にやにやと笑みを浮かべるクオルに向かって、ベルニージュは伝わらない皮肉を言う。「さっきはありがとう」
クオルは首を傾げて疑問を呈す。「さっきは? いま助けたんですけど」
「言い間違いだよ」
残念ながら対応が間に合わなかったが、クオルの姿のレモニカが警告を発してくれた。そのことをクオルは知らないらしい。
そして、コドーズがこの世で一番嫌いな生き物は人喰い獅子だったはずだ、とベルニージュは思い返す。しかしさっきコドーズに拘束されていたレモニカはクオルに変身していた。いったいこの女はコドーズに何をしたのだろう。
「それで? 何の見解が聞きたいの?」ベルニージュは壁際に並ぶ木箱の一つに座る。まるで足が棒になっていたかのような疲れがある。「深奥?」
「素直に話してくれるんですか?」
「内容によるに決まってる」
クオルはまるでベルニージュに非があるかのようにため息をついて言う。「エイカさんとレモニカさんがどうなっても知らないぞ、って言うつもりでしたのに」
「それは言わなくて良かったね。あんたはそこの植木鉢ほど頑丈ではないだろうし」
「良い檻でしょう?」クオルは師に褒められたかのようにはにかむ。「肉体は非力で、なおかつ強い魔の力を持つ魔法使いしか閉じ込められないんですけどね。でもその役割を果たす魔法としてはかなり強力かと」
ベルニージュは自分にだけ聞こえる舌打ちをする。
「なるほどね。そういう仕組みか。そこまで用途が限定されるなら、ワタシだったら銀は使わないかな。樫か何かなら十分以上に効果的なはずだし、檻の形成速度も上げられるはず」
「ああ、なるほど。さすがベルニージュさんですね」そう言ってクオルは覚書を取り出して書きつけ始める。
「これが聞きたかったこと?」とベルニージュは吐き捨てるように言う。
クオルは夢中で書きとりながらも答える。「まさかまさか、そんな訳ないじゃないですか。聞きたかったのはレモニカさんの呪いのことです。あれはとても強くて、とても面白いです。ベルニージュさんもそう思うでしょう?」
確かにクオルの言う通りだったが、ベルニージュは自分の知らない魔法には大抵強い興味を持つ。レモニカの呪いが特別なわけではない。
「レモニカの呪いの見解ね。まあ、まず間違いなく魔導書による呪いだよ。それくらい力強い魔法だからね。でも、少し他とは趣が違う気もするけど」
「というと?」
「上手くは言えない」と言いつつ何とか上手く言おうとベルニージュは頭をひねる。「おそらくレモニカの魂を呪いが覆っている。呪いは最も近くにいる人物の嫌悪対象を読み取り、レモニカの魂と肉体に転写している。何度も変身できるし、変身自体には特に痛みも疲れも副作用もないようだから、呪いさえ取り除ければ後遺症も残らないと思うけど」
「それが他の魔導書とどう違うんです?」
ベルニージュは答えを探すように視線をさまよわせ、銀の植木鉢に真理が書き記されているかのように睨みつける。
「何と言うか、他の魔導書が力尽くなのに比べると、技巧的な気がするんだよね。魔導書ではなく、魔導書を触媒にした未知の魔法ってだけかもしれないけど」
ふとクオルの方を見て、また覚書をしたためていることにベルニージュは気づく。
「そんなことを知ってどうするの? 魔法の道具や深奥に直接関わるような魔法だとは思えないけど」
あるいはメヴュラツィエに関係しているのだろうか、とベルニージュは心の中で呟く。
「私だって商売人の前に一人の魔法使いですから。己の研鑽のために学んでいるまでですよ」と言うクオルは似合わない真面目な表情を作る。「それと、そう、魔導書。あんな沢山の魔導書をどうやって……という話にも大いに興味はありますが、一人の魔法使いとしてまず気になるのは、なぜあれらの魔導書は皆さんのもとに、いえ、おそらくエイカさんの元に戻るのか、が気になりますね。彼女、何者なんです?」
ヴァミア川の怪物、レモニカに蟹猿と称されたあの怪物がユカリから魔導書『我が奥義書』を奪い取った際に気づいたのだろう。
クオルの口ぶりから察するに『我が奥義書』以外の魔導書もユカリのもとに戻ってくると勘違いしているようだ。つまりクオルは多くの野心抱く魔法使いと同様に魔導書を奪う心積もりであり、その問題を解消したいのだろう。
「それに関してはワタシだってお手上げだよ。どのような方法でも魔導書を毀損できないのと同様、魔導書を魔法で見つけたり、操ったりはできない。まあ、今のところは、と一人の向上心溢れる魔法使いとして言い添えておくけど。せっかく身近にあるんだもん。ワタシだって数えきれないほどの魔法を試したよ。それこそ完膚なきまでに破壊するつもりで挑んだ。結果は、聞くまでもないだろうけど」
クオルは知った風な表情で同調するように何度も頷きながら、さらに何かしらを紙に書きつける。それほど重要なことをベルニージュは言った覚えがない。魔法使いなら常識だ。
クオルの額に向かってベルニージュは尋ねる。「ところでメヴュラツィエが生きてるって本当? 深奥について進展はあったの?」
クオルが驚いた様子で顔を上げ、まじまじとベルニージュを見つめる。しかし何者かが歩いてくる足音の響きを聞いて、クオルは別れの挨拶も無しにこそこそと逃げ出した。
ベルニージュは慌てて植木鉢の近くに戻り、覚えている限り硬直した時と同じ姿勢を作る。
やって来たのはやはりコドーズだった。真っ赤な顔をして銀の格子につかみかかり、中を覗き込む。ベルニージュの背嚢とユカリの合切袋を肩にかけている。それに、あの巨大な魔法の鞭の持ち手を握っている。しかしその先は廊下の向こうで勝手に蠢いているらしい。
「おい! ここにクオルかケブシュテラが来なかったか!? あの女、俺のケブシュテラをよくも!」
ベルニージュは黙ったまま、鞭の先端についている巨大な目玉を見てしまったような顔を作り続ける。
どうやらクオルがレモニカを逃がしたらしい。さっきのクオルの問いからしても、クオルはレモニカを変わらず求めているのだ。凍り付いたウクマナ湖でボーニスがレモニカに襲い掛かったのもクオルの依頼だろう。
コドーズは目を細め、夜闇の神を祀る神殿の物置部屋の中を、まるで神の奇跡でも見い出そうかという風に睥睨する。木箱の陰や戸棚の裏、隠れる場所はいくつかあるが、もちろんそこには影の他には何もない。
「何かさっきと様子が違うな。その木箱、動いてないか?」
その疑いは当然だ。ベルニージュ自身が好機を引き寄せるために木箱を少しだけ、しかしコドーズが気づく程度に動かしておいたのだった。
コドーズは木箱と硬直したベルニージュを何度か見比べる。そして、おもむろに銀の格子をこすると、人が通れる程度に格子の隙間が広がる。まるで怯える子猫を宥めすかすようなこすり方だった。
コドーズは警戒していたが、木箱の陰にいるのは、夜闇の眷属ながら何の力もない物置部屋の影に過ぎない。コドーズが本当に警戒すべきベルニージュは目の前の好機のからかうように揺らめく裾を逃さずつかむ。
コドーズの死角に入った途端に跳ねるように飛び出し、銀の格子をすり抜けると同時に素早くこすり、コドーズを物置小屋に閉じ込めた。クオルの語った檻の性能から考えると長い間閉じ込めておくことはできないだろう。
「ワタシはあっちを探してくるから、ケブシュテラが見つかったら教えてね」と言い残し、コドーズの張り裂けるような怒鳴り声を背に走り去る。
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