「ねぇ、時也?」
午後の光が傾きはじめた裏庭に
アラインの軽やかな声が響いた。
「はい、なんでしょう?」
時也はその声に微かに振り返りながらも
手を止めることなく
足元に横たわる兵の両手首を
丁寧に縛り続けていた。
その手の動きに迷いは無く
だが、その表情には
濁った怒りが静かに沈殿している。
周囲には、完全武装の男たちが意識を失い
数人ずつ整列したように倒れている。
そのうち三人
指揮官を含む者たちを中心に
時也、ソーレン、アラインの三人は
黙々と拘束作業を進めていた。
「キミとアリアが〝始末〟した
コイツらのボス⋯⋯
精神系の異能だったんだろう?」
アラインは片膝を地につき
首をぐったりと垂らした男の腕を
無造作に掴みながら問う。
「⋯⋯はい。
相手を〝洗脳〟する類でありましたね。
だからこそ⋯⋯アリアさんは⋯⋯」
時也の声が、喉の奥で詰まる。
言葉を紡ごうとするたびに
胸の内から噴き出しそうになる激情を
唇を噛み締めて押し殺す。
その歯の食いしばりの音が
風の中でもはっきりと聴こえるほどだった。
アラインはその音を聞きながらも
あえて背を向けたまま作業を続けた。
だが、口元にはふっと笑みが浮かび
鋭利な意図を秘めた目が横目に時也を映す。
「キミの怒りは、よく解るよ?
きっとコイツらも
洗脳されて従わされてたんだろうねぇ?
自分の意思なんかじゃなくさ⋯⋯
だからって、殺すのは──
キミの性分じゃないよね?」
その言葉に、時也の手がピクリと止まり
結び終えた縄が必要以上に締まっていく。
気絶していた男のひとりが
縛られた手を痙攣させるように震わせ
小さく呻いた。
「⋯⋯ですが、このまま返しても⋯⋯
また、アリアさんが
狙われることになります⋯⋯
ならば、いっそ⋯⋯」
その先の言葉を言い切る前に
アラインが腰に手を当てながら
にこりと微笑む。
「それで、ボク考えたんだけどさ?
ライエルが〝ボクの中で蘇った〟ことで
〝ボクに宿った異能〟を使ってみるのは
どうかな?」
「⋯⋯ライエルさんの
記憶の異能を⋯⋯ですか?」
時也はゆっくりと立ち上がり
アラインを正面から見据えた。
その鳶色の瞳の奥には
かすかに警戒と期待が入り混じる。
「そう!
〝記憶を上書きする〟この異能⋯⋯
ねぇ、時也?
キミも試してみたいだろ?
どこまで上書きできるかってさ」
言葉の端が弾む。
まるで遊びの提案でもするような
無邪気さを装いながら
アラインは指先で倒れた男の額を
軽く撫でた。
「⋯⋯そう、ですね。
それで⋯⋯
なんと上書きするお心算なんです?」
時也の声は穏やかだった。
だが、ひとたび風が止まれば
空気の密度が変わったことに
誰もが気付くだろう。
彼の言葉は
静かなる断罪の序章であり
答えによっては刃となることもあった。
アラインはその鳶色の視線を受け止めたまま
ゆっくりと唇の端を吊り上げていった。
⸻
「⋯⋯は?今、なんと?」
時也の声音は柔らかいまま
しかし確かに一拍の静止を孕んでいた。
鳶色の瞳が細くなり
アラインに向けられた視線が
僅かに色を変える。
「だからさぁ」
アラインは倒れた兵の一人の頭を
コツンと小突きながら
屈託のない笑みを浮かべた。
「こいつらを〝ハンター集団〟だなんて
物騒な記憶のまま生かして返すのは
ちょっと⋯⋯いや、かなり危険だろ?
だから、記憶を上書きして
〝最初から慈善活動団体だった〟って
思い込ませればいい。
街の為に尽くしてると思えば
本人達も幸せになれると思わないかい?
うん、うん。ボクって優しいねぇ?」
何を言っているのかと
一瞬目を瞠りかけた時也だったが
ふと顎に指を添えて
考え込むように俯いた。
「⋯⋯慈善活動団体⋯⋯」
時也の表情には
困惑とも戸惑いともつかない感情が
浮かんでいた。
だが、それを無理に打ち消すこともせず
彼はその案の〝合理性〟に
確かに思考を向けていた。
(⋯⋯敵意を残したまま逃すより
無害な記憶にすり替える方が
よほど安全だ⋯⋯
だが⋯⋯それで本当に
アリアさんを護れるのか⋯⋯?)
深く潜るような思索の末
時也は再びアラインを見た。
その鳶色の眼差しは
まるで静かな湖面のように澄んでいたが
そこには
揺るぎない判断の重さが滲みはじめていた。
「そんでもってさぁ
その慈善活動団体の頭に
ライエルを置けば良いよ」
陽光が差し込む庭の片隅
縛り上げられた兵たちの影が
午後の光に伸びている中で
アラインの声は
いつも通りの軽やかな調子だった。
まるで
食後の珈琲の話でもしているかのように。
「⋯⋯ライエルさん、を?」
時也は小さく眉を動かしながらも
その声音に即座な拒絶の色はなかった。
アラインは膝を折って地面に座り込むと
背後に横たわる兵士の一人の拘束具を
指先で確かめる。
彼の横顔には
いつもの妖しげな笑みが滲んでいた。
「うん。
ほら、キミもボクの事⋯⋯
〝旧知の仲〟だし良く解ってるだろう?
ボクはさ、そんな
人前に出て旗を振る役じゃないんだよ。
バーのマスターで、せいぜい情報屋⋯⋯
そのくらいが身の丈に合ってる。
けど、ライエルなら違う。
中に彼が宿って知ったけど、彼はね⋯⋯
ほんとに正しさの塊みたいな男だ。
上手くやれると思うな。
ボクが裏から、しっかり支えてあげれば
良いだけの話だし?」
時也は返事をせず
ただ彼の言葉を静かに受け止めるように
頷いた。
その背筋は相変わらず真っ直ぐで
藍の着物の襷も几帳面に結ばれたまま
一切の崩れは無い。
だが、彼の眼差しはゆるやかに揺れていた。
「⋯⋯それにさ」
アラインの声が、今度はやや低くなる。
木漏れ日の下で彼の黒髪が揺れ
唇の端だけが意味ありげに持ち上がった。
「これだけ、育った精鋭部隊だ。
正直、殺すには惜しいよ?
記憶に正義を上塗りして
この街を護る自警団にでもしてあげたら
どうかな?
この人数でなら、アリアを護る盾にもなる。
〝正義の名のもとに整えられた精鋭〟なんて
最高じゃない?」
「⋯⋯なるほど」
短く、それでも深く沈むような声で
時也はそう呟いた。
見下ろす先には、縛られ横たわる者たち。
数時間前までは命
を奪い合おうとした相手たちが
今は静かに
眠っているだけのようにも見える。
その一人ひとりを確かめるように
時也は目を伏せる。
「彼らの記憶を上書きする事で
命を奪わずに済むのなら──
それは確かに
悪くない選択肢かもしれませんね」
彼の声は丁寧だった。
だがその内側にあるのは
心を裂くような葛藤を
ぎりぎりの理性で抑え込んだ色だった。
アラインはその姿を背に
口角を更に吊り上げる。
笑顔のまま、視線を伏せることなく
誰にも気付かれぬよう、そっと呟く。
(⋯⋯ふふ。
時也への記憶の植え付けは完璧だね。
上書きだって?
ボクの異能は
記憶そのものの改竄なのにねぇ⋯⋯
この計画の核心さえ〝善意〟に聴こえてる。
ボクの本心も、心の声さえ
少しも見えてない⋯⋯聴こえてない。
最高に都合のいい〝正義〟だよ)