テラーノベル
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幸せはどこにあるのだろう。
世の人は皆、すべからく幸せだと思う。それが山の頂上にそびえ立つメタセコイヤの木のように大きくても、また道端に咲く菜の花のように小さくても、誰しもが身の丈に合った幸せを手にしているに違いない。
私だけだ。これっぽちの幸せのかけらさえ見つからないのは。
悪いことばかり積み重なり、それは日々酷くなり、どこまで行っても前方には暗闇しか見えて来ない。おそらく死神が取り憑いている。死神は耳元でこう囁く。「キラキラと輝く飾り物など無駄だ。おまえに似合うのは不幸だけ」。
仕事終わりの金曜日。どこか浮立つような賑わいを見せる夕暮れの駅前通りを歩きながら、鈴奈はすっかり絶望していた。
今日は会社で、漆原さんにすっかり無視された。仕事も振られず、仕方がなくパソコンの画面に開かれた空白のエクセルを一日中見つめていた。昨日何があったかは知るよしもないが、おそらく別人格がとんでもないことをしでかしたに違いない。クビが現実味を帯びている。これからのことを考えると、気分が更に落ち込んでしまう。
駅から10分ほど歩いて到着したのは、車通りの激しい環状道路沿いにある5階建てのマンションだった。
502号室が祐也の部屋だ。付き合い始めの頃は何度か来たことがあるが、この半年ばかりは全く訪れる機会がなかった。というより、夜中たまに祐也が鈴奈の家に酔っ払ってやって来るほか、殆ど放置されていた。おそらく他の女と遊んでいて、鈴奈に構っている暇などなかったのだろう。
祐也にとって鈴奈は完全に、都合のいい女だった。それはとっくに気づいていたはずなのに。
ロビーに入り郵便受けに目を向けると、502号室だけ郵便物で溢れ返り、受け口から雑にはみ出ていた。一通抜き出してみると、差出人は聞いたこともない金融会社。おそらく祐也は黒崎以外のヤミ金からも借金を重ねていたに違いない。
ため息をつきながら封筒を郵便受けに戻してエレベーターに乗り、5階へと上がった。
外廊下に差し込む鮮烈な夕日が眩しい。近くの学校から夕焼け小焼けのチャイムが聞こえて来る。
また無意味に1日が終わっていく。幽霊に頼まれて自分はいったい何をしているんだろう、と鈴奈は改めて気分がどんよりする。
502号室のドアの前に立ち、今更ながらに困惑した。
祐也はもう死んでいるから、ベルを押したって誰も出て来るはずもない。ドアに鍵だってかかっているだろう。ここへ来て、何をすればいいというのか。
仕方なく、ベルをやみくもに押してみた。
うん、やっぱり反応はない。一応これで祐也に義理は果たしたから、と帰ろうとしたその時。
ドアがすっと開いた。
驚きのあまり心臓が跳ね上がる。小さく開けたドアから顔を覗かせたのは_____。
ぼさぼさの黒髪を胸のあたりまで伸ばした酷く痩身の女だった。白いワンピースを着ていて身長は高く170cmはあるだろうか。すっぴんで年齢不詳。髪のあいだから僅かに覗く小さな目は、どこか焦点が合っていない。まるで幽霊のようだ。祐也より、こっちのほうがホンモノに視える。鈴奈は思わず、ひいっと悲鳴を上げた。
「はい……なんですか……」
女は鈴奈をじっと見つめたまま、掠れた声を出す。逃げ出したかったが、すっかり腰が抜けて動けない。
「あ、ああああの。こ、ここってせ、瀬上裕也ささささんのお宅ではっ……!」
口がうまく回らないながらも、やっとのことでそう言うと、女は長い首を不思議そうに傾げた。
「あなたは、どなたですか?」
「_____っ。わ、わたしは瀬上くんのゆゆゆ友人です。急に連絡が取れなくなったので、ししし心配で来ちゃいました」
とっさに嘘をついたが、それを信じたのかどうかは女の無表情な顔からは読み取れない。
しばらく黙って鈴奈の顔を見つめていた女は、やがてかすかに目をしばたたかせた。
「ああ。あなたは幸手鈴奈さんですね。祐也から写真を見せてもらったことがあります。いつも祐也がお世話になっております」
名前を知られてる!? それにこの言い方って……まるで祐也のカノジョみたい。
「せっかく来て頂いたのに申し訳ないのですが、祐也は今、風邪で寝込んでおります」
「か、風邪って……」
そんなはず、ないじゃない。
「祐也には幸手さんがいらしたことをお伝えしておきますので……今日はお引き取りください」
それだけ言うと、女は音もなくドアを閉めた。
最後まで、表情のかけらすら見せることなく_____。
閉じたドアの前で呆然と立ち尽くしていると、カバンに入れたスマホがいきなりけたたましい音で鳴り始め、鈴奈は飛び上がった。
慌ててスマホを取り出し画面を見ると黒崎からの着信だ。黒崎はいつだってタイミングが悪すぎる。
「おい、今どこにいる!」
耳に当てた途端、大きなダミ声で耳の奥がキンキンする。まるでスピーカーで話しているようだ。
鈴奈はしばし逡巡した。祐也のマンションに来てると正直に言えば、黒崎に隠れて祐也と会っていたとか、あらぬ疑いを掛けられるに違いない。
「ええと……まだ会社ですけど……」
「ふん、ずいぶん仕事熱心じゃねえか。まあ、いい。もうひとりのターゲットとは、あれからどうなった? 連絡きたんだろ?」
「はい。今夜、これから会う予定です」
コウとは何度かメッセージをやり取りして、恵比寿で会う約束をしていた。今からドキドキしている。
「いいか。今度こそ間違うんじゃねえぞ。しっかり相手の身元を確かめろ」
「は、はい」
「失敗は許されねえからな。危急存亡て言葉、知ってるか?」
「いえ、わかりません」
「今のおまえは地獄への崖っぷちに立ってるってことだ。社長が言うには、これでダメだったらソープ行きだと。そこんとこ、しっかり肝に命じとけ」
スマホを持つ手の震えが止まらない。
コウは絶対に失敗できないと思うと、緊張のあまりまたおなかが痛くなる。
「ところでだ。おまえ嘘をついているな?」
「へっ……う、うそって……」
「そこは会社じゃねえだろ。さっきから夕焼け小焼けのメロディーが鳴り響いてるぞ」
はっとする。気づくと、ここへ来た時からずっとその曲が夕空に鳴り続けていた。
「瀬上のマンションか。何度も押しかけたから知ってるが、この時間帯はあちこちから夕焼け小焼けが流れて来るんだ。なぜ、そこにいる。まさか、瀬上とつるんでるのか?」
頭が真っ白になった。パニクってしまい、考えるより先に口が勝手に動いてしまう。
「ち、違います! 祐也の幽霊が現れて、俺、誰かに殺されたって言うんです。だから死体と犯人を探してくれって。だからここに来てみたんです。でもなんだか、部屋に背の高い不気味な女のひとがいて、祐也は風邪で寝てるって言うし。私、なにがなんだかわからなくて……!」
「なにがなんだかわからねえのは、俺のほうだ。瀬上の幽霊だと? 不気味な女が住んでいる? 寝ぼけてんのかこら。いいか、もしも俺を騙そうって腹なら、ただじゃすまさねえからな!」
ぶちっと通話が切れたスマホを手に、鈴奈は途方にくれた。
ついペラペラと黒崎に余計なことを言ってしまったと思うが、後悔先に立たず。
と、その時。
祐也の部屋のドアが、バタンと音を立てて閉まった。
びくっとすると同時に、あることに気づき途端に全身が総毛立つ。
ドアは電話の前に閉じられていたはず。だけど今、また閉じたってことは_____あの女の人に、黒崎との会話を全部聞かれていた?
コメント
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いやあ、第8話、読んでて背筋が冷たくなりました……。冒頭の「私だけが幸せのかけらさえ見つからない」という鈴奈の独白がもう、じわじわと効いてきますね。そこから夕焼けの街、幽霊みたいに現れたあの女——祐也の部屋にいた“別の誰か”。「あなたは幸手鈴奈さんですね」って名前をさらっと言われた瞬間の鳥肌、分かります。それでいて黒崎との通話を全部聞かれてたかもしれない、という最後の一文の重み。伏線が静かに積み上がっていく構成、めちゃくちゃツボです。続きが気になって仕方ない……!