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月曜の朝。
教室に差し込む光が眩しくて、若井は少し目を細めた。
週末の出来事が、胸に小さな棘のように引っかかったまま抜けずにいる。
キスの感触、藤澤の体温、そして……逃げるように消えていった背中。
(……あれは、夢じゃなかった)
廊下を歩いていると、前から藤澤が生徒たちと談笑しながら歩いてくる。
柔らかな笑顔、気の抜けたような優しい声。けれど、それはまるで「何もなかった」かのようで――
「若井先生、おはようございます」
何も知らない顔で、こちらに微笑みかけてくる藤澤。
「……おはようございます」
一歩すれ違ってから、振り返っても――藤澤は、もうこっちを見ていなかった。
(……このまま、知らないふりをされるくらいなら)
その気持ちは昼休みになっても消えなかった。むしろ、時間が経つほどに熱を帯びていく。
そして若井は、音楽準備室の前で立ち止まる。
軽くノックをすると、中から涼やかな声が返ってくる。
「どうぞ〜」
ギィ、と扉を開けると、藤澤はピアノの前で譜面を整理していた。
「……失礼します」
「若井先生?どうしたの?」
「少し、話したいことがあって」
扉を閉め、静かに鍵をかける音が室内に響いた。
藤澤が少し驚いたように顔を上げる。
「……そんなに大事な話?」
若井は一度だけ息を整え、静かに言葉を紡ぐ。
「……あの夜のこと、覚えてますか?」
沈黙。譜面を持つ藤澤の手がピタリと止まる。
「……何のこと?」
「……キスです」
藤澤の背中が小さく揺れた。
「俺は、確かに……あなたにキスされたと、思ってます」
藤澤は譜面から手を離し、そっと顔を上げた。その目に、どこか影が差していた。
「……覚えてるよ。全部」
「……なら、なぜ何も言わないんですか」
「忘れててくれると思ってた。忘れてほしかった。若井先生に……嫌われたくなくて」
その言葉が、胸に突き刺さる。
「……俺は、嫌ってなんかいません。むしろ……」
言葉の先を飲み込んだ。自分の中の何かが、崩れ落ちそうになる。
藤澤は、小さく笑った。
「……バカみたいだよね。寂しかっただけなのに、キスなんてして……」
「寂しい、って……?」
その言葉に、藤澤は静かにうつむいた。
「誰にも言えないけど、時々ね、心の底がすごく空っぽになるんだよ」
「……」
「家に帰れば家族がいる。子どももいて、幸せなはずなのに……
満たされない夜があるんだ。なにをしても埋まらない、ぽっかりとした寂しさが」
言葉がぽつぽつと、涙のようにこぼれる。
「……若井先生、」
藤澤が一歩、歩み寄ってくる。
その手がそっと、若井の頬に触れた。
「……俺を、癒してくれる?」
触れた手のぬくもりに、若井の全身が反応する。
「俺はね、あの日のキス、後悔してる。でも、忘れたくもない」
吐息が混じる距離。
けれど、若井はそれでも一言も返せなかった。
否定も、肯定もできなかった。
ただ――
その手に、唇に、目を閉じてゆく。
(藤澤先生……)
重ねられた唇が、ふたたび熱を呼び起こす。
ゆっくりと、でも確かに。
若井は流されていく。