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「美味しーーーい」
目の前で絞ってもらったバナナのフレッシュジュースは甘くて濃厚で、麗はテンションを上げてはしゃいだ。
「こっちも結構上手いから飲んでみろ」
明彦がミカンとレモンを絞ったジュースを渡してくれ一瞬受け取るのを躊躇った。
回し飲みは恋人同士がすることだと思ったからだ。
(あ、でも夫婦やん)
欲に負け、麗も明彦にバナナのジュースを渡し、交換して飲む。そもそも今朝だってあーんしてもらったのだ。
「おいし酸っぱい! やっぱり酸っぱい!!」
結婚する前はこんなことしなかった。
手ずから食べさせてくれたり、ジュースを共有したり、まるで普通のカップルがするようなことをしている。
「何だ、その表現」
明彦が麗と違って何の気負いもなさそうにバナナのジュース飲み、濃いなと言いながら笑う。
「さっき食べたホットドックみたいなやつも美味しかったし、台湾風おでんも、謎の串焼きもイケたから、行列に加わろう作戦は成功やったやろ?」
麗は満腹とともに明彦に勝利宣言をするも、明彦はやれやれわかっていないとばかりに首を振った。
「お前はまだシュウドウフの恐怖を知らない……」
どこのホラー映画の煽り文句かと聞きたくなるような台詞である。
「しゅうどうふ? 何それ? シスター?」
「臭い豆腐と書いて臭豆腐。前に昼飯を一緒に食べた取引相手の現地人はチォゥドォゥフゥーと発音していた」
「チォゥドォゥフゥー」
発音してみると何だか可愛い食べ物に思えるが、名に臭いとつく豆腐とはどんなものなのだろうか?
「ほんまに臭いの?」
「臭い。時々、夜市の中で強烈な匂いがするスポットがあったろ?あれは臭豆腐の屋台のせいだ」
「嘘やろ?」
確かに腐敗臭のようなものが匂う場所はあった。
(あの強烈な匂いが口に入るん?)
「間違いない。ただのビジネスランチで終わる筈だったのに、この店の臭豆腐は外国人でも食べやすいから是非にと勧めてきた取引先のあいつの顔とその時嗅いだ臭いは絶対に忘れない」
恐怖の過去思い出しているのか、明彦は眉を寄せている。
「あいつが日本に来たら、納豆工場の見学に連れていって、作り手が笑顔でもてなしてくれる工場内のレストランで、出来立ての風味豊かな納豆食べ放題でもてなすと俺は決めている」
麗は明彦の仕返し計画を聞いて、それは逆に仲良くやっているのではないか思ってしまった。
「結局、食べられへんかったんやろ?許してあげたら? 納豆は外国人には厳しいで」
麗は納豆が好きだ。毎朝一パック食べているくらいには。
しかし、客観的に考えると、納豆はネバネバした腐った大豆だ。慣れ親しんで来なかった外国人には厳しいものがあるのもわかる。
「いや、俺は臭豆腐を食べた。だから奴にも納豆を食べさせる」
(食べたんだ)
チャレンジ精神なのか負けず嫌いなのか。
「味はどやったん?」
「……そこそこ旨かった」
臭豆腐を認める事がよっぽど癪なのだろう。
明彦が小声で評価したので麗は笑ってしまった。
「なんや、美味しかったんや。それなら、私も食べてみたかったわ」
麗は残念なことにお腹がいっぱいだった。
「あれは一生に一度で充分」
美味しかったならまたチャレンジしたらいいじゃない。と言う麗と、もう一生遠慮しておく。と言う明彦で、言い合いながら歩いていると、ついに夜市の終わりの地点に着いた。
「そろそろ帰るか」
ちょうど目の前でタクシーも客待ちをしていて、乗らない理由はなかった。
「そうだね」
本当は、口には出さないが、この時間が終わってしまうことが寂しかったけれど。
タクシーに乗り込み、運転手に明彦がホテル名を告げる。
「色々あったけど夜市、すっごい楽しかったわ」
走り出したタクシーはビュンビュン進み、心地よい揺れをもたらしてくれる。
「俺も楽しかったよ」
「連れてきてくれてありがとう」
明彦が頭を撫でてくれる。昔から続く何時もの撫で方だ。
麗は、そういえば明彦が他の人の頭を撫でるところを見たことがないなと思った。
それは、麗が特別に可愛がられている証のようで……。
「麗、眠いのか?」
急に黙った麗を心配して明彦が顔を覗き込んでくる。
「ちょっとだけ……」
明彦がそっと肩を抱いてくれたので、麗は促されるまま、明彦の肩に顔を預けた。
優しくて、何だかでも寂しくて麗は目を閉じた。
ずっと知っていたけれど、やっぱり格好いいな。
さっきだって走ったのに息一つ乱していなかった。
髪は少し乱れていたけれど、それがまた男の色気が出ていて。
姉さんが帰ってきたらこの話をしよう。
それに、小籠包がどんなに美味しかったか、足つぼがどんなに痛かったか、展望台がどんなに高かったかも、全部姉さんに聞いてもらって……。
(あれ? どうして私、姉さんには秘密にしたいだなんて考えてるんだろ?)