間、無音の弾丸が空を裂いた。それがイロハの頬をかすめる。
だが彼女は微動だにしなかった。
彼女は白猫のぬいぐるみをそっと懐へしまい込む。その指先には、静かな決意が宿っていた。
「……命令で動く魂など、ここで断ち切ります」
イロハの足元から風が巻き起こる。蒼く光る剣が抜き放たれ、光のような軌跡を描いて舞う。
まるで重力さえ味方につけたかのような動きだった。跳躍、回転、そして一閃。次々と敵が無力化されていく。
ひとりが至近距離から弾を放つ――だが、その軌道を先読みしたかのように身をひねり、剣を逆手に構える。
「……終わりです」
その声とともに、敵の腕から武器がこぼれ落ちた。
冷徹なまでに無駄のない動き――だが、刃の奥には、わずかな“揺らぎ”があった。
イロハの目が、一瞬だけ震えた。
その迷いは、彼女自身がまだ“斬る”という行為に答えを見つけられていない証だった。
一方、レンもまた、別のエージェントと対峙していた。
他の者とは明らかに異なる、冷たい気配を纏った個体。レンは構えながら相手を見定める。
「……強いな」
「おめーもな」
刹那、レンの剣が閃いた。だが、確かに命中したはずの一撃が、すり抜ける。
(消えた……いや、“当たらなかったことにされた”!?)
相手は、未来の結果を“先に上書きする”術――因果律の操作を使っていた。
レンが攻撃すれば、その“結果”だけが消去され、なかったことになる。そして反動のように、逆に自分へ跳ね返る。
「……なるほど、俺と同じ能力を持ってんのか。だったら……」
(――上書きされる前に、こちらが“観測”する!)
次の瞬間、剣が青白く輝く。風が刃に宿る。
「……俺の因果は、守るためにある」
一閃。刃が未来の軌道を先取りし、歪みを裂く。
エージェントが呻いた。
「……くっ……!」
その動きが鈍った瞬間、イロハが剣を構え、静かに歩み出す。
「……あなたの魂、ここで終わりです。ゆっくり、眠ってください」
そう呟くと同時に、彼女は一切の迷いを捨て――剣を振り下ろした。
戦闘が終わると、廃墟には再び静寂が戻っていた。だがそれは、ただの音の無さではない。
胸の奥に沈殿する、重さを含んだ沈黙だった。
レンは倒れたエージェントたちを見つめ、静かに手を合わせた。
「……ごめんなさい。ゆっくり、眠ってくれ」
彼は、ただの人間だ。だからたとえ自分たちを脅かした相手でも、命を奪ってしまえば――胸の奥を、鈍い罪悪感が締めつける。
そして、そのたびに思い出す。
幼い頃、自分のせいで消えた人のことを。
「…このエージェントたち……全員、観測機関に雇われてたみたいだ。」
レンが膝をつき、倒れた敵の装備を調べる。そこに刻まれていたのは、錆びたアルファベット。
――「O.M.I.」
Observatorium Mechanica Infernalis。(観測所メカニカ・インフェルナリス)ーー異端の観測所。
観測機関の正式名称を示す略号。
「……異端の観測所……か。」
「やっぱり、観測機関は……私を追ってる」
イロハが呟く。
レンはもう一体の装備を探り、壊れかけた端末を取り出した。
「……壊れてる。けど、なんか反応してる――」
彼が画面に触れた瞬間、機械が軋む音を立てながら起動した。
やがて、表示された文字。
『《因果調整:起動条件一致》』
『試作体No.07 凪津フユリの記憶を再生しますか?』
「……フユリの、記憶?」
イロハの瞳が見開かれる。
その名は、彼女にとって“封じた傷”だった。
「再生……するか?」
レンが訊く。
イロハは目を伏せた。呼吸がわずかに浅くなる。
けれど、その瞳はやがて静かに前を見据えていた。
「ええ……フユリを、もう一度見届けなければ、私は進めない」
レンは頷き、指先で『Yes』を押した。
電子音が空間に響き、端末がゆっくりと光を放つ。
《試作体No.07――フユリ。記憶再生を開始します》
その光が、イロハの顔をやわらかく照らす。
そして彼女の胸に――静かに疼くような重みが、確かに残っていた。
――魂に刻まれた、あの傷跡に触れる時が来た。
光が、静かに空間を満たしていく。
淡い青白い輝きが、まるで水のように辺りを包み、イロハとレンの視界が揺らいだ。
まばたきをする間もなく、二人の立つ場所が変わる。
無音の研究室。無機質な白壁。床に散らばる薬瓶。壊れた端末。冷たい空気。
そして――その中央に、うずくまる、小さな羽を持った妖精が。
「……フユリ……」
イロハの声が、ほとんど掠れていた。震える唇から漏れ出たその名に、レンも目を細める。
その瞬間――
『記憶再生開始。』
端末に文字が浮かび上がった。刹那、空間が震え、世界が塗り替えられる。
記録が、流れ込む。
世界が反転し――その意識は、彼女の記憶へと沈み込んだ
あの日から、どれくらい時間が経ったんだろ……?
……眩しい。誰かの話し声が聞こえる。
わたしは……虚霊に呑まれて……すごく怖くて、でも……
――助かった、と思った。
観測者様が現れて、私を闇からすくい上げた。
私を連れて行ってくれた。そう思っていた。
でも。
でも、それは違った。
気がついたとき、わたしは……白く眩しい部屋で、拘束されていた。
『 ここ、どこ……?』
誰も声をかけてくれない。
その瞬間、電流が流される。脳が焼けるような感覚。体が跳ねる。泣き叫んでも、誰もやめてくれない。
『 いやっ……!くる……しい……!やめ、て!!』
苦しい。苦しい。苦しい。
これは……助かったんじゃなかったの?
どうして……こんなことに?
毎日、繰り返される実験。薬を打たれ、何かの反応を見るだけの存在。
ああ……死んじゃうのかな……わたし。
記憶が……ぼやけていく。
でも、わたしは絶対に――イロハのことだけは、忘れたくなかった。
あの髪の色。あの瞳。あの、森の風。優しかった手のぬくもり。
わたしの名を呼ぶ、静かな声。
でも。
ある日、観測機関の人たちの声が聞こえた。
『……おかしい。どうしてまだ自我を保っていられるんだ?』
『記憶だ。この試作体、記憶によって精神を維持している。』
『なら、記憶を抹消する。』
……え?
また電流が流された。前よりも、深く、鋭く。
あれぇ……?……今日は……いつもより……ずっと、痛い……な。
記憶が……こぼれていく……
イロハの顔……どんなだったっけ?
……白くて、綺麗な髪だった。優しかった。……それしか、思い出せない。
いや……忘れちゃダメ。
「また会おう」って言った。約束したんだから。
それがわたしの、心の支えだったのに。
忘れたら、わたしは……わたしじゃなくなる。
それでも、記憶は削られていった。
それでも――わたしは。
’’桜月イロハ’’という、本当は臆病で、でも誰よりも世界を想ってくれてる人の存在は、忘れることは無かった。
それに、イロハ。わたしにプレゼントしてくれたもんね。
桜の可愛い、髪飾り。
これがあれば、多分、忘れることは無い。
『……ダメだ。これは失敗作だ。記憶の消去が不完全だ。継承者との繋がりが邪魔をしている。』
『でも……この個体を切り捨てるのは惜しい。観測個体初の適合者です』
『なら――虚霊封印の監視役に使え。原発の座標は月見の森だ。』
『 どうしてそんなの封印したままなんですか。』
『 もし継承者がここに来た時に、原発の虚霊を利用するためだ。』
継承者……?イロハの、こと?
イロハ、今どうしてるかな……。
森に帰ってきた。
でも、もうそこに森はなかった。
焼け跡と、封印装置。それだけだった。
『……ああ、そっか。あの日、全部壊れたんだった。』
命じられた通り、私は原発の虚霊を見張る。
魂の中のどこかで分かってた。
ここでずっと待つことが、私に残された“最後の役目”だって。
でも、それでも……
「ここにいれば、イロハ、また会いに来てくれる……きっと。」
そう思いたかった。そう信じたかった。
約束したから。「また会おうね」って。
何千年でも待つ。何万回日が昇って沈んでも。
わたしの封印が、限界を迎える前に――
イロハが、来てくれる。
そうしたら……最後に、話せるかもしれないから。
笑って、会えるかもしれないから。
『記憶再生終了。』
そう表示された瞬間、端末の光がふっと消えた。
風が吹き抜けた。
崩れかけた壁、割れた端末、そして倒れたエージェントたち――元の場所に戻ってきた。
ただ静寂だけが降り積もる。
イロハはその場に立ち尽くしていた。
レンからもらったぬいぐるみを胸に抱き、何も言わずに、ただ目を閉じる。
「……私……」
ようやく零れた声は、震えていた。
けれど、それは涙ではなかった。
冷たい空気に逆らうように、彼女の呼吸だけが、静かに空間に満ちていく。
「私が……あのとき動けていたら、フユリは――」
唇を噛む。その先は言葉にならない。
レンが隣に立ち、そっと肩に手を添えた。
その手には、余計な言葉はなかった。ただ、そこにいるということだけが、確かだった。
「でも……あの子は、ずっと……覚えていてくれた」
イロハはぽつりと呟いた。
「何度も、記憶を消されかけて。それでも……私とのことだけは、忘れなかった」
どこか遠くを見るように。けれど確かに、何かを見据えるように。
「なら……私も、忘れない」
その声には、痛みと覚悟が滲んでいた。
「この苦しみも、あの子の孤独も、全部……この手に刻んでいく」
レンが静かに頷いた。
「……それが、あの子への救済になる」
イロハはそっと、ぬいぐるみを抱きしめ直す。
「フユリ。……必ず、また。」
どこかにいるその魂へ、届くように。
その瞬間、吹き込んだ風が、ふと香りを運んだ。
血のにおいしかなかったこの場所に、かすかな木の香りが混じる――錯覚かもしれない。
けれど、イロハは確かに感じた。遠く、誰かが祈っている気配を。
そして、彼女はようやく歩を進める。
誰かの手を借りるのではない、自分の足で。
その横に、レンもまた静かに歩き出した。
――世界はまだ、何も終わっていない。
だが彼らは、確かに進み始めた。
静寂を、越えていく。
第十の月夜「絆の決別、本来の自分」―見たくない、記憶―へ続く