テラーノベル
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5月の初旬、まだ寒く感じる日もある仙台市内陸の養鶏場で、けたたましい鶏の鳴き声に、篠田柚葉(ゆずは)は目をこすりながらベッドから起き上がった。
壁にハンガーで掛けてある高校の制服の横に吊るしてあるカーディガンを羽織り、柚葉は窓のカーテンを開けた。
勉強机の上の目覚まし時計を見ると、まだ朝の6時前だった。鶏が鳴いてもおかしくはない時間帯だが、その鳴き方は異常だった。
鶏舎の中の数百羽の鶏が一斉に鳴く、というより悲鳴を上げていた。朝の到来を告げる間延びした声ではない。ギャギャという切迫した悲鳴が辺り一帯に響き渡っている。
窓を開けて柚葉は外を見る。その瞬間、横から巨大な獣の頭が柚葉の視界をふさいだ。
細長くとがった鼻面の口元から牙が見えた。その頭部だけで、長さが柚葉の身長を優に越えている。
全身がふさふさとした毛皮で覆われ、黄色がかった毛は朝日に照らされて金色に見えた。
一瞬唖然とした柚葉は、今自分がいるのが自宅の2階だという事に気が付いた。そこの窓辺に顔があるという事は、どれほど巨大なのか。
「わ、わああ!」
柚葉は窓から飛びのき、部屋の一番離れた隅に座り込んだ。巨大な獣は窓ガラスに鼻を押し当て、ケンケンと甲高い声を上げた。
両目の間の鼻の上に、短い傷跡があった。その形と獣の声の調子に柚葉は覚えがあった。
「まさか……フモちゃん?」
窓の下から大人たちの大声が聞こえて来た。
「何だ、あれは?」
「け、警察に連絡を」
その声に巨大な獣の頭が一瞬振り向き、ダンという地響きがして、その巨体は柚葉の視界から消えた。
近くの林の木々が激しく揺れる音が、柚葉の部屋まで聞こえて来た。おそるおそる立ち上がって、窓から顔を出すと、山の方へ駆けていく金色の毛の巨大な四足獣の後ろ姿が見えた。
その体長は20メートルはあった。家の周りに大勢の住民が集まり、口々に叫んでいた。その声を聞きながら、柚葉はじっと巨大な獣が消えて行った方角を見つめていた。
その夜、遠山准教授は東京都内の居酒屋で、旧友との久しぶりの再会を楽しんでいた。
その旧友、今は陸奥(みちのく)大学の准教授である芦屋(あしや)とは、大学院を博士課程修了まで、ともに過ごした仲だった。
ビールのジョッキで乾杯し、焼き鳥をつまみながら遠山が言う。
「懐かしいな。もう5年ぶりかな?」
「ああ、そうなるな。子どもが生まれてから、なかなか遠出もできなかったからな」
「結婚式には出られなくてすまなかったな。ちょうど学会の出張が重なってね」
「気にするな、そんな事。そのうち遊びに来てくれ」
「今日は何の用で東京へ?」
「研究費用の申請で文部科学省のお役人様に頭を下げに来たのさ。素人に納得させるのに大汗かいたよ。国立大のおまえがうらやましい」
「いや国立だって予算の獲得は似た様なものだよ。まったく世知辛い時代になったもんだ。それで今は何の研究をしてるんだ?」
「メッセンジャーRNAの合成だ。ありとあらゆる生物のね」
「ワクチンか?」
「俺がやっているのは、あくまでその基礎研究だ。新型コロナウイルスの一件以来、競争が激しくなっている分野だからな。そのうち一山当てたいもんだ」
「そりゃ将来有望だな。奥さんも喜んでるだろう。お子さんはいくつになった?」
「今3歳。やんちゃで困ってるよ。嫁さんは男の子はそのくらいがいいとか言うんだが、付き合わされる父親の身にもなれってんだ」
「ははは、公私ともに充実してるって事じゃないか。うらやましい」
「で、遠山、おまえはどうなんだ?」
「何が?」
「結婚だよ。そろそろ家庭を持ってもいい年だろう。予定はないのか?」
「いやあ、僕は独身主義者なんだ。独り身が気楽でいい」
「なあ、遠山」
芦屋はジョッキをテーブルに置いて、少し真面目な顔になった。
「おまえ、ひょっとして」
「ん? どうした、急に改まって。」
「おまえ、今でも篠田理子(りこ)の事を気にしているんじゃないか?」
今度は遠山がジョッキを手に持ったまま、一瞬真剣な表情になった。だが、遠山はすぐに笑い声を上げて否定した。
「あははは! そんなわけないだろう。もうそんなに若くはないさ」
「そうか。それならいいんだが」
「さ、久しぶりなんだから、とことん飲もう。ちょっと、店員さん。ビールのジョッキ、お代わりふたつ」
翌日の朝、二日酔い気味の頭を抱えて遠山が渡教授の研究室へ出勤すると、郵便受けに封筒が貯まっていた。
6部の封筒をまとめて手に抱え、部屋に入る。既に他のメンバーは各自の机についていた。
遠山がおどけた口調で封筒を配って回る。まず宮下に手渡す。
「これは女刑事さん宛てっと」
封筒を受け取りながら宮下が顔をしかめる。
「その呼び方はやめてくださいって言ってるじゃないですか。今どき、女性の刑事なんて珍しくもないんですから」
遠山は意に介さずという様子で、封筒の宛名を見ながら渡の机に向かう。
「こっちはほとんど、我らがボス宛ですよ」
渡も顔をしかめて不機嫌そうに言う。
「誰がボスだ? 連休はとっくに終わっとるぞ、いつまで浮かれてる。まったく相変わらず軽薄な男だな」
遠山が最後の、普通の手紙用の封筒の表書きを見た。
「おっと、これは僕宛だ。あれ? 帝都理科大学としか住所が書いてない。よくこれで届いたな。あちこちで転送してくれたのか。どこからだ?」
封筒をひっくり返して、差出人の名を見た遠山の顔が急に真剣な表情に変わった。残りの封筒がバサバサと音を立てて床に落ちた。
松田が駆け寄って落ちた封筒を拾い始める。渡も椅子から立ち上がって、呆れた口調で遠山に言った。
「何をやっとるんだ。おい、遠山君、何だその顔は。まるで幽霊にでも出会ったような顔だぞ」
封筒の裏面を見つめたまま、遠山はうわ言のように言った。
「そうかもしれません」
何か普通でない様子を察した渡が訊いた。
「どういう意味かね?」
「幽霊からの手紙なのかもしれません」
遠山が封筒の裏面を見せた。差出人の名前は「篠田理子」となっていた。渡が重ねて尋ねる。
「女性のようだが、その人物がどうした?」
遠山は遠くを見るような眼つきのまま答えた。
「彼女は死んだんです、あの日に」
「あの日とは?」
「2011年3月11日。実家のある仙台で東日本大震災の津波に呑まれて死んだはずなんです。僕はその葬儀にも立ち会っている。どうして今頃になって?」
遠山の手にある封筒の差出人の住所を見た渡が、かっと目を見開いて自分の机に駆け寄り、パソコンで地図のサイトを開き、その住所を入力した。
「これは……偶然なのか?」
筒井が横から渡のパソコンをのぞき込んで訊いた。
「どうかしましたか、渡先生?」
「今からみんなに説明しようとしていたところだ。松田君、大型スクリーンの用意をしれくれ」
松田が部屋の壁の大型モニターを起動する。渡が自分のパソコンから画像をそこに映し出した。
山にほど近い養鶏場が映った。次に動画が動き出す。数人のおびえた叫び声の中、巨大な金色の毛皮の四足獣が鶏舎の周囲を歩き回っていた。
宮下がそれを見て驚愕の声を上げた。
「これ、ミニチュアじゃないですよね。だったら、この動物の大きさは?」
渡があごひげをしごきながら答えた。
「体長20数メートルという事になる。遠山君、何に見える?」
遠山は目を細めて画面の中の巨大な獣を凝視した。
「多分、キツネですね。ですが、毛が金色のように見える種など聞いた事がない」
松田が渡に訊く。
「場所はどこでありますか?」
渡はさらに、その巨大な獣が映っている静止画像を数枚スクリーンに映しながら言った。
「仙台市の内陸部だ。地元の住民がスマートフォーンで撮影した物を、帝都新聞がまとめて送って来た。そして、ここからが本題だが」
渡は研究室の全員に顔を向けて続けた。
「まだ非公式だが、内閣危機管理室から渡研に協力要請が来ている。例によって怪獣退治という事になりそうだ」
渡は机を離れて遠山の側に来た。
「そして遠山君。その君宛ての手紙の差出人の住所が、この巨大生物が最初に目撃された地点と一致している。もし差し支えなければ、中の文章を見せてくれんか?」
遠山は小さくうなずいて封筒の封を切り始めた。中からは、縁に花柄をあしらった便せんが一枚だけ出て来た。広げて読んだ遠山は、大きく首を傾げた。
「何だ、これは?」
遠山が便せんを机の上に広げて、他のメンバーにも見せる。そこにはただ一行、こう書かれていた。
「恋しくば 尋ね来て見よ いずみなる しのだの森の うらみ葛の葉」
渡以外の一同は、遠山も含めて、ポカンとした表情になった。筒井が腕組みをして首を傾げて言う。
「和歌? でも意味が全然分かりませんね」
それを聞いた渡が大きくため息をついて言った。
「まったく近頃の若い連中は。この歌を知らんのか?」
「わ、わわ、すみません、すみません。でも古典の授業でもこんなの習った覚えがなくて」
「こういうのを教養と言うんだ。受験秀才ばかり揃えとるから、新聞は斜陽産業になったんだろうに」
「そ、そんな言い方しないで下さいよう、ええん」
「これは葛(くず)の葉伝説に出て来る有名な一節だ」
宮下がおそるおそる渡に訊いた。
「葛の葉伝説とは何でしょう?」
渡が自分の机に戻って椅子に座り、言葉を続けた。
「歌舞伎や浄瑠璃では、芦屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)、信太妻(しのだづま)などの演目として知られている話だ。平安時代、安倍保名(あべのやすな)という貴族が山の中で狩人に追われていたキツネを助けた」
松田がハッとして言う。
「またキツネですか?」
渡がうなずいて続ける。
「その後、彼は葛の葉と名乗る若い女性と出会い、恋に落ちて結婚し、男の子が生まれる。だが、その女性の正体は、彼が助けたキツネだった事が露見して、そのキツネは泣く泣く夫と息子を残して森へ帰って行った。これが葛の葉狐というわけだ」
筒井が頭をかきながら訊いた。
「それでこの和歌はどういう関係が?」
「葛の葉狐が去り際に書き残した物だな。自分は和泉(いずみ)の国、今の大阪府あたりだな、そこの信太(しのだ)の森にいるから、恋しければ会いに来いという意味だ」
筒井が興味が湧いたと言う顔でさらに訊く。
「その後はどうなったんですか?」
渡は、いい心がけだ、といった表情で言葉を続けた。
「保名とその息子は、数年経って会いに行く。葛の葉狐は息子に、水晶の玉と黄金の箱を授けた。その息子はその道具の不思議な力のおかげで、成人して後、陰陽師(おんみょうじ)となって、朝廷で大活躍した。この人物が安倍晴明(あべのせいめい)だ」
筒井がうれしそうに声を張り上げた。
「それは知ってます! 安倍晴明の生い立ちの事だったんですか」
「おお、さすがにそれは知っていたか!」
「はい、安倍晴明って言ったら、霊能バトル物のアニメとかゲームとかの定番キャラじゃないですか! 最近だと呪文大戦とか。あたし、あの声優のファンなんですよ」
渡は思いっきり顔をしかめて、うんざりした口調でつぶやいた。
「そっちなのか?」
翌日、内閣危機管理室から正式な要請が届き、宮下以外の渡研の一同は、松田が運転するバンに乗って仙台へ向かった。車に乗り込む前、筒井が渡に言った。
「あれ? 宮下警部補は一緒じゃないんですか?」
渡はカバンを車のトランクに詰め込みながら答えた。
「宮下君は後で合流する。警視庁に急に呼び出されたそうだ」
渡研の車が東北自動車道を北上している時、宮下は公安機動捜査隊のオフィスに出頭した。隊長室に入ると、白人の男が先に来て椅子に座っていた。
隊長が白人の男を宮下に紹介した。
「在日アメリカ大使館のスコット1等書記官だ。今回の仙台での一件に関係のある情報を提供していただいた」
宮下は怪訝な表情でスコットと握手を交わし、隊長の机の前に椅子に並んで座った。宮下はスコットの顔をちらちらと横目で見ながら隊長に訊いた。
「アメリカの外交官の方が、なぜ今回の件に関心を持つのですか」
それにはスコットが流暢な日本語で答えた。
「我が国の安全保障にも大いに関係がある事だからですよ」
「アメリカでも巨大なキツネが現れたという事ですか?」
「いえ、こちらの方です」
スコットはその日の日本の新聞の朝刊を取り出して、社会面を広げて見せた。そこには、仙台市近郊の養鶏場で、鳥インフルエンザへの鶏の感染が確認されたという記事が大きく載っていた。
宮下はなおも訳が分からないという顔でさらに尋ねる。
「鶏の伝染病ですか?」
スコットは真剣な口調になって答えた。
「ただの伝染病ではないかもしれません。このウイルスの遺伝情報、この場合RNAですね、それを解析した結果、人工的に改変されたウイルスである可能性が高いと分かりました」
宮下の眉の端が跳ね上がった。
「まさか、生物兵器という意味ですか?」
スコットが無言でうなずいた。宮下は身を乗り出してさらに尋ねる。
「だとしたら、日本でパンデミックが起きる? 人間に対する毒性はどのぐらいなんですか?」
スコットは右手を小さく振って答える。
「いえ、人間には害はありません。人間がウイルスに感染する事自体はあるでしょうが、人間はその病気を発症しないのです」
宮下がますます訳が分からないという表情になり、次の瞬間、ある事に気づいた。
「ミスター・スコット。どうしてそんなに詳しいのですか?」
スコットは少し口元だけで笑って言う。
「もう時効でしょうから、お話しましょう。そのウイルスは元々は我が国で研究していた物なのですよ」
「アメリカの生物兵器だと?」
「冷戦時代の話です。世界中の大国が生物兵器を密かに研究していましたからね。しかし、我が国での研究は失敗の連続で完成しなかった。伝染性がどうしても不十分だったのです。そしてデータとウイルスのサンプルが盗まれた。おそらく当時のソビエト連邦の仕業でしょう」
「ソ連に渡って、生物兵器が完成したと?」
スコットは首を横に振った。
「いえ、ソ連も完成させる事はできなかったと考えています。そして1991年、ソ連が崩壊し、多くの軍事機密が世界中に流出した。その一部はテロリストや国際犯罪者集団にブラックマーケットを通じて流れた。今回の鳥インフルエンザウイルスがその中に含まれていた。それが我々の見解です」
隊長が口をはさんだ。
「遺伝子操作の技術はこの30年で飛躍的に進歩した。アメリカもソ連も完成させられなかった生物兵器としてのウイルスを、どこかの国家あるいはテロリスト集団が、作り出したとしても不思議はない」
スコットが深くうなずいて言葉を続ける。
「その生物兵器としての鳥インフルエンザが、日本で使用されたとすれば、貴国だけでなく、世界中の安全保障に関わります。私に協力させて下さい」
宮下がなおも怪訝そうな表情で訊く。
「アメリカの外交官は、そんな仕事までなさるんですか?」
スコットはにやりと笑って言う。
「私は一時的に在日大使館に出向しているのです。本来の職場はバージニア州ラングレーでしてね」
宮下は一瞬息を呑んで心の中でつぶやいた。
CIA!
遠山は夢を見ていた。彼がまだ帝都理科大学の大学院生、博士課程の2年目だった頃の光景がよみがえっていた。
机にかじりつくようにして論文集を読み漁っている遠山の視界に、同じ生物学研究室の学生である、篠田理子が入って来る。
長い黒髪をなびかせ、周りの誰をも魅了する笑顔を浮かべた若く美しい女性。彼女は遠山に向かって話しかける。
「遠山君、そろそろ飲み会の時間だよ」
遠山は低い声でぶっきらぼうに返事をする。
「僕は行かない。そんなヒマはないよ」
「もう、いつも暗い顔して、一人でいちゃだめだよ。遠山君はもっと人付き合いってものを大事にしないと」
「うるさいな。僕は君たちとは違うんだ。恵まれた境遇の君たちと同じようにはいかないんだよ」
「周りの人の事をそんな風に言うもんじゃないよ。いつも一人ぼっちで暗い顔して、冗談の一つも言わないで、人生楽しい?」
「僕は何がなんでも研究者の道に進みたいんだ。人生を楽しむだって? そんな贅沢ができるような、いいご身分じゃないんだよ! もうほっといてくれ!」
「はあ、ほんと頑固なんだから。ま、気が向いたらいつもの店だからね」
去って行く理子の背中を見ながら、遠山はつぶやく。
「どうして僕に構う? どうせ腹の中じゃ僕を馬鹿にして笑ってるんだろ。ちきしょう、今に見てろ。どいつもこいつも見返してやる」
肩をゆさぶられて遠山は、びくっと体を起こした。筒井が横から遠山の顔をのぞいていた。
「遠山先生、到着しましたよ」
「あ、眠ってたか」
渡研のバンの後部座席で、遠山は頭を振りながら窓の外を見た。仙台市内の目的地に着いていた。
東北の大都会仙台市の中と言っても、山が目の前に迫る農村風の光景が広がっている場所だった。ちょうど新緑の頃で、木々の葉の緑が目にまぶしい。
そこは養鶏場の入り口の前だった。あの巨大なキツネが目撃された場所だった。渡、遠山、筒井、松田の4人は、養鶏場の事務所のドアを叩くが、返事がない。
離れた所にある住居の廊下から、サンダルを引っ掛けた少女が走って来た。
「あの、うちに何かご用ですか?」
近くに来たその少女の顔を見て、遠山が、皆に聞こえるほどの大きな息を呑む音を立てた。
遠山は少女の肩を掴んで叫んだ。
「理子! 君は生きていたのか? そんなはずは!」
少女がおびえて体を震わせた。遠山ははっと我に返って少女の体を離し、数歩下がって頭を下げた。
「し、失礼しました。昔の知り合いに、あまりによく似ていたもので」
少女は大きく息をついて、遠山に尋ねる。
「あの、理子おばさんのお知り合いの方ですか?」
「おばさん?」
「はい、もし篠田理子の事なら、その人はあたしの叔母です。あたしのお母さんの妹です」
「君は理子の姪って事ですか?」
「あ、はい。親戚からよく言われます。あたしは、理子おばさんの若い頃にそっくりだって」
プップーとクラクションを鳴らしながら、軽自動車が敷地へ入って来た。ドアから40代ぐらいの上品そうな女性が渡たちの所へ走って来た。
「あの、渡研の方々というのは、みなさんでいらっしゃいますか?」
渡が女性の前に出て、名刺を渡した。
「帝都理科大学教授の渡と申します。今回は無理を聞いていただいて、ありがとうございます」
女性もハンドバッグから名刺を取り出し、渡に手渡した。
「この篠田養鶏場の経営者の、篠田理沙です。こちらこそ、遠い所をおいでいただいて。助かります。この辺り中、怪獣が出たって大騒ぎで」
あの少女が遠山を見つめながら言った。
「あたしは篠田柚葉と言います。あの、おじさんのお名前って、もしかして遠山さんとか?」
遠山が目をぱちくりさせて答えた。
「はい、帝都理科大学の准教授をしている遠山と言います。そうですが、どうしてそれを?」
柚葉は理沙に向かって、興奮した口調で叫んだ。
「お母さん、あの封筒の人、この人だよ、きっと」
養鶏場の敷地に隣接している篠田家の畳敷きの広間に正座し、渡研の面々は理沙と向かい合っていた。
20畳の大きな部屋を持つ、家というより屋敷と言った方がしっくりする大きな家屋だった。
柚葉が手伝って、理沙が高級そうな蓋付きの湯飲みに入れた茶を4人の前に差し出す。柚葉が好奇心に満ちた表情で、しきりに理沙に話をうながす。
「ほら、お母さん、あの話早く聞こうよ」
理沙が柚葉の頭をポンとたたいてたしなめた。
「こら。大人の話にくちばし突っ込まないの」
理沙は遠山に顔を向け、何かを思い出したらしく、遠慮がちに訊いた。
「もしかして、理子の葬儀に来て下さってたかしら?」
遠山はあわてて湯飲みをテーブルに置いて答えた。
「あ、はい。よく覚えてらっしゃいますね」
「あら、やっぱりあの時のお若い方。すっかり立派になられて。あの時は東京も震災でまだ大変だったでしょうに、遠くまでありがとうございました」
「いえ、あの時はご遺族にあいさつもせずに帰ってしまって、失礼しました」
「実は、先日理子の遺品を整理していたら、投函する前の手紙の封筒を見つけまして」
「手紙、ですか?」
「はい、後は切手を貼ってポストに入れるだけの状態の物が出て来て。住所が大学の名前しか書いてなかったので、戻って来るかもと思いながら送ってみたのです。遠山さんがここにいらしたという事は、手紙は届いたんですね」
「そういう事だったんですか。はい、手紙は届きました。ですが、今日こちらへ伺ったのは、渡研の一員としてです。ええと、柚葉さんだったね。君はあの巨大なキツネを見たそうだね?」
柚葉は待ってましたという顔で、テーブルの上に身を乗り出して、まくし立てた。
「見たも何も、あれはフモちゃんだと思います。鼻の上の傷跡がそっくりだったし」
渡が柚葉に尋ねる。
「前から知っていたのかね? あの巨大な動物を」
「3か月までは普通の大きさだったんだけど。あたしが時々餌をあげていた野生のキツネだよ」
今度は渡研の全員がテーブルの上に身を乗り出した。遠山が声を震わせながら訊く。
「君がキツネを飼っていたのかい?」
柚葉は微笑みながら楽しそうに話し続ける。
「飼ってたわけじゃないですよ。時々あたしの所に来て餌をもらってただけの、野良。あのフモちゃんは5代目かな」
ポカンとしている渡研の4人に理沙が説明を始めた。
「もとはと言えば、理子がこの子に教え込んだんですよ。野生のキツネは養鶏場にとっては天敵なんですけど、どうせ防ぎきれないなら餌付けしちゃえと、理子がまだ小学校に上がる前のこの子をけしかけて」
「なるほど」
遠山が感心した口調で言った。
「一匹のキツネがしょっちゅう出入りしていれば、そのキツネの縄張りという事になって、他のキツネは近づかなくなる。人間から餌をもらえば鶏を襲う事もない。そういう事かな」
「そう!」
柚葉がうれしそうに笑って大声を上げた。
「理子おばさんがそう言ってたの。だから、あたしがうちの鶏を守るために、キツネを餌付けしてたわけ。何年かで寿命だったのかな、姿を見せなくなると、次のキツネが餌をもらいに来るようになって。それで5代目があのフモちゃん」
理沙が苦笑しながら言う。
「野生のキツネを餌付けするなんて、やめなさいと私の親も私も言ってたんですけどね。野生の動物は伝染病持ってる事があるし」
柚葉が得意げに口をはさんだ。
「それも理子おばさんに教わった。エキノコックスとかいう病原菌がいるから、キツネには触らない。狂犬病の予防注射も、おばさんに連れて行ってもらったし」
理沙がますます苦笑しながら言った。
「うちは代々この辺りの地主で、まあ古い家風なんですよ。あたしが夫を婿に取って家業を継ぐ事は決まっていたから、理子は好き勝手に育って。あの子が東京の大学院に行って科学者になると言い出した時も、両親はあきらめ顔で」
その時渡のスマホが鳴った。渡は廊下に出て通話に出る。宮下からの電話だった。しばらく耳を傾けていた渡は、広間の全員が驚いて視線をやるほどの大声を上げた。
「何だと!」
通話を終えた渡は、真剣な顔つきになって理沙と柚葉の側にしゃがんだ。
「お二人とも、申し訳ないが、すぐ病院に行っていただきたい。検査のため、隔離する必要があると分かりました」
その日の夕刻、別々の病室に隔離された理沙と柚葉の検査の結果を待ちながら、渡研の4人は宮下の到着を病院のロビーで待っていた。
筒井が心配そうな表情で遠山に訊いた。
「そのウイルスって人間にも感染するんですか?」
遠山が手元のタブレット端末を見ながら言う。
「宮下警部補からの情報では、人間は発症しないという事だが、感染自体はする可能性がある。あの養鶏場の鶏も全て検査する必要があるな」
松田が訊く。
「鳥のインフルエンザなんですよね? キツネから感染する事なんてあるんですか?」
「鳥インフルエンザウイルスには、まだよく分かっていない事が多いんだ。ウイルスを運んで来るのは渡りをする水鳥なんだが、その水鳥は病気を発症しない。それなのに、鶏などの家禽が感染すると死に至る事が多い。キツネやイノシシなどの野生動物も、発症しないだけで、ウイルスの運び屋になっている可能性は否定できない」
渡がスマホのメールを読みながら言った。
「宮下君と一緒に、助っ人が来てくれるそうだ。遺伝子解析の専門家だそうだ」
しばらくしてタクシーが病院の前に停まり、宮下と二人の男が降りて来た。一人はスコットだった。もう一人の男を見て、遠山が驚きの声を上げた。
「芦屋じゃないか?」
芦屋は右手を高く上げて「よう!」と遠山に声をかけた。
「助っ人に来たぞ。ウイルスの遺伝情報解析なら任せてくれ」
病院の検査結果が出て、理沙は陰性と診断された。だが、柚葉は何らかのウイルスに感染しているという結果が出た。何も健康状態に悪影響は出ていないようだったが、柚葉は念のためそのまま隔離入院となった。
芦屋と遠山は病院の医師から、データと柚葉の検査サンプルを受け取った。遠山が不安そうに芦屋に訊いた。
「正体不明のウイルスという事になるのか? あの子は大丈夫だろうか?」
芦屋は、ことさら楽観的な表情を作って答えた。
「鳥インフルエンザには違いないなら、人間には無害だろう。念のため、PCR検査を俺がやる。新型コロナウイルスの時の経験が、こんな形で役に立つとはな」
その夜、篠田養鶏場から数十キロ離れた別の養鶏場に、あの巨大キツネが現れた。
巨体にも関わらず、ほとんど足音も立てずに、二つ並んだ鶏舎の側に巨大キツネが姿を現し、それに気づいた経営者の老人は、あわてて近くの倉庫の陰に逃げ込んだ。
しばらく鶏舎の匂いを嗅いでいた巨大キツネは、突然片方の鶏舎の屋根に前脚をかけ、そのまま屋根のトタン板を引きはがした。
けたたましい鳴き声を上げて暴れる鶏を一羽また一羽と牙にかけていった。隣の鶏舎の中の鶏が騒ぎ立てる中、巨大キツネは口の周りを血まみれにして、全ての鶏をかみ殺し、ふわりとした足取りで山の中に消えて行った。
夜が明け、近くの旅館から渡研の5人と芦屋が現場へ駆けつけた。警察官が経営者から事情を聞いている間、芦屋と遠山は鶏舎の中の鶏に死骸を調べ、他の4人は巨大キツネが通ったとおぼしき草地でサンプルの採集にあたった。
殺された鶏の血液を試験管に入れて、試薬を混ぜて芦屋が降る。5分ほどで、試験管の中にポツポツと緑色の粒子が現れた。それを見た芦屋がつぶやく。
「鳥インフルエンザに感染していたようだな。もう2,3日もすれば発症していただろう」
遠山が隣の鶏舎を見つめながら言う。
「しかし妙だな。どうしてすぐ隣の鶏舎は無事なんだ? こっちは全滅しているのに」
市役所から派遣されてきている職員が、隣の鶏舎から出て来て、芦屋の側へ来て報告した。
「先生、あっちの鶏舎の鶏からは、ウイルスの反応が出ません。念のため全羽検査しますか?」
芦屋は少し考え込んで答えた。
「お願いします。これはあくまで簡易検査ですから」
周りの草地からは、数十センチもの長さの金色の体毛が採取された。厳重に検査キットに封入し、芦屋はそれを持って、地元の研究施設に向かった。
翌日の午後、芦屋が渡研のメンバーとスコットが宿泊している旅館に戻って来た。
渡の部屋に全員が集まり、芦屋が分厚い書類を畳の上に広げて説明し始める。
「結論から言いましょう。昨夜襲われた養鶏場の鶏から検出された鳥インフルエンザウイルスのRNA配列は、ミスタースコットから提供された例のウイルスと99%一致しました」
スコットがいまいましげにつぶやいた。
「オー・マイ・ゴッド」
すぐに日本語に切り替える。
「このままウイルスが広がったら、大惨事になります」
芦屋がさらに言う。
「あの巨大キツネの体毛からも、同じウイルスが検出されました。奴に襲われた鶏からはウイルスが検出され、すぐ隣の鶏舎の鶏は全て陰性だった。あのキツネがウイルスの運び屋である可能性が高まった」
筒井が首を傾げてスコットに訊いた。
「でも人間はその病気にかからないんですよね? 生物兵器としての意味があるんですか?」
スコットが答えた。
「生物兵器が人間をターゲットにするとは限りません。むしろ、有効なワクチンが無い生物兵器を実戦で使用すると、味方の兵士や民間人をも危険にさらします。現代の生物兵器は、家畜や穀物をターゲットにするんです」
松田が、大きく息を呑んだ。
「防衛大学校の講義で聞いた事があります。家畜や穀物の病気を蔓延させて、食料不足を引き起こし、交戦国の社会を混乱させる。それが最近の生物兵器の主流になりつつあると」
渡があごひげをしごきながら言った。
「なるほど。日本中の鶏が全滅したら、えらい事になるな」
筒井が未だに首を傾げている。
「鶏だけでそうなりますか?」
遠山が口元に笑いを浮かべて筒井に訊いた。
「筒井君、君の好物は何だい? たとえば丼物なら?」
「ええと、親子丼ですかね。あ!」
「そうだ。鶏肉も卵も入手不可能になれば親子丼は食べられなくなる。輸入しようにも、世界中にこのウイルスが広がっていたら?」
「わわわ。フライドチキン、卵焼き、唐揚げ、焼き鳥も!」
宮下が横から言う。
「お菓子にも鶏卵を材料にしている物は山ほどあるわ。特に発展途上国では家禽の肉は重要なたんぱく源だし」
渡が言う。
「鶏だけでも、日本の食糧事情は大混乱になる。さらに、牛、豚をターゲットにしたウイルスが作られたら、日本の飯は江戸時代に逆戻りだな」
「もう一つ、おかしな点があるんです」
芦屋が付近の地図を広げて言った。
「3か月ほど前から、この地域一帯で鳥インフルエンザの感染が確認された養鶏場の位置です。あまりにもバラバラに離れ過ぎている。間にも養鶏場はいくつもあるのに、飛び越えるようにして感染が伝播しています。普通こういう広範囲の感染なら、もっと帯状に広がらないと不自然だ」
渡が言う。
「あの巨大キツネがウイルスを運んでいるから。そう考えると説明がつくと言うのかね?」
芦屋がうなずいた。松田が腰を上げながら言った。
「自衛隊に連絡しておきます。あの巨大キツネを攻撃するとウイルスをまき散らしてしまう危険性がある、と」
芦屋がハッとして松田に言う。
「確かに。あのキツネの血液が空気中に飛び散ったりしたら、ウイルスが拡散するかもしれない。鳥インフルエンザウイルスも、基本的に空気感染だ。それに、本当に人間に無害なのかどうかも、確証はない」
話が終わり、一同は黙り込んでしまった。今は打つ手が無かった。遠山が立ち上がり、おどけた口調で提案した。
「さて、まだ寝るには早いし、今後に備えて酒でも飲んで英気を養いましょうか。僕が買って来ますよ。女刑事さんは何がいいかな?」
宮下が口をとがらせて抗議する。
「もう! 毎回毎回、からかわないで下さい! あたしが下戸だって事はご存じでしょ?」
「ははは、冗談、冗談。宮下君には、ずんだシェイクでも買って来るよ。じゃあ、ちょっと行って来ます」
部屋から出て行く遠山を、呆気にとられた表情で芦屋が見つめていた。それに気づいた渡が不思議そうな顔で訊く。
「芦屋君、どうかしたかね?」
「はあ」
芦屋はポカンとした口調で答えた。
「遠山ってあんなキャラでしたっけ?」
「うん? 昔からああだが。軽薄と言うか、お調子者と言うか」
「ずいぶん……変わったんですね」
「ん? 遠山君がかね?」
「僕らは帝都理科大学大学院の同期なんですよ。あの頃は、いつも暗い顔をしてろくに他人と話をしない、内向的な性格だったのにな。あの遠山が冗談や軽口を言うようになるなんて、想像もできませんでしたよ」
「そうだったのか? あの男がねえ」
翌日、柚葉のサンプルの詳細な検査結果が出た。検査機関から戻って来た芦屋は信じられないという表情で、昼食後にまた全員を渡の部屋に集めた。
「こんな事があるなんて、信じられない」
タブレット端末のデータを見ながら芦屋は言った。
「あの女の子の血液からは、あの改変された鳥インフルエンザウイルスに対する抗体が大量に検出されました。ウイルスのRNAも見つかった。ここまでは分かる。ですが、ウイルスのRNAは病原性に関わる塩基配列が大きく変異している」
遠山が顔を曇らせて訊く。
「ウイルスの変異? 人間に感染するようになっているとでも?」
「逆だ。ウイルスが人間に対しても、鳥類に対しても、病原性を失っている。つまり、どんな動物にも無害に変異しているんだ。巨大キツネの体毛から検出されたウイルスも同じだった」
その芦屋の答に渡が身を乗り出した。
「因果関係が逆だったという事か? あの巨大キツネは、生物兵器のウイルスを運んでいいるのではなく、体内で無毒化している?」
芦屋が頭を振りながら力ない声で言った。
「そうとしか考えられません。鳥インフルエンザのウイルスを体内に取り込んで変異させ、無毒化した変異ウイルスを広げている。その変異ウイルスに感染した動物は、人間も含めて、生物兵器としてのウイルスに対して免疫を獲得する」
遠山も目を見開いて呆然とした表情でつぶやいた。
「まるで生ワクチン……」
「俺も今、その言葉を言おうと思っていた。あの巨大キツネは、生きたワクチン製造機のような物だ」
筒井が紙の古びた本を手元で広げながら言う。
「キツネって、九尾の狐みたいな災いの象徴として語られる事もあれば、神の使いとして神聖視される事もありますよね、日本では。正反対のイメージが同時に存在している」
渡があごひげをしごきながら、独り言のように語り始めた。
「数百年に一度、新しいウイルスが自然界に生まれ、その度にキツネの中からウイルスを変異させる特別な個体が出現し、病気の流行を抑えて来た」
遠山が言う。
「それが今回の巨大キツネだと?」
渡が小さくうなずいた。
「病原体に関する知識が無い時代の人間には、二通りの解釈が生まれただろう。キツネが現れたから疫病が起きたという解釈。そしてキツネが現れたから疫病が収まったという解釈。今回の我々と同じだ」
翌日の早朝、スコットは宮下を連れて旅館から出かけて行った。宮城県警の情報センターに赴くと、既にアメリカ大使館から要請が来ていたようで、すぐに防犯カメラの映像記録を見せられた。
係官がスクリーンに次々に映し出す街の風景の中に、同じ人物が映っていた。それは鋭い目つきをした白人の男だった。スコットがその男を指差しながら宮下に言った。
「本国の情報機関から知らせがありました。彼の呼び名はポーカー。東欧を拠点とする武器密売マフィアの幹部です。彼が生物兵器らしき容器を持って日本に入国したと」
宮下はその男の特徴を目に焼き付けながら言う。
「この男が鳥インフルエンザウイルスを撒いているという事ですか?」
「はい。それなら鳥インフルエンザの感染が、点々と起きた事の説明がつく。おそらく感染の広がり具合をテストでもしているのでしょう。これまでは日本の家畜防疫体制で防げましたが、これ以上続くと危ない」
宮下は係員に告げた。
「捜査班の協力を要請します。署長には私から話を通します」
ただちに県警の捜査チームが招集され、スコットと宮下は覆面パトカーを借りて、現在の防犯カメラのリアルタイムの映像を元に、ポーカーに迫った。
ポーカーは再び、篠田養鶏場の近くに向かっていた。ポーカーの乗る車の位置を県警の捜査員から受信しながら、慎重に接近する。
山に近い道路の端にポーカーの車が停まった。宮下とスコットは車を降り、徒歩で近づく。
別の小さな養鶏場の側でポーカーがアタッシュケースを開き、中から金属製の密閉容器を取り出したところで、宮下が拳銃を構えて飛び出した。
「フリーズ(動くな)!」
宮下が銃口を突きつけて叫ぶ。ポーカーはぎょっとして体の動きを止め、しぶいしぶ両手を肩の上まで上げた。
ポーカーの背後からスコットが忍び寄り、アタッシュケースを地面から拾い上げ、急いでポーカーから距離を取った。ケースの中を調べたスコットは、宮下に向かって大きくうなずいて見せた。
スコットは英語でポーカーに向かって言った。
「君を生物兵器禁止条約違反の疑いで拘束する。まず日本の警察に逮捕される。その後、アメリカ合衆国に引き渡される。おとなしく従えば生命、身体の安全は保証する」
ポーカーはふてくされた表情でうなずき、手を挙げたまま宮下の方へゆっくり歩み寄った。そして一瞬の隙を突き、片脚で舗装されていない道の泥を蹴り上げた。
泥を浴びた宮下が銃口の狙いを外し、顔を覆う。ポーカーは横の山の斜面を駆け上がった。
樹木が鬱蒼と茂る中に逃げ込んで行く。すぐに後を追おうとした宮下とスコットの視界に、金色の毛皮が見えた。
がさがさと木々が大きく揺れ、ギャーという悲鳴とともに、ポーカーの体が数メートルの高さに持ち上げられた。
その体は、巨大な口の牙に挟まれていた。あの巨大なキツネの頭部が木々の上に見えた。そのままキツネはポーカーの体を噛み砕く。
そして巨大キツネは血まみれのポーカーの死体をくわえたまま、山の森の奥深くに走り去って行った。
宮下が茫然とそれを見送りながら言う。
「まるで犯人だと知っていたみたい」
スコットが慎重に容器をアタッシュケースに戻しながら宮下に言う。
「プロフェッサー・ワタリの推理が正しければ、そうかもしれません。ウイルスの発生源として、あのモンスターも奴を探していたのかもしれない」
生物兵器であるウイルスの回収は成功した。残った問題は、巨大キツネをどうするかだった。
芦屋は強硬に、キツネの生きたままの捕獲を主張した。
「あのキツネは、今まで人類が発明してきたどんなワクチン製造技術よりはるかに優れた代物だ。今後出現する全く未知のウイルスにも対応できるかもしれない。殺すなどもってのほかです」
既に自衛隊の一個小隊が近くに待機していたが、結論が出ないまま、渡たちは旅館に留まる事にした。
スコットは生物兵器の容器を持って、米軍のヘリコプターで横田基地へ向かって去っていた。
旅館の広間で久しぶりにゆったりと食事をとりながら、渡研の面々と芦屋はとりとめのない話をしていた。
筒井が卵焼きを頬張りながら言った。
「そう言えば、遠山先生への手紙って、結局ただの偶然だったんですね」
芦屋が不思議そうな顔で訊いた。
「え? 何の話です?」
遠山が例の手紙の話をすると、芦屋は心底驚いたようだった。
「ここは篠田理子の実家がある所だったのか? 確かにすごい偶然だ」
松田が、おや?という表情で訊いた。
「三人ともお知り合いだったんですか?」
芦屋は大きくうなずきながら答える。
「そろって帝都理科大学の大学院の同期ですよ。同じ生物学研究室で、同じ年に博士課程を修了したんです。そうだ、遠山。おまえ、理子と付き合ってたんだろ? 別れちまったのか?」
遠山以外の渡研の全員が、驚いて遠山の顔を見る。遠山は遠くを見つめるような目で、小さくつぶやいた。
「理子が死んだのは、僕のせいなんだ」
遠山は話しながら回想する。あれは大学院博士課程の2年次、若き日の遠山、芦屋、篠田理子がそれぞれの博士論文の執筆作業の仕上げに取り掛かり始めた頃だった。
3月に入り、指導教官の立ち合いで、同じ研究室の所属だった3人は、論文の内容の模擬発表を行っていた。その日は篠田理子が発表のため、ホワイトボードの前に立った。
彼女が説明を始めて20分ほど経った頃、論文の草稿のコピーを読みながら聞いていた遠山が「あ?」と声を上げた。
「はい? 遠山君、どうかした?」
「い、いや……」
遠山は口ごもり、視線を逸らた。
「何でもない」
篠田理子が先を続けようとするのを芦屋が遮った。
「待った、篠田君。17番の引用論文のID番号、それで間違いないか?」
彼女は焦って草稿の最後にある論文ID番号の一覧を見る。白髪の指導教官の教授が笑いを含んだ声で言った。
「篠田君、こっちの論文じゃないか?」
そう言ってノートパソコンに映し出した論文を彼女に見せた。篠田理子はその論文のID番号を確認すると「あちゃ!」と子どもの様な声を上げた。
「別の論文のID書いちゃってた! 危なかった」
指導教官は笑いながらも厳しい口調で言った。
「よく似たタイトルだから、私でもうっかりすると間違えそうだな。だが、それはそれとして気をつけなさい。このまま提出したら却下されかねんよ」
その夜、篠田理子が遠山のアパートを訪ねて来た。部屋に入るなり、彼女は少し怒った表情で遠山に詰め寄った。
「何よ、昼間のあれは? 遠山君、あの間違いに気づいてたよね? どうしてすぐに指摘してくれなかったのよ」
遠山はふてくされたような表情で畳の上にあぐらをかき、横を向いた。
「気づいていなかった」
他の皆の前で彼女に恥をかかせたくないと思った。その本音は口に出せなかった。
篠田理子はなおも体を近づけて詰め寄る。
「芦屋君はすぐに教えてくれたじゃない」
遠山はバンと拳で畳を叩いて声を荒げた。
「だったら芦屋と付き合えばいいだろう! あいつは僕と違って、いいとこのおぼっちゃまだしな」
「誰もそんな事言ってないじゃない!」
篠田理子はそのまま荒々しくドアを閉めてアパートを去って行った。
一通り話したところで、遠山は渡研のメンバーの顔を見渡しながら自嘲気味に言った。
「翌日、理子の下宿先に行ったら、長距離バスで帰省したところだと言われました。その年の3月10日の事です。本当は3月12日に二人で仙台へ発つ予定でした」
筒井が遠慮がちに尋ねた。
「どうして理子さんは独りで行ってしまったんでしょう?」
遠山は苦い顔で答える。
「僕に愛想を尽かしたんだろう。僕が大学に入学する直前に父親が会社をリストラされてね、自殺してしまったんだ」
他の全員がはっと息を呑んだ。遠山の言葉が続く。
「金に不自由した事のない身から、突然貧乏学生に転落さ。父親のようにはなりたくない。だからサラリーマンにだけはなりたくないと思って研究者の道を選んだ。いや、その道に固執したというべきかな。周りの学生はみんなそれなりの経済状況の家庭の連中ばかりだった。僕の目にはどいつもこいつも敵に見えていた」
渡が低い声で言う。
「君にそんな過去があったとはな」
遠山は自虐的な笑いを顔に浮かべて言う。
「今にして思えば、完全な独り相撲ですよ。学生生活を謳歌している周りの学生たちが妬ましくて仕方なかったんです。特に篠田理子は、仙台の代々の大地主の家柄とかで、まぶしかった。だから彼女に対してもいつも意地を張ってばかりいた」
芦屋が沈痛な口調で言う。
「知らなかった。そんな事があったのか」
遠山は自虐的な笑みを浮かべたまま言う。
「あの時、僕がおかしな意地を張らなければ、理子が仙台に発つのは3月12日になるはずだった。そうなっていたら、彼女は3月11日の震災の日に仙台にいなかった。僕が彼女を死なせたようなものだ」
翌日の早朝、まだやっと夜が明けた頃に、松田が旅館のそれぞれの部屋の渡研のメンバーを叩き起きして回った。
窓の外を見て、大あくびをしながら遠山が訊いた。
「どうしたんだ? まだ6時前じゃないか」
松田は深刻な表情で答えた。
「あの巨大キツネへの、攻撃が開始されます。待機している陸自の小隊にたった今その命令が出ました」
「何だって?」
パジャマのまま松田と一緒に廊下に飛び出す。渡の部屋の前で、他のメンバーと芦屋があわてた口調で話し合っていた。
渡が松田に尋ねた。
「なぜ突然そんな命令が出たんだ?」
松田は首を小さく振りながら答える。
「自分には詳しい事は分かりません。ただ、巨大キツネのウイルスが人間には無害だという話だけが切り取られて伝わってしまったようで」
少し離れた所でスマホでどこかに電話をかけていた筒井が、皆の所へ駆け寄って来た。
「この一帯は、与党の副幹事長の選挙区なんです。地元住民の、早く退治してくれという陳情に、党が動いたみたいです」
「止めないと!」
芦屋が叫ぶように言った。
「あれは数百年に一度しか現れないかもしれない、貴重なサンプルなんだ。今後のワクチン開発、感染症研究の存亡に関わる」
その言葉をよそに、遠くでパパーンと銃声らしき音が響いた。
陸上自衛隊の2個小隊が二手に分かれて、左右から挟み撃ちにする形で巨大キツネに攻撃を開始した。
ドローンで上空から巨大キツネの位置を監視し、迫撃砲を森の中に撃ち込んで追い出す。
森から出て来た巨大キツネに、遠距離から機関銃の弾丸が雨のように浴びせられた。キツネの金色の毛皮のあちこちに赤いしみが広がった。
怒り狂って片方の小隊に突進した巨大キツネに、携帯対戦車弾が至近距離から命中し、その巨体は腹から大量の血を流しながら、よろよろと、ある方向に歩いて行く。
小隊の隊長が大声を上げた。
「撃ち方やめ! 住宅密集地に入った」
巨大キツネは、ふらつく足取りである一軒の家屋へ近づいて行った。そこは篠田養鶏場だった。
住宅のそばへ行き、二階の窓に鼻面をあて、キーとか細い声を上げた。
警察が住民を避難させ、張っていた規制線のロープをくぐり抜けて、一人の少女が家屋に向かって走り出した。警察官が止めようとしたが、少女の脚の方が早かった。それは篠田柚葉だった。
柚葉は家の中に飛び込み、冷蔵庫からイチゴのパックを丸ごと持ち出した。そのまま家屋をぐるりと回り、巨大キツネが座り込んでいる場所へ走り寄る。
キツネは柚葉の姿に気づくと、地面に腹ばいになり、懐かしそうにケーンと高い声を出した。
柚葉はパックのイチゴをその巨大な口に落とした。キツネは目を細め、イチゴをゆっくりとかみしめた。
「やっぱりフモちゃんだったんだね」
柚葉は血まみれになった巨大なキツネの鼻先を手で撫でながら、小さな子供に話すようにゆっくりと言った。
「難しい事は分かんないけど、がんばったんだよね。もういいんだよ、がんばらなくて。もう終わったんだって。だからね……」
キツネの頭部が、ドンと音を立てて地面に落ちた。もう開く事はないまぶたの辺りを、柚葉は優しくなで続けた。
結局巨大キツネは絶命し、その死体は自衛隊によって研究施設へ搬送される事になった。芦屋は悔やんでも悔やみきれないという口調で、死体からでは大した情報は取れないだろうと言った。
翌日の朝に東京へ向けて発つ事にした渡研のメンバーと芦屋は、昼過ぎに篠田家へあいさつに行った。
理沙と柚葉が家の広間で迎え、筒井が不意に言い出した。
「そうだ、遠山先生。あの手紙の内容、お二人が何かご存じなのでは?」
遠山が篠田理子から送られた手紙の便せんを理沙と柚葉に見せる。が、二人とも首をひねるばかりだった。
筒井がスマホであの和歌の字面を見ながら不思議そうに言う。
「どうして地名が二つとも平仮名なんでしょうね? 元の和歌には漢字で書いてあるのに」
理沙が便せんを見つめながらつぶやく。
「いずみなる、しのだの森……あっ、ひょっとして!」
理沙が回覧板を部屋の隅から取り出して、皆に見せた。篠田家の住所が書いてある。彼女が指差した場所には「仙台市泉区」とある。
全員があっと声を上げた。渡が言う。
「なるほど、字は違うが、いずみ、だ。この辺に、しのだという名の付く森林はありませんか?」
柚葉が目をきらきらさせて言った。
「ねえ、お母さん。裏山の林の事じゃない?」
「ああ、そう言えばそうかも。我が家は代々、この辺りの地主ですので、地元の人たちが篠田家の森と呼んでいる雑木林があります。うちの姓も字は違うけど、しのだ、だし」
とりあえず全員でその雑木林へ行ってみる事になった。
そこは篠田家から歩いて行けるほどの距離だった。森というほど大規模ではないが、それなりに樹木が茂り、斜面を少し登ったあたりに平たい空き地があった。
理沙が皆を案内して斜面を登りながら言った。
「昔は林業もやっていた場所らしいですけど、今はもう十年以上ほったらかしになっていて」
平たい空き地には、様々な丈の低い雑草が生い茂っていた。筒井がきょろきょろと見回しながら言った。
「ここに葛という植物があるのでは?」
芦屋が苦笑しながら言った。
「そこらじゅうに生えているよ。君の足元のそれも葛だ」
「ええ! こんなにいっぱい? だったら、どれかが特別というわけじゃない?」
「いや」
遠山が空き地の真ん中に立っている一株の葛の方に歩いて行く。
「だな」
芦屋もニヤリと笑って同じ場所へ歩き出す。
二人は幾重にも重なったその葉に触って確かめた。遠山が筒井に言った。
「これは造花だ。作り物だよ」
皆がその場に集まって、葉を触った。
「本当だ。何かの樹脂ですね、これ。遠山先生も芦屋先生も、よく一目で分かりましたね」
芦屋が笑いながら答えた。
「これでも生物学者の端くれだからね。とは言え、これがどうしたんだ?」
柚葉が突然ぶつぶつとつぶやき始めた。
「うらみ葛の葉……うらみ……待てよ、理子おばさんのギャグセンスなら」
柚葉は遠山に向かって言った。
「先生、もしかしたら、裏を見ろ、って意味じゃない?」
遠山が声を立てて笑う。
「この葉っぱの裏に何か書いてあるとでも? そんなわけは」
一番上の葉を裏返した遠山の目が丸くなった。その作り物の葉の裏にはマジックで「こ」と一文字だけ書いてあった。
遠山と芦屋が片っ端から葉を裏返すと、さらに下に向かって一文字ずつ書いてあり、つなげると「ここをほれ」となった。地面近くの葉の裏には、ご丁寧に下向きの矢印が記されていた。
遠山が呆れ顔で言う。
「ここ掘れワンワンってか? 僕は昔話の犬か? しかし掘るにしても何か道具が要るな」
松田が背負っていたリュックを降ろしながら言った。
「それならお任せ下さい」
そう言って松田はリュックから、柄が折り畳み式の小ぶりなスコップを取り出し、伸ばして地面に突き立てた。
「これで掘れます」
渡が感心して言う。
「君はいつもそんな物を持ち歩いているのかね?」
松田は得意そうな笑顔で答えた。
「陸上自衛官の、野外活動での必需品であります。では、みなさん、少し下がって下さい」
ほんの20センチほど掘ったところで、スコップの先に何かが当たった。松田が慎重に周りの土を取り除くと、長さ50センチほどの楕円形の物体が出て来た。
遠山が表面を触って言った。
「ステンレスの箱だな。学校でタイムカプセルを埋めるとか、そういう時に使うあれだな」
箱は上下二つに分かれて開いた。中に紙包みがあり、表面にこう書いてあった。
「遠山君へ。君が選んでね」
その中にはフォトブックが一冊入っていた。
それを開いて見た一同はまたあっと声を上げた。10枚のプリントされた写真がフォトブックに収まっている。
それは、どこかの写真スタジオで撮影した物なのだろう、違うタイプのウェディングドレスを着た、篠田理子の写真だった。
それを手にして、遠山はその場にしゃがみ込み、子どものように大声で嗚咽を漏らし始めた。
渡が他の全員を、両手を広げて空き地の端へと誘導した。
「男だって泣きたい時はある。しばらくそっとしておいてやろう」
筒井がもらい泣きした涙をぬぐいながら言う。
「綺麗な人だったんですね。それに逆プロポーズだなんて、大胆」
渡が首を傾げて言う。
「若いのにずいぶん保守的な事を言うじゃないか。プロポーズに逆も順もあるまい。女性からプロポーズしちゃいかんという決まりなどないぞ」
芦屋が何か思いつめた表情で言った。
「失って初めてその貴重さが分かる。あの巨大キツネと同じだ」
渡がうなずきながら言う。
「遠山君にとっては、あの篠田理子という女性こそが、まさしく葛の葉狐のような存在だったのかもしれんな」
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