宗教都市ネリーグロッサへ入るまでにユカリは【微笑みを浮かべ】、黒い都とは対照的に煌びやかな魔法少女へと変身する。その姿であれば邪眼も恐るるに足らず、ベルニージュは解呪の薬をありったけ練り上げてユカリに託した。
大いなる黒き門は開かれ、妙なる黒の街から地獄と聞き紛う悲鳴と怨嗟が湧き起っている。武装した門番たちも旅装の巡礼者たちもどうすれば良いのか分からず混乱している様子だ。鞭を追ってやってきたベルニージュたちに気づくと門番たちは槍の穂先を向けて警戒するが、立ちはだかることはなかった。
ベルニージュたちは門番を相手にせず、街の中へと突き進む。黒い街は昼間から多くの明かりが灯されている。燭台に松明、篝火が大きな通りを明るみに引き出す。でなければ深い闇を突き進むような気分になったことだろう。
どうやら鞭は多くの人と建物を巻き込んだようだ。逃げ惑う人々、蹲る人々、石のように硬直している人々。折れた柱や崩れた外壁、まだ新しい傷が街のあちこちにできていた。
二人が街の人々の声に耳を傾けると、どうやら巨大な蛇と姿かたちを変える怪物の争いに巻き込まれたものと認識している様子だった。蛇ではないほうの怪物は街を通り過ぎる間に様々な姿に変身したようで、恐怖と混乱と意見の違いから言い争っている者もいる。人々の誤解を解き、恐怖を和らげるのは後にしてベルニージュたちはレモニカの連れ去られた先へと急ぐ。
そうして街の被害をたどり、着いたのはネリーグロッサの中心に聳える夜闇の女神ジェムティアンのための神殿だった。神殿は街の中でも一際黒く、しかし多くの宝石が埋め込まれていて、曇り空の僅かな陽光さえも反射して輝いている。
神殿の敷地を囲む壁の一部が崩れている。ベルニージュたちはその鞭が崩したと思われる部分から中を覗き込む。静かだが空気が戦慄している。神殿そのものに被害は出ていない。黒々しい屋根も柱も分厚い扉もくすんだ窓も古の世に造立された当時と何一つ姿は変わっていない。
「行くよ、ベル。準備は良い?」
「いいよ。ワタシは広く視野を持たないから気づいたことは何でも言って」
「分かった。魔法少女に任せて」
ベルニージュはいっそう気を引き締め、崩れた壁を乗り越えて敷地内へと入る。この冬の寂しい庭にも心華やぐ小さな花が咲いていたようだが、鞭によって痛々しく抉られていた。他に人の姿はなく、二人は誰に見咎められることもなく夜闇の如き神殿の中へと入る。
神殿の中もまた黒く、また輝かしい宝石に覆われている。それは精妙に作られた古い呪術でもあるようで、このような事態でなければもっとじっくり見るのに、とベルニージュは歯噛みする。
神秘をその向こうに隠した星雲の如き通廊を突き進み、祭祀場らしき広い空間へと出る。その空間はやはり黒に塗られており、その虚空の中央奥には、夜闇の女神ジェムティアンが御座した。それはエベット・シルマニータの地下神殿で目撃した白と黒の花崗岩を巧みに組み合わせた驚異の彫刻、古代の偶像とよく似た姿だった。豊かな皴を作る白い衣を纏い、宝石の散りばめられた黒い体は銀河の如くかそやかにして、硬直しているはずなのに躍動的だ。
その神の御許には吊り上がった目でこちらを睨みつける男がいる。獣の爪痕が刻まれた太い指で捻じれた髭を撫でるその男はあの見世物小屋の団長、コドーズだ。そしてかたわらにはクオルがいた。レモニカの姿はないが、姿がないだけだ。
「後ろ!」と警告を発したのはクオルの姿をしたレモニカだった。
しかし二人はまるで間に合わず、ユカリは蛇のように蠢く鞭に縛り上げられ、ベルニージュは邪眼を直視してしまった。
冷たい液体が眼球から注がれたかのようにベルニージュの全身に行き渡り、肉体は瞬時に凍り付いた。肉体は硬直し、しかし精神も感覚も途切れずにある。
ユカリは強く締め上げられ、気を失うとともに変身が解けた。そのまま鞭によって合切袋も奪われてしまう。
「何だ。案外呆気ねえじゃねえか。なあ、ケブシュテラ」とコドーズが言う。
レモニカは何も言わず、コドーズから逃れようと暴れるが、がっしりと後ろ手をつかまれている。
鞭の持ち手はやはりコドーズだった。鞭はいくつもの蜷局を祭祀場に作っている。これもやはりクオルの品なのだろうか、と硬直したままにベルニージュは考える。
ベルニージュの体もまた鞭に巻き取られてしまい、どこかへと運ばれていく。その道中で背嚢と一緒に魔導書の衣も剥ぎ取られてしまった。
コドーズは神殿の物置にでも使われているらしい一室にベルニージュを据える。小さな窓から小さな光が差し込むだけの薄暗くて埃っぽい部屋だ。色褪せた木箱が並んでいるが、ずっと放っておかれていたらしいことはその埃の積もり具合でよく分かる。
そしてコドーズはいつの間に持っていたのか、鉢植えのようなものをベルニージュの脇に置くと、扉も閉めずに出て行った。硬直したままのベルニージュはユカリが連れて行かれるのをじっと見ていることしかできなかった。
コドーズが出て行くと間を置かずに鉢植えの中から銀の棒が伸びる。それは木のように、しかし木よりもはるかに早く伸びて天井に達すると、天井を這うように枝葉を広げる。天井を覆い尽くしてしまうと、今度は壁に沿って、枝葉の方から床へと幹が伸びて行った。そうして天井、壁を覆い、閉じていなかった扉が銀の格子に塞がれてしまった。どうやら即席の檻を作る魔法なのだと分かる。
ベルニージュが魔法の檻に閉じ込められてから、長い時間が経った。窓から差して床を照らしていた光はゆっくりとベルニージュの背後へと移動した。
体が硬直しても、思考が硬直しないのは不幸中の幸いだ。ほんのささやかな幸いだ、とベルニージュは巡り続ける思考の片隅で考える。
魔法少女は助けに現れない。魔法少女にさえ変身できたならユカリはすぐにでも脱出して助けに来てくれるだろう。それができないということは、まだ気絶しているか、『我が奥義書』が手元にないかのどちらかだ。つまり『我が奥義書』がユカリの手元に戻るには一定の距離を離れなければいけないので、コドーズはまだ魔導書を持ち去ろうとはしていない、ということでもある。
あるいは殺されたか。もしもユカリが殺されていたならば、コドーズには相応以上の痛い目を見てもらわなくてはならない。
レモニカはどうだろうか。コドーズがこれほど執心しているというのは、ベルニージュには意外に思えた。見世物小屋には他にも沢山の生き物がいて、その大半が逃げてしまったのだ。仲間と共に逃げている呪われた少女よりも、他を優先した方が見世物小屋のことを考えるならば効率が良さそうなものだ。それともレモニカはそれほど群を抜いた稼ぎ頭だったのだろうか。
その時、遠くから鼻歌が聞こえてきた。聞き覚えのある鼻歌だ。少しずつ近づいてきて、部屋の近くで立ち止まる。その声の主が銀の格子の間から顔を覗かせた。クオルだ。今度は本物だ。本物のクオルもここにいたらしい。
ベルニージュはすぐにでも唾を吐きかけたかったが、届きそうにないからやめた。
「硬直しているはずなのに、何だか睨まれてる気がします」とクオルはへらへらと笑いながら言う。
黙れ、そのへらず口を縫ってやる、とベルニージュは言いたかったが、品がないから言わないことにした。
「実はベルニージュさんの見解を聞きたくて来たんです」クオルはまるで昼食を共にしている相手との会話のように話す。「なので硬直くらいは解いても良いかな、って思ってます。どうですか? お話聞かせてくれますか?」
ベルニージュは答えない。答えたくないから答えない。
「何か言ったらどうなんですか?」とクオルは眉を寄せて不機嫌そうに言う。
それでもベルニージュは答えない。クオルが嫌いだから口を利かない。
「あ、そうでした! 硬直していたんでしたね!」そう言ってクオルは高笑いした。
硬直なんていつだって解こうと思えば解ける、とベルニージュは頭の中で言い返していた。
唐突にベルニージュの硬直が解けた。硬直が残っていないか隅々まで確認しながら、クオルがどうやって解呪したのか考えたが、今のところは分からなかった。
ベルニージュは魔を置かずいくつもの破壊的な呪文を魔法の檻の生えてきた植木鉢に投げつける。南の大陸の象狩りの雄叫び。亡国の嘆き歌の一節。冤罪人の辞世の句。不遜王の実り名、聖ジュミファウスの鬨の声。【崩壊】。【天罰】。【穿孔】。しかし何一つ植木鉢を傷つけることはできず、魔法の檻が傷つくことはなかった。
沸き立つ怒りを鎮め、荒れる呼吸を整え、微笑みを浮かべ、ベルニージュは再びクオルの方を振り返る。
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