まだ夏の初旬だというのに、日差しが強く蒸し暑い日の昼近く、東京都内の大通りの交差点で国会の選挙のキャンペーンが行われていた。
選挙カーのかたわらに置かれた高さ20センチほどの木箱の上に、まずその地区の候補者本人が立ち、演説を始めた。
「有権者の皆さま。この度、与党公認候補として立候補いたしました。我が国の平和と経済再生を、必ずや実現するために……」
大勢の通行人が足を止め始めた頃、選挙運動員が下から小声で何かを候補者に告げた。候補者はパッと顔を輝かせて、聴衆に向き直り興奮気味の口調で告げた。
「みなさん。たった今、元衆議院議長でいらっしゃる阿武隈先生が、私の応援に駆けつけて下さいました。阿武隈先生からお言葉をいただきたいと思います」
初老だが黒々とした髪の阿武隈が選挙カーの上に上がってマイクを受け取った。
「有権者のみなさん、阿武隈です。本日は、この、我が党の将来をしょって立つであろう若手候補にみなさんの清き一票を是非投じていただきたく、お願いに参りました。この候補はそんじょそこらの口先ばかりの連中とは違います。何事につけ、やらない理由を考えるのではなく……」
その時、30代ぐらいに見えるラフな服装の女性がすたすたと歩いて選挙カーの真下に近づき、大きな花束を阿武隈に向かって持ち上げた。それに気づいた阿武隈は、わざとらしく目を丸くして見せ、満面の笑顔を浮かべて身をかがめた。
「これはどうも。これは素敵な物を」
次の瞬間、阿武隈の表情が曇った。花束の中心に細い鉄パイプのように見える物があったからだ。
花束の根本の方を右手で持ち上げていた女の左手が、花束を包んでいる新聞紙から垂れ下がっている小さなスイッチの様な機械に触れる。
カチッという音がして、次の瞬間、ドーーンという鈍く低い爆発音が周囲に響き、阿武隈の周りに白煙が吹き上がった。
そのまま阿武隈は後ろ向きに尻もちを突き、横向きにばたりと倒れ込んだ。左胸の辺りから血が細い線を描いて流れていた。
とっさに何が起きたのか理解できず、茫然としていた候補者がやっと我に返って大声を上げた。
「あ、阿武隈先生!」
選挙カーの下に降りていたウグイス嬢がキャーと甲高い悲鳴を上げる。周囲を警護していた私服警官が4人、走り寄って花束の残骸を手に持ったままの女を取り囲んだ。
花が全て吹き飛ばされた残骸の中央に1本の金属パイプが見え、新聞紙が剥がれ落ちて丸見えになったその手元には、木を削って手作りしたらしい拳銃のグリップの形の物体と、電気コードが数本絡まった何かの仕掛けが見えていた。
女は警官たちに抵抗する素振りも見せず、その銃のような物をアスファルトの路面に放り出し、選挙カーの上の台を見上げながら、乾いた笑い声を上げた。そして大声で叫んだ。
「国賊成敗! あはは、あはははは、ははは!」
周囲の警官が3人がかりで女の体を地面に押さえつけた。選挙カーの側では、男性の選挙スタッフが震える声で周囲の群衆に叫んだ。
「どなたか、医療関係の方はいらっしゃいませんか? それと、AED、誰かAEDを持って来て下さい!」
選挙カーから降ろされ、地面に横たえられた阿武隈は既に意識がないようで、候補者と他の選挙スタッフが必死で心臓マッサージを行った。
候補者が周りの誰にともなく叫んだ。
「銃で撃たれたんだ! 救急車、救急車を早く!」
ようやく何が起こったのかを理解した周囲の群衆がざわつく中、銃撃をした女の高笑いが、押さえつけられている路上から辺りに響いた。
「あははは、あははは、あはははは!」
渡研の研究室のテレビに、その銃撃の光景は録画映像として繰り返し流されていた。
ちょうど昼休みの時間で、メンバー全員が研究室に揃っており、その異様な出来事を食い入るように見つめていた。遠山が珍しく真面目な口調でつぶやいた。
「嘘だろ、ここは日本だぞ。真昼間に路上で銃撃って」
筒井も身を乗り出してテレビ画面を見つめながら言う。
「それも現職の国会議員で元衆院議長。これ政治家に対するテロですよ。日本でこんな事件、何十年ぶりだろう?」
テレビ画面には何度も、阿武隈の容態は「心肺停止状態」と記されたテロップが流れていた。
「もう死亡しているって事ね」
宮下がつぶやく。それを聞いた松田が首を傾げて問う。
「どういう事でありますか? 死亡したとはまだ一度もアナウンサーは言ってませんが」
「法律上、人の死亡を宣告できるのは医師だけなのよ。だから医師の死亡診断が正式に出るまでは、警察としては心肺停止状態という言い方しかできないの」
筒井がうなずきながら言った。
「そういう状況の時の決まり文句なんですよ、松田さん。あたしたちマスコミも、もう死亡していると分かっていても、そういう風に伝えなきゃいけないんです」
渡がいつもよりせわしなくあごひげをしごきながら、怒気を含んだ口調でつぶやいた。
「それにしても、あれはどう見ても手製の武器だぞ。いくら日本の銃規制が厳しくても、あんな物を作ってしまえるんじゃ、警察も防ぎようがない。なんて時代になったんだ」
宮下のデスクの上に置いてあったスマホが鳴った。宮下は通話相手の名前を見ると、素早く部屋の隅へ走って行き、他のメンバーになるべく聞こえないように小声でやり取りした。
通話が終わり、宮下は渡のデスクの前に来た。
「渡先生、本庁から呼び出しがかかりました。今日はこれで失礼させていただいてよろしいですか」
渡は大きくうなずきながら答えた。
「そうか、君はテロ対策の部署の刑事だったな。もちろんだ。すぐに行って来たまえ」
翌日の朝、宮下はいつも通りの時間に渡研の研究室へやって来た。そして全員を渡のデスクの前に集めて話を切り出した。
「警視庁から渡研に調査協力の依頼があります。昨日の阿武隈議員銃撃の件で」
渡のデスクの上には新聞の長官が広げてあり、一面で大きく、阿武隈が昨日の夕方、病院で死亡と確認されたという記事が、銃撃の瞬間の写真付きで報じられていた。
渡が眉を傾げながら宮下に訊く。
「医学部の法医学教室に検死の依頼とかなら分かるが、なんでうちなんだ?」
宮下がカバンから小さな透明のビニール袋を取り出しながら遠山に視線をやって言葉を続けた。
「警察の現場検証で回収された花束の破片なんですが、説明できない点が出たんです。それでこちらに」
遠山がビニール袋を見つめながら言う。
「花びらのかけらのようだけど、これがどうかしたのかい?」
ビニール袋の中には青い花びらの断片が数枚ある。宮下が袋を遠山に手渡しながら言った。
「花束の中にチューリップが入っていたんですが、その花びらが青かったんです。それも花びら全体が青一色の」
筒井がきょとんとして訊く。
「え? 青いチューリップなんて花屋で普通に売ってますよね?」
遠山が「は、はあん」と得意げな声を出した。宮下に向かって言う。
「染めた色ではなかった、そういう事かい?」
宮下がうなずく。
「はい。青い色素で染めた花びらではない、そこまでは警察の検査で分かっています」
遠山が小さくうなずきながらつぶやく。
「青いチューリップか。なるほど、そりゃ渡研の出番なわけだ」
なおも筒井はキョトンとした顔をしていた。
「え? あの、遠山先生。だから青いチューリップなんて珍しくないんじゃ?」
遠山はにやにや笑いながら、自分の顔の前で人差し指を立てて横に振って見せた。
「君が花屋で見た事がある青いチューリップはね、花びらを後から青い色素で染めた物なんだよ。自然界には、青い花びらのチューリップは存在しないんだ」
「ええ? そうなんですか?」
「ひと昔前になるが、有名な食品メーカーの研究所が、青いバラを遺伝子操作で作り出す事に成功して、ニュースにもなったのを覚えていないかい? あれも同じだ。自然界には青一色の花びらのバラは存在しない」
渡が口をはさんだ。
「青いバラは昔から存在しなかったから、西洋ではこの世ならざる物のたとえにもなっていた。青いバラは霊界、あるいは魔界の産物という扱いだったんだよ、ファンタジー小説とかではね」
筒井は目を丸くして言う。
「そうだったんですか? 全然知らなかった」
遠山がビニール袋を手に持って見つめながら言う。
「青いチューリップも同じ事なんだ。そしてチューリップの方は、青い花が開発されたという話は未だに出ていない。こいつの出所が分かれば、犯人のバックグラウンドにつながる。そういう事かい、宮下警部補さん」
宮下が腕組みをして答える。
「そういう事です。あの犯人は、原子力発電所の再稼働を推進していた阿武隈議員に天誅を下したとか、そういう供述をしているようです。ですが、どうやってあんな銃を手作りできたのかについては、あやふやな供述ばかりで。警視庁ではバックに何らかの組織があるのではないかと疑っているようです」
渡が宮下に訊く。
「単独犯ではないという事かね? あの犯人はテロ組織か何かの一員だと?」
「それはまだ分かりません。むしろ不明な事が多過ぎて、うちの上司が言うには、藁にもすがる思いで渡研に協力を取り付けて来いと」
「おいおい、私たちは藁かね?」
「あ、いえ、すいません。決してそういうわけでは……」
「ははは、冗談だ。それで、あの手製の銃の構造は分かったのかね? 火薬は何だ? 通常の銃の火薬ではないと思うが、あの白煙の多さから考えると」
「鉄パイプの底に火薬とボールベアリングの玉を詰めて、電気発火で爆発させたようです。使われた火薬は、ニトログリセリンだという鑑定結果が出ています」
「ニトロだと? だとしたら結構な量だな。今の日本で素人が簡単に入手できる量じゃないという意味でな。よし、遠山君、学長には私から話しておく。徹底的に調べてくれ」
翌々日の午後、渡研の研究室に全員が集合した。応接スペースの向かい合った長いソファに向かい合って腰かけ、各自が収集して来た情報を照らし合わせた。
「それで容疑者の素性はどこまで分かった?」
渡がそう話を切り出すと、宮下が真っ先に手を挙げた。
「容疑者の名前は佐藤加奈子。所轄の警察署の取り調べに対しては、犯行そのものは認めています。まあ、現行犯ですし。動機は、原発を再稼働させて日本を滅ぼそうとしている国賊を自分が裁いたとか、そういう供述をしているようです」
渡が眉間にしわを寄せて訊いた。
「原発事故からの避難者か何かなのか?」
これには筒井が手帳を見ながら答えた。
「いえ、容疑者自身は、福島の原発事故からの直接の被害は何も受けていません。福島には住んだこともないようですね。ただ、原発事故避難者の生活支援を行っているNPOに在籍していたようです。ほんの一か月前まで」
渡のしかめ面がますますひどくなった。
「代わりに復讐と言うか、罰を下したとでもいうのか? そんな事をして一番迷惑をこうむるのは、その避難者の人たちだろうに」
次に松田がタブレットの画面を見せながら言う。
「あの武器ですが、製造法それ自体はネット上に多くの情報があります。まあ、昔の火縄銃のような原理で、材料さえ揃えば一般人でも作る事は理論上は可能です。とは言え、実際に製造するとなると、それなりに手間暇がかかるはずなのですが」
渡が自分の書類の束をテーブルの上に広げて言う。
「あの手製銃に使われたのはニトログリセリンだという事だったが、確かにわずかな量なら日本でも合法的に入手する事は可能だ。今でも一部だが、狭心症の治療薬として製造や輸入は行われている」
松田が目を大きく開いて質問した。
「火薬が薬になるんですか?」
「今は硝酸系のニトロ基を持つ薬品が主流に変わっているがね。以前は心臓の持病を持つ人がカプセルに入れて持ち歩いていたもんだ。もっとも医薬品の場合のニトロは爆発しないように添加物が加えられているが。宮下君、容疑者はニトロの入手先について何と言っている?」
宮下が警察手帳のメモ欄を見ながら答えた。
「海外からネット通販で個人輸入した医薬品としてのニトログリセリンを少しずつ抽出して貯めたと供述してます」
渡は口をへの字に曲げて言う。
「辻褄は合うが、どうも引っかかる。まだ30代の日本人が、それも理系の学歴、職歴もない一般人が単独犯で出来る事なのか?」
遠山が自分のタブレットを操作しながら言った。
「さて、僕の番のようですね。あの青いチューリップですが……」
遠山のタブレットの画面に、遺伝子の塩基配列を示すアルファベットの列がずらりと並んでいた。
「結論から言うと、街中に出回っている園芸種ではないようです。むしろ野生種の特徴の方が強い。花びらが青いのは、デルフィニジンという色素が活性化しているせいですね」
渡があごひげをしごきながら訊く。
「本来チューリップにはその色素はない、という事かね?」
「いえ、あります。いくつかの植物の種、たとえばバラは元々デルフィニジンを作る遺伝子を持っていません。だから青いバラは遺伝子操作をしないと作り出せなかった。チューリップはデルフィニジンを作る遺伝子そのものは持っています。しかし、デルフィニジンを発現させる別の酵素を作る能力が無いんですね」
筒井がボールペンをくるくると指で回しながら言った。
「じゃあ生物学的には、青いチューリップを作る事は可能という事ですか」
遠山は額に曲げた右手の指をあてて、ためらいながら答えた。
「そういう事にはなるんだが、その別の酵素をどうやってチューリップに持たせるかが問題だ。青いチューリップの作成は世界中の園芸業者が長年研究してきたはずだ。もし、どこかが成功していたとしたら、今どうなっているはずだと思う?」
遠山の問いかけに筒井は即座に答えた。
「とっくに大々的に発表されてニュースになっているはずですよね。あたしの社で調べた限りでは、世界中どこの報道機関にもそんな発表は届いていません」
渡がソファの背もたれに深く背中を埋めて言った。
「今回の件で唯一、辻褄が合わない点があるとすれば、その青いチューリップの出所だな。植物の品種改良などを手掛けている企業、団体、研究機関、そういった物と容疑者との間に何か接点が無いか、みんな改めて探ってみてくれ」
渡以外の4人はすぐに席を立って、研究室を出て行った。窓の外では西日にあぶられるように、むっとする蒸し暑い空気が漂っていた。
翌日の夕方、パンツスーツの上着を脱いで腕に掛け、汗をぬぐいながら筒井は住宅地を歩いていた。
陽が傾いているとは言え、気温は優に30度を超えたままで、地面のアスファルトから立ち昇る熱気が筒井の体からさらに汗を拭きださせる。時折風が吹いたが、まるでヘアドライヤーの熱風を浴びせられたように感じた。
筒井は今回の銃撃事件の犯人、佐藤加奈子の知人を一人ずつ訪ねて回っていた。彼女の近況を近しい人間から聞き出す事で、何か手掛かりになり得る情報を得られないかと考えたからだ。
筒井があるマンションの近くで待っていると、目当ての人物がやって来た。佐藤加奈子が職員として勤務していたNPOの理事である、中年の女性だ。
そのNPO団体の法人登記簿を役所で閲覧し、たまたま記載のあった彼女の住所を調べていた筒井は、自宅へ向かう理事にゆっくり近づいて声をかけた。
「あの、すいません。少しお話を聞かせていただけませんか?」
「はあ? あなた誰?」
理事の女性は怪訝そうに目をしかめたが、筒井が若い女性であるからか、それほど警戒している様子ではなかった。筒井は新聞記者の名刺をカバンから取り出して手渡した。
「私はこういう者でして」
「ああ、記者さんね。だったら佐藤加奈子さんの事かしら?」
「はい、そうなんです。最近の佐藤加奈子さんの様子に何か変わった事とかありませんでしたか?」
理事の女性はハンカチでパタパタと顔をあおぎながら、面倒くさそうに答えた。
「何かもなにも、あの人は一か月前にうちの団体を辞めてるの。あんな事件を起こすなんて、辞めてくれた後で良かったわ。うちに在籍中に事件起こされてたらと思うと、ゾッとするわ」
「辞めた? 理由はご存じですか?」
「何て言うかねえ。言う事があまりに過激すぎて、すっかり周りから浮いちゃってたのよ。まあ、辞めたのは本人の意思だけど、実際には追い出されたってのが正確かもね」
「過激な、とは具体的にはどういう事です?」
「うちの団体は今、原発事故の避難者の人たちの生活支援をしているの。それはご存じ?」
「あ、はい。それは聞いてますが」
「原子力発電なんかもう必要ない。新しいエネルギー資源を大いなる自然から授かる、とか言い出してね」
「新しいエネルギー資源?」
「それが何かは知らないけどね。どうも何かの宗教団体に入信したらしいのよ。ま、いわゆるカルトって物でしょうね」
手帳にボールペンでメモを取っていた筒井が思わず顔を上げた。
「カルトですか?」
「多分ね。どんな宗教かは私も知らないけど、他の職員にまでしつこくその集会に行くように誘うようになって、私の所にも苦情が頻繁に来るようになっていてね」
「その宗教団体の名前とか憶えていませんか?」
「さあ、こっちも適当に聞き流していたしね。あ! そううだ。以前彼女から押し付けられたパンフレットがあった。まだ私の家にあるかも。ちょっとここで待っててくれる?」
「はい、お願いします」
理事の女性は一旦マンションに入って行き、15分後に一枚の紙を持って筒井の所へ戻って来た。
「あったわ、これよ。その宗教団体の勧誘のチラシみたいね。持って行っていいわよ、どうせゴミに出すつもりだったし」
筒井はそのチラシを受け取って、理事の女性に頭を下げた。
「ありがとうございます。助かります」
「じゃあ、話はこれでいいかしら? 私が知っているのはそれで全てよ」
「はい、お時間を取らせて申し訳ありません」
「この暑いのに聞き込みとは、新聞記者さんも大変ね。それじゃ」
女性はまたマンションの中へ戻って行き、筒井はもう一度頭を下げて、最寄りの駅に向かって歩き出す。カバンに仕舞う前に、渡されたチラシに目をやる。
そこには派手な字体で煽り文句が並んでいた。
「裁きの日は近い。今こそ人類は自然の摂理に立ち返る時です。私たちは人類を救済する大自然の意思を伝えます」
筒井が団体名を探す。それはチラシの右下にあった。
「世界連帯弥勒(みろく)宗門」
翌日の朝、渡研の研究室に皆が集まったところで、筒井はチラシの件を報告した。チラシの内容を一通り読んだ渡が、仏頂面で言った。
「以前に教授会の会合で見た名前だな。毎年春になると新入生を勧誘しようと学内に入り込んで来る連中がいると言って、注意喚起があった事がある」
渡は応接スペースのテーブルの上でチラシを宮下の方にすっと滑らせた。
「警察ではマークしていなかったのか?」
宮下はチラシをのぞき込みながら答える。
「今回の事件が起きるまでは、公安は完全にノーマークだったようですね。よくある新興宗教で、特に被害の報告もありませんでしたし」
遠山が横からチラシを引き寄せて言った。
「名前からして、仏教系カルトみたいだ。しかし書いてある事が稚拙だな。いろんな既存宗教の終末論のパクリだね、こりゃ」
松田が腕組みをして言う。
「手製の銃で政治家を銃撃するなんて、そんな大それた事が新興宗教団体に出来る物なんですか?」
「あり得ないとは言い切れませんよ」
筒井がタブレットの画面を見ながら言った。
「90年代にはカルト団体が東京の地下鉄の中に毒ガスを撒いて大事件になった事もありますから。でも、この世界連帯弥勒宗門という団体、うちの会社でも知っている記者はほとんどいませんでした。宗教団体としての結成もほんの5年ほど前で、あまり世間では知られていないようです」
渡が宮下に訊く。
「ニトログリセリンの入手経路は分かったのかね」
宮下が首を横に振る。
「容疑者の供述にあるようなネット通販の購入履歴は確認されていません。国内で調達したとしても、あれだけの量を医療関係者でもない一個人が購入できるはずもありませんし、現時点では不明としか言いようがないです」
筒井がテーブルの上に身を乗り出して渡に言う。
「渡先生、こういう時は正攻法に限りますよ」
「正攻法?」
「あたしがその宗教団体の代表に直接話を聞きに行きます。うちの新聞社の名前出せば、向こうも無下には断れないでしょうしね、今の状況だと」
「おいおい、大丈夫なのか? 本当に危険な組織かもしれんのだぞ」
「万一の時は、刑事さんと自衛官さんがいるじゃないですか、こっちには。二人とも頼りにしてますよ」
そう言って筒井は宮下と松田に向かって投げキッスの動作をして見せた。
三日後、世界連帯弥勒宗門の広報部からインタビューの許可が出て、筒井は教団の本部へ赴いた。
松田が運転する車に乗り、念のため宮下も同行。群馬県南端の山間部にある過疎の村へ向かった。その人里からさらに遠く離れた山の斜面に、教団の本部はあった。
数キロ四方に全く他の人家がない、山の斜面の下に場違いな、昔のインドの宮殿のような形の建物があり、その背後は見渡す限りの山林になっていた。
入り口で筒井を出迎えた信者は、まだ若い長髪の異様にやせた男で、筒井だけが中に入るようにと告げた。松田と宮下は駐車場の車の中で待つ事にして、筒井は肩掛けバッグを持って彼の後に続いて、教団の建物の中に足を踏み入れた。
一階は大きなホールになっていて、映画館か劇場のように座席が多数並び、奥に説教壇があった。階段を昇り2階の一室に通される。
途中の壁や階段の手すりには、なんともサイケデリックな装飾や彫刻が施されていた。
応接室らしき10畳ほどの部屋の椅子に座らせられ、そこで待つように言われた。これもけばけばしい模様の付いたティーカップでお茶らしき物をサイドテーブルに出されたが、何か妙な香りがするので、筒井は口をつけなかった。
たっぷり10分待たされた後、教団の代表者が数人に信者を引き連れて部屋に入って来た。信者たちは普通の作務衣のような服を着ており、代表者は東南アジアあたりの仏教僧のような、全身を覆う袈裟(けさ)に身を包んでいた。
その大きな袈裟はオレンジ色の布に金色の糸で刺繍を一面に施した派手な物だった。40代ぐらいのでっぷり太った、白髪交じりの髪をぼうぼうに伸ばしたその代表者は信者たちから「尊主(そんしゅ)様」と呼ばれていた。
その尊主は筒井の向かい側の、豪華なひじ掛け付きの椅子に座り、話を促した。
「遠い所をよくおいで下さいました。私が世界連帯弥勒宗門の代表者です。何なりとご質問をどうぞ」
筒井は一度立ち上がって深々と頭を下げ、椅子に座り直した。ここは下手に出ておいた方が得策だ、という新聞記者としての勘が働いた。
「こちらこそお邪魔させていただいて恐縮です。では、始めさせていただきます」
筒井が阿武隈・元衆院議長の銃撃事件の事を口にすると、尊主はすぐに掌を前に突き出して話を遮った。
「その事件の事は既に知っております。あの佐藤加奈子さんという女性が、私たちの教団に3か月前に入信していた事は事実です」
筒井は手帳にメモを取りながら、相手の口調や声色の変化に耳を澄ましていた。少し突っついてみる。
「では銃撃事件との関係を認めるのですか?」
「まさか! それとこれとは別の話です。むしろ私どもの方こそ迷惑しておるのですよ。私どもの教義は、弥勒菩薩のお力による全人類の救済です。たまたま私どもの信者の中に、あのような暴挙に出る人間がいた。それだけです」
「こちらの教団は原子力発電に否定的だという話がありますが、その点については?」
「否定はいたしません。ただ誤解のないように。私どもが反対の立場を取っているのは原子力だけではなく、あらゆる人工的なエネルギー資源の乱用です。石炭、石油などの、いわゆる化石燃料も長期的には廃止していくべきである、という考えです」
「佐藤加奈子容疑者はこちらの団体の理想を体現するために銃撃をしたと供述しているらしいですけど?」
「それはあの方の勝手な解釈です。私どもには、自然の恩恵としてのエネルギー資源が十分にあるのです。俗世の人たちはその事に気づいていない。その事実を広く世界に知らしめ、不毛な戦争や争いを無くす。それが私どもの目標なのです」
「そのエネルギー資源とは具体的にはどんな物なんですか? 太陽光発電とか地熱発電とか?」
「母なる大自然の中に既に存在している物ですよ。これ以上の詳しい事は、教団の教義ですので、信者でない方にはお話できません」
筒井はさらに質問を重ねたが、尊主は難解な「教義」への言及に終始し、これ以上の情報を聞き出す事は無理だと筒井は感じた。
筒井はインタビューの終了を告げ、椅子から立ち上がった。尊主は信者たちに彼女を玄関まで見送るように命じ、後ろから筒井に声をかけた。
「記事を書かれる時は、私どもの教団に世間の誤解が生じないよう、配慮をお願いしますよ。私どもは暴力を否定しこそすれ、決して推奨する者ではありませんので」
3人の信者たちに前後をはさまれた格好で、筒井はさっきの階段を下った。一瞬、筒井の視線が1階のホールの奥の壇上に吸い寄せられた。
筒井は奥の祭壇を指差して、側にいる信者の男たちに尋ねてみた。
「あれがこちらのご本尊ですか? 最後にちょっと見せてもらっていいですかね?」
信者の男たちは一瞬戸惑ったが、最年長らしい男が答えた。
「はい、是非ご覧になって下さい。あ、ただ、写真撮影はご遠慮下さい」
ホールの奥の少し床が高いステージ状の場所へ行くと、一体のブロンズ製の仏像があり、その周囲に様々な花が飾ってあった。
人間と同じぐらいの大きさのその仏像は、右足を左足の太ももの上に乗せた格好で腰かけ、右手をあごの近くまで持ち上げた姿勢をしていた。
「私どものご本尊、弥勒菩薩様でございます」
信者たちは両手を胸の前で合わせながら言った。
「末法の時代に、この世に降臨し、我々迷える者たちをお救い下さる救世主でもあります」
筒井は仏像の周りの多くの花に目を凝らした。その中には花びらが真っ青なチューリップが数本混じっていた。
何食わぬ表情で筒井は信者たちに問いかけた。
「綺麗なお花ですねえ。みなさんで栽培なさっているんですか」
「いえ」
最年長の信者の男が答える。
「在家の信者のみなさんから、季節の花々をいつもご寄進いただいておりまして。有り難い事です」
筒井は謝辞を述べて建物の外へ出た。扉を閉めたところで、背後からさっきの尊主が走り寄って来て信者たちにきつい口調で言う。
「手筈は出来ているんだろうな?」
信者の一人が小声で答えた。
「はい、若い者に尾行させます。それで尊主様、いかがでしたか? やはり怪しいと?」
「いや、ただの新聞記者の好奇心だとは思うが、念には念を入れて、やつの自宅を突き止めておけ。それにしても、あの女、とんでもない事をしでかしてくれたもんだ。教団の秘密を持ち出して、政治家を銃撃して殺すなどとは!」
研究室に戻り、筒井が教団本部での出来事を渡たちに報告すると、渡は右の手で額を抑えて唸るような口調で言った。
「確かに青いチューリップがあったという点は気になるが、それだけでは何とも言えんな」
宮下もうなずいた。
「警察が動くには確証に欠けますね。なにかもっとはっきりした事実をつかまないと」
遠山が目を輝かせながら言う。
「いっそ、その裏の山を調査してみたらどうです? もし青いチューリップを自分たちで栽培しているのなら、そこに何か手掛かりになる物があるかもしれませんよ」
渡が膝を叩いて応える。
「確かに。山の反対側から登ってみるか」
遠山がにこにこした顔で言う。
「いいですね。がんばって来て下さい」
「何を他人事みたいに言っとる。君も一緒に行くんだ」
「え? いや、その、僕は山登りは苦手でして」
「生物学者の君が一緒でないと、調査は出来んだろうが! 大体、フィールドワークが苦手な生物学者が、どこの世界にいるか?」
「ええ、どうしてもですか?」
「研究室の室長としての命令だ。遠山君も同行!」
「とほほ……」
その後筒井は、定期報告のために一旦勤務先の新聞社に立ち寄り、それから地下鉄に乗って郊外のマンションに向かった。
途中のコンビニで弁当と飲み物を買い込み、4階の部屋へ入る。筒井が中に入ると、エアコンが稼働している以外には何も無いがらんとした1LDKの部屋の中で松田が待っていた。
「ねえ松田さん、やっぱ考えすぎじゃない? わざわざ部屋借りてまで偽装しなくても。まあ、費用は宮下警部補経由で警視庁が払ってくれるからいいけどさ」
松田はカーテンに自分の影が映らないように、床にうずくまったまま応える。
「あの教団からの帰り道、車が尾行されていた可能性は高いんです。用心に越した事はないですよ」
しばらくしてドアのチャイムが鳴り、筒井がドアに近づくと一定のリズムで、コッコッココーンとドアを叩く音がした。
「打ち合わせ通りの合図だ。宮下さんです。筒井さん、ドアを開けて」
宮下が大きめのトートバッグを下げて部屋に入って来た。筒井が苦笑しながら言った。
「なんか大げさだなあ。スパイ映画みたい。でも尾行なんてされてなかったでしょ?」
宮下はいたずらっぽく微笑みながら、バッグから望遠レンズ付きのデジタルカメラを取り出しながら言った。
「いいえ、しっかり尾行されてたわよ。ほら」
宮下がカメラのモニターに次々と映像を映して見せる。そこには作務衣のような服を着た男の後ろ姿があり、その奥に筒井の後ろ姿が映っていた。
写真に撮られた場所は、今筒井たちがいるマンションのエントランスの側にまで及んでいた。筒井の顔が少し青くなった。
「ひいい! もし自分のマンションだったら、アウトだったあ」
宮下が壁伝いに窓の側へ行き、そっと締め切ったカーテンの端を動かして外の様子を見た。
「多分、部屋番号まで特定されてるでしょうね。山登りは早い方がよさそうね」
宮下からの尾行に関する連絡を受けた渡は、翌日の早朝から山の調査をすると通知して来た。
朝からカンカン照りの猛暑の中、車であの教団の本部がある山の反対側に回り、全員で登山服に着替えて木に覆われた斜面を登った。
森の中を進むと日差しが遮られて多少涼しく感じたが、それでも蒸し暑い事に変わりはなく、渡研の5人は汗を拭きながら山頂へ向かって進んだ。
どちらかと言うと人の手が入っていない感じの、まばらに樹木が茂っている上り坂が続き、特に変わった様子はなかった。
さして高い山ではないので、2時間ほどで山頂にたどり着き、そこで休憩した後、あの教団の本部がある方向に今度は斜面を下る。
斜面の真ん中当たりの高さまで来た時、遠山が何かに気づいた。
「おや、あの辺りだけ妙に開けてますね」
遠山が指差した場所は、確かに樹木が伐採されて広々とした空間になっていた。近づいて見ると、半径100メートルほどの大きさの円形に切り拓かれた場所になっていた。
その真ん中に、高さ10メートル程の奇妙な樹木が1本だけ、ポツンとそびえ立っていた。
青黒い幹が地面から真っすぐ上に伸び、頂点の辺りからだけ、太い枝が横に伸びて傘のようになっている。遠目には一枚に見えた葉は、軸の左右に深緑の小さく細い葉がびっしり並んだ、葉の集合体だった。
枝からは、青黒いラグビーボールのような形の実がたくさんぶら下がっていた。そして、その奇妙な樹木の周りの地面には、一面に青いチューリップが、その円形の空き地を埋め尽くさんばかりの数で花を咲かせていた。
渡が遠山に訊く。
「遠山君、あれは何の木だ? 私は見た事がない種類だが」
遠山は双眼鏡で樹木の全体を少しずつ観察しながら、唸り声を出した。
「あれは木生シダでしょうね」
[シダ?」
渡が不思議そうな声で言う。
「シダというのは草じゃないのか? あれはどう見ても樹木だぞ」
遠山は双眼鏡に目をあてたまま、信じられないという口調で答えた。
「現生種であればそうですね。ですが太古の時代には、巨大な樹木の形態を持つシダ類の植物が存在した事は知られています」
筒井が手を額の上にあててその樹木を見ながら訊いた。
「いつ頃の昔なんですか?」
遠山が頭をかすかに横に振って言う。
「あれは知られていない種だな。そもそも骨が無い植物は化石になりにくい。植物の化石と言われる物はほとんどが、土の表面に押し付けられて残った葉っぱの外形とかなんだよ。植物そのものの生態は謎という方が普通だ」
松田が円形の場所を指差して言う。
「一体なぜそんな植物が日本にあるのですか?」
遠山がやっと双眼鏡を目から離して言った。
「明らかに人の手で植えられた物だろうね。だからあの辺りだけ、きれいに他の木が伐採されているんだ。もっと近くへ行ってみましょう。青いチューリップに囲まれているというのも気になる」
さらに斜面を下り、円形の開けた場所の縁に着いた。宮下が樹木の枝の下の一点を指差して言った。
「あそこ、地面がえぐられているような感じですね。土がむき出しになってます。まるで何かの爆発の跡みたい」
渡がさらに樹木に近づくべきかどうか考えていると、彼らの左手にある森の草地から何かが近づいて来る、ガサガサという音がした。あわてて5人は近くにあったわずかに地面がくぼんだ場所にしゃがみ込んだ。
その草地から出て来たのはイノシシだった。渡がほっとした口調で言った。
「なんだ、野生のイノシシか。結構でかいな」
イノシシは渡たちの存在には気づいていないようで、巨大なシダの樹木に悠々と近づいて行き、牙で地面を掘り返し始めた。何か餌になるような物を見つけたらしく、地面の奥に鼻面を突っ込む。
その時、シダの樹木の枝にぶら下がっていた実の一つが突然枝から離れて落下し、イノシシのすぐ横に落ちた。
次の瞬間、地面に落ちた実がバンという轟音を発して小さな爆発を起こした。イノシシの体は数メートル吹き飛ばされ、横腹から血がしたたり落ちた。
それを見た宮下が思わず大声を上げた。
「爆発! これは一体どういう事?」
渡も遠山もとっさには答えられなかった。傷を負ったイノシシはよろよろと身を起こし、その場を離れようとノロノロと歩き出した。
別の場所の草地から別の何かが走って来る足音が聞こえた。蹄の音特有の乾いた足音が響き、それが円形の場所に姿を現した。
渡研の5人は今度は思わず息を呑んだ。それはワニに見えた。やや細身の胴体と長いあごをもつワニで、背中には縦に3列に鱗が盛り上がって背びれのようになっている。
何より異様なのは、そのワニの四肢は胴体からほぼ真っすぐに下に向かって伸びている事だった。約1メートルの長さの脚で地面を軽快に走る。その全長は7メートルはある。
その直立のワニは、手負いのイノシシめがけて一直線に駆け寄り、大きな口を開けてイノシシの頭に噛みついた。必死に抵抗するイノシシの首あたりをワニのあごが噛み砕き、イノシシはピクピクと痙攣するだけになった。
その巨大なワニはイノシシの体をくわえて引きずりながら、元の草地の向こうに消えて行った。
直立歩行のワニの姿が完全に見えなくなり、渡研の5人は隠れていた窪地から身を起こした。
「遠山君、今のは何だ?」
渡にそう問われるまでもなく、遠山はリュックから取り出したタブレットで検索を始めていた。やがて手を止め、タブレットの画面を皆に見せる。
「多分これです」
画面にはさっき目撃したのと同じ、4本の脚をまっすぐ縦に伸ばして地面に立つワニのイラストが映し出されていた。違いは背中にひれ状の突起の列がない事ぐらいだ。遠山が説明を始める。
「プリスティカンプススという絶滅したはずの陸棲のワニですね。化石から推定されてきたサイズよりはかなり巨大な様ですが」
筒井が目を丸くして訊く。
「ワニって水辺の生き物じゃないんですか?」
「現生種はそうだね。だが歴史的には、陸上での生活に適応したワニは結構いたんだよ。もしプリスティカンプススなら、新生代古第三紀に繁栄していた種だ。今から6千6百万年前から2千3百万年前の時代だ」
宮下が興奮した口調で遠山に訊く。
「あの爆弾のような実の植物もその時代の?」
遠山は首を傾げてあいまいな答えをする。
「それは僕にも分からない。だが同じ時代になら、巨大な樹木としてのシダ類が繁栄していた可能性はある。時期にもよるが、新生代古第三紀は地球全体が温暖化していた時期だとされている。現在の地球温暖化によって、地球のどこかにわずかに生き残っていた樹木性シダが再び生息域を拡大し、あの陸ワニも一緒に数を増やしている。その可能性はあるな」
渡があごひげをしごきながら低い声で言った。
「今爆発があった地面の辺りからサンプルを採取しよう。これは有力な手掛かりになりそうだ」
筒井と宮下に念のため周囲の見張りを任せ、渡と遠山が、さっきイノシシが掘っていた地面にそっと、足音を響かせないように慎重に近づいた。松田が万一の用心に二人のすぐ後ろからついて行き、シダの樹木の枝の様子を見張る。
小型のスコップでイノシシが掘り返していた土を少しずつすくって行くと、シダの巨木の方から伸びて来ていると思われる地下茎が見えた。さっきのイノシシに引きちぎられたようで、根の本体からは切り離されている。
さらに、その地下茎は近くの青いチューリップの球根を取り巻くように絡んでいた。渡と遠山はそのシダの地下茎と青いチューリップの1株全体を掘り起こし、保管用の大きなプラスチックケースに入れた。
それらを地面から引き抜いた時に、渡、遠山、松田の3人は一斉に地面に伏せた。松田が体を起こし。枝を見つめながら二人に言う。
「大丈夫です。落ちて来る様子はありません」
それから筒井と宮下が待っている円形の場所の縁に戻り、ケースを渡のリュックに詰めた。渡が遠山に言う。
「戻ったらただちに分析を頼む。青いチューリップと爆発する実。これはもう偶然と考える方がおかしい」
遠山が不敵に笑いながら応えた。
「任せて下さい。こりゃ久しぶりに腕が鳴る仕事です」
筒井が息をはずませて宮下に言った。
「宮下さん、これであの教団の捜査が始められますよね?」
だが宮下は渋い顔で首を横に振った。
「まだ無理よ。あの教団と関係があると決まったわけじゃない」
「どうしてですか? あんな怪しい植物と怪獣みたいなワニまでいるのに。宮下さんだってその目で見たでしょう?」
「あの巨大生物と教団に関係があるという証拠はまだないでしょ? 今の時点で家宅捜索とかの令状は下りない」
それから山を下りていると、下の方から数人がこちらへ向かっている姿が見えた。それが作務衣姿の男たちである事に気づいた宮下は、自分のリュックからつばの広い麦わら帽子と大ぶりなサングラスを取り出し、筒井に付けるように言った。
「どうしたんですか? 急に」
そう訊く筒井に宮下は鋭い口調で告げた。
「これで顔を隠して。あなたは教団の連中に顔を知られているでしょ!」
渡たちと教団の信者4人が斜面で顔を合わせた。渡たちの前に立ちふさがるような恰好で並んだ信者たちの一人が渡に向かって言う。それは筒井が取材に行った時に応対した年長の男だった。
男は渡に言う。
「ここで何をしているんですか? この辺りは私有地ですよ」
渡は大げさにうれしそうな声を上げて答えた。
「いや、これは助かった! 実は地質調査で山を歩いていたら、道に迷ってしまいましてね。人里に出られる道を教えていただけますか?」
信者の男は渡たちの服装を見て、少し表情を和らげた。
「そうでしたか、それはお困りでしたね。私たちが麓までご案内しましょう。ところで」
信者の男は、目を鋭くして訊いた。
「何か大きな音を聞きませんでしたか? バンというような」
渡は斜面の上を見上げながら落ち着いた口調で答えた。
「そう言えば猟銃の音がしたようですな。この辺りは猟師さんが多いんですか?」
信者の男の顔から完全に警戒の色が消え、かすかに笑顔になった。
「熊が出たんですよ。私たちも心配して様子を見に来たんです」
「く、熊ですと!」
渡はことさら驚いた様子を演じて見せた。
「熊が出るんですか? この辺りは?」
「ええ、ですから案内人も連れずにこの辺の山を歩き回らない方がいいですよ。さ、こちらへ。バス停がある所までお連れしますから」
信者の男たちと一緒に1時間ほど斜面を下り、教団本部が遠目に見える県道に出た。信者の男が渡たちに言う。
「ちょうどいい。5分もすればバスが来ます。あそこがバス停です」
渡が笑顔で礼を言う。
「これは助かりました。すっかりお世話になって」
信者の男は胸の前で両掌を合わせて笑顔で言う。
「いえ、困っている方を見かけたら、お助けするのは私どもの義務でございます。それでは、これで」
信者たちが背を向けて立ち去ろうとした時、突然筒井が帽子とサングラスをはずして、あの年長の信者に大きな声で語りかけた。
「あら、あの時の信者さんじゃありませんか? 先日はどうも」
年長の信者がビクッとして振り返り、筒井の顔を見て顔をこわばらせた。
「あの時の新聞記者……どうしてここに?」
筒井は無邪気そうに微笑んだ顔で答えた。
「今日はこの大学の先生たちの研究の取材なんです。また会えるなんて偶然ですね」
信者の男は頬を引きつらせたが、作り笑いを保ちながら言う。
「そうでしたか。これは御仏(みほとけ)のお導きというものでしょう。それでは、お気をつけてお帰りを」
信者の男たちは足を早めて教団本部の方へ去って行った。バス停に着き、信者たちの姿が完全に見えなくなったところで、宮下が筒井の肩を掴んで怒気を含んだ声を上げた。
「何を考えてるの? 自分から顔をさらすなんて」
「あたしが襲撃されるとか?」
飄々とそう答える筒井に、宮下の口調がさらに強まる。
「そうよ! もし連中があなたを拉致しにでも来たら……」
「そうなれば警察が動けますよね?」
「え? 何を言って?」
「連中があたしを拉致するためにあのマンションにでも侵入してくれば現行犯で逮捕できるじゃないですか。そうなれば出番ですよ、警部補さん」
宮下が唖然として言葉を失う。路線バスが近づいて来るのを見た渡が言った。
「その話は研究室に帰ってからゆっくり検討するとしよう。まずは私たちの車の場所まで戻るぞ」
それから二日間、遠山は山から採取して来たサンプルの分析に没頭し、筒井は警視庁が用意した例のマンションの一室に閉じこもっていた。
宮下と松田は筒井がいるマンションの周囲に交代で見張りに付いた。筒井の身に何事もなく、三日目の相変わらず蒸し暑い日の昼過ぎ、渡研のメンバーは研究室に集合した。
遠山が壁の大型スクリーンに分析結果の資料を映し出す。それぞれのデスクに座って見つめるメンバーの前に立ち、遠山が説明を始めた。
「まず核心からだ。あのシダ植物の実の破片から、少量のニトログリセリンが検出された」
宮下が驚きの声を上げた。
「植物がニトログリセリンを合成していると言うんですか?」
「そういう事になる。あり得ない事ではないよ。植物は自分で動けないから、草食動物から身を守るために様々な化学物質を体内に作り出す。代表的なのはアルカロイドと呼ばれる一群の物質だ。元々は動物にとっては毒だったはずだ。毒を体内で生産する事で動物に食べられるのを避けようと進化した」
渡が言う。
「その毒を物好きにも好んで摂取している動物が人類だ。そうだね、遠山君」
「はい、たとえば煙草に含まれるニコチン、コーヒーやお茶のカフェインなども植物が作り出すアルカロイドです。毒と薬は紙一重とはよく言ったものです。さて、草食動物の方もアルカロイドに耐性を持つ種が様々に進化してきた。ならばニトログリセリンを体内合成して、物理的に近寄って来る草食動物を撃退するよう進化した樹木性シダ植物が出現していた、というところだろう」
筒井が手を挙げて遠山に尋ねる。
「青いチューリップとはどういう関係が?」
遠山がスクリーンの画面を切り替えて答える。
「チューリップには、デルフィニジンという青い色素を発現させる酵素が無い。これは前に言ったよね。あの場所で採取したチューリップの細胞からその酵素が抽出できた。そしてその酵素はあの樹木性のシダの根からも発見された。シダの巨木と青いチューリップは共生関係にあるんだ」
松田が頭をかきながら遠山に質問する。
「自分はその分野は苦手でありまして。共生というのは?」
「全く異なる種類の植物、動物が生存のために一緒に生きていく事だ。今回の場合、あの樹木性のシダは光合成活動が弱いらしい。周りのチューリップの球根に自分の根を絡ませて、光合成由来の栄養を吸収しているのだろうね。一方、チューリップの方はデルフィニジンを発現させるための酵素をシダの根から吸収している」
松田がさらに訊く。
「チューリップの花が青いと何か生存に有利なのですか?」
「あのシダが繁栄していた新生代には何かそういう事があったのかもしれないね。花の色が違うのは異なる種の昆虫を受粉のために惹き付けるためだという説もあるが、この点は正直言って不明だ」
渡があごひげをしごきながら遠山に言う。
「あの陸棲のワニはどう説明する?」
「あくまで仮説ですが」
そう前置きして遠山は説明を続けた。
「樹木性のシダにとっては、草食動物は爆発で追い払えればそれでいい。そこで傷を負った大型草食動物を格好の餌にするために、常に近くに陸棲ワニが棲息していた。近くにあのワニがいる確率が高ければ、大型の草食動物は恐れて近寄らない。これはシダの巨木も助かる。三者による共生関係が成立するわけです」
宮下が手帳を見ながら言う。
「あの教団の代表者は信者を連れて何度も南米に渡航しています。もしやアマゾンの奥地であの巨大なシダとワニを持ち帰ったのかもしれません」
筒井が言う。
「あの教祖が言っていた、自然のエネルギー資源というのは、そのニトログリセリンの事だったんじゃないでしょうか? 渡先生、ニトログリセリンはそういう資源になりますか?」
渡は顔をしかめて答えた。
「現在の化石燃料や原子力発電を全て代替するのは無理だろうな。仮にやろうとしたら、日本中の山をあの古代シダで埋め尽くさないと足りない。未知のエネルギー物質発見に興奮した連中の妄想に過ぎん」
その夜、正確には日付が変わった深夜、作務衣を着た教団の若い信者4人が、筒井が滞在しているマンションに忍び寄っていた。
人気のない夜の暗がりに混じって、オートロックの無いマンションのエントランスから侵入し、非常階段を駆け上がり、筒井のいる部屋のドアの前に並ぶ。
うち一人が腰に下げた布袋からピッキングの道具を取り出し、細い金属棒をドアのカギ穴に差し込んで、器用にロックを外した。
そっとドアを開け、足音を立てないように土足のまま中に入り込んだ。部屋の奥に簡易ベッドがあり、タオルケットを頭まで被った人の寝姿がその上に見えた。
別の一人が懐からスタンガンを取り出して、ベッドの脇に近づいた。スイッチを入れ、スタンガンの先にバチバチと音を立てて電流が走ると、その切っ先をベッドの上の人影の首のあたりに押し付けた。
全員でタオルケットをはぎ取ると、その下にあったのは、マネキンだった。全員がぎょっとした瞬間、ユニットバスルームのドアが開き、部屋の照明が点けられた。
明るくなった部屋にバスルームから出て来たのは松田だった。右手に短い金属製の特殊警棒を構えている。
信者の男たちは意外に冷静だった。一斉に松田に襲いかかろうとするが、松田の方が動きが素早かった。スタンガンを松田の警棒で叩き落された男が、他の3人に短く告げた。
「退け!」
男たちは松田とにらみ合いながら、その横をすり抜けて廊下へ次々と飛び出して行く。全員が外へ出ると、松田が後を追う。
非常階段を男たちが駆け下り、扉の外へ出た所に、宮下が右手で拳銃をまっすぐに構えて立っていた。狼狽する男たちに向けて宮下は左手で警察手帳を縦に広げて言い放った。
「住居不法侵入、拉致誘拐未遂の現行犯で逮捕します。全員手を挙げて動くな!」
男たちは舌打ちしながらも、おとなしく両手を肩の上に上げた。宮下の背後に2台のパトカーがすっと滑り込むように走って来て停まり、中から制服警官たちが降りて来て、男たちを取り囲んだ。
そして夜が明け、警視庁と群馬県警の合同捜査部隊が世界連帯弥勒宗門の本部ビルを包囲した。代表者の出頭を求める警察隊に対して、ビル内に立てこもった信者たちは鉄パイプと電気式起爆装置から成る手製の銃で発砲して来た。
警察側は機動隊の突入を決定。窓を割って突入して来た機動隊員に動揺した信者の一部はその場で投降し拘束された。
尊主と数名の年長の信者たちはビルの裏手から山へ逃げ出し、追って来る機動隊員たちに向けて時折手製の銃を発砲した。
手製銃の弾丸が尽き、山の斜面の一角に追い詰められて包囲された尊主たちの背後から、陸棲のワニがのっそりと姿を現した。
機動隊員たちは後ずさる。尊主は勝ち誇った表情と口調で立ちはだかり、ワニに向かって言う。
「我らの守り神様、あの世俗の権力の犬どもを蹴散らして下さいませ。わははは、我らに手を出せるものか」
巨大陸棲ワニはゆっくりと尊主たちの背後に近づき、そして尊主の上半身を一気にあごの中に飲み込んだ。ワニが口を閉じると、骨が砕ける音が響き、下半身だけが口の外に飛び出している尊主の脚をつたって血の流れが地面にしたたり落ちた。
尊主の周りにいた信者たちは口々に悲鳴を上げた。
「馬鹿な! 守り神様がなぜ尊主様を?」
「話が違う! 俺たちは守っていただけるはずでは?」
「食われる、俺たちも食われるぞ。うわああ」
尊主の体を全て呑み込んだ陸棲ワニは山の茂みの中に姿を消し、残った信者たちは機動隊員たちにすがりついて助けを求めた。
その日の夕方までに、教団の関係者は全て警察によって拘束、あるいは保護された。
渡研の研究室に集まっていたメンバーたちにその経緯が通知され、松田を通じて防衛省から渡に協力の依頼が来た。
自分のデスクに座って固定電話の受話器を置いた渡は、他の4人に向かって大声で告げた。
「さて最後の仕上げだ。陸上自衛隊が害獣駆除の名目で災害出動するそうだ。あのシダ植物と化け物ワニの退治を手伝うぞ」
翌日早朝、麓全体が封鎖された山の、本部教団のビルの近くに渡研のメンバーが車で到着した。既に自衛隊部隊は展開しており、隊長が渡の所へあいさつに来た。
迷彩柄の野戦服を着た隊長は、きびきびとした動作で敬礼し、作戦の内容を告げた。
「まず問題のシダの樹木を砲撃で破壊します。あ、ちょうど砲が到着したようです」
県道から本部ビルの敷地の方へカーブを切り、舗装されていない道の上を轟音を立てて近づいて来る車両が見えた。渡が目を見張って隊長に訊いた。
「戦車ですか?」
隊長は軽く笑いながら答えた。
「まあ、一般の方には見分けがつかないでしょうが、戦車ではありません。通称はロングノーズ、正式には99式自走155ミリりゅう弾砲と言います」
遠山が目を細めてその車体を見つめながら隊長に尋ねた。
「戦車とどう違うんですか?」
「戦車というのは近接戦闘が任務で、言わば敵兵が集まっている場所に正面から突撃するための装甲戦闘車両です。戦車の砲は言うなれば短距離徹甲弾砲、まあ一般には戦車砲と言いますが、水平方向に高速で砲弾を飛ばす物で、最大射程は千メートルから三千メートルほどしかありません」
隊長は本部ビルの手前に停まった自走砲を指差しながら言葉を続けた。
「あの大砲は長距離りゅう弾砲と言いまして、斜め上に向かって山なりに撃ち、遠方の目標を面で撃破する物です。砲弾は着弾すると内部の爆薬が爆発し、砲弾の殻が砕けて球状に飛び散り、半径数十メートルを破壊します」
筒井が隊長に言う。
「ええ? だったら危険じゃないですか? あの山は複数の所有者がいるそうだし、山火事にでもなったら」
隊長はうなずきながら答えた。
「はい、一撃で命中させる必要があります。そこで今回はレーザー誘導滑空弾を使用します」
「な、何ですか、それは?」
「通常、砲弾というのは発射した後で軌道の変更は一切できません。ですが、飛翔中に小さな翼を複数開いて、グライダーの様に気流に乗って落下地点を修正する事が出来る砲弾があるんですよ。着弾地点はレーザー光線で誘導します。これなら、狙った一点にピンポイントで命中させる事が可能です」
「へえ! で、どれぐらい遠くまで飛ぶんですか?」
「99式の場合、最大30キロメートルというところですね。山の斜面を登らなくても、この場所から余裕で届きますよ」
渡が感心したという表情で体長にまた訊く。
「そのレーザー誘導というのはどうやって行うのですか?」
隊長は松田の方を向いて答えた。
「それがあるので渡研のみなさんのわざわざご足労願ったんですよ。君が松田3尉だな?」
松田は直立不動の姿勢で背筋を伸ばし、敬礼した。
「はっ! 水陸機動団の松田であります! 現在は休職して渡研に出向中であります」
「君はドローンの操縦免許を持っているな?」
「はい! 取得しております」
「君には一時的に復帰してドローンの操縦を頼みたい。今言った滑空弾を誘導するためのレーザー光線をドローンから照射する任務だ。渡先生、よろしいですか」
渡がうなずいたのを確認して隊長は松田に命じた。
「野戦服はあちらのトラック内に用意してある。ヘリでシダ樹木を目視できる場所まで行ってくれ。詳細は同行する曹長が指示する」
松田が輸送トラックの方へ走って行き、県道の向こう側に人員輸送用の中型ヘリコプターが舞い降りて来ていた。
渡がまた隊長に訊く。
「あの巨大陸棲ワニはどうするんです。シダ植物を攻撃すれば必ず姿を現しますよ」
隊長は空の一点を指差しながら言った。
「化け物ワニはあれが仕留めます」
空の向こうから、もう1機のヘリコプターが山頂に向かっているのが小さく見えた。渡がその方向を見つめながら言う。
「もしや、戦闘ヘリ?」
隊長が答える。
「はい、AH-64D。通称アパッチ・ロングボウ。搭載しているヘルファイヤーミサイルで仕留めます」
松田は曹長とともにヘリで山頂上空に到達し、ロープをつたって地上に降下し、両手で持てる程度の大きさの6個のローターが付いたドローンとその操縦装置を担いで斜面を駆け下りた。
あの円形に開けた場所が肉眼で見える位置に到達し、それ以上は近づかず、ドローンを飛ばす。ノートパソコンに映し出されるドローンのカメラの映像を見ながら、松田は操縦機のスティックを指で操作した。
曹長が無線機の音声をスピーカーモードにして松田の耳元に掲げる。麓にいる遠山の声が聞こえて来た。
「松田君、聞こえるか? 遠山だ」
「聞こえております。遠山先生、どこに当てるのが確実でしょうか?」
「ドローンの映像はこっちでも見ている。シダ植物の真上へ行けるか? できるだけ高く」
「了解しました」
松田はドローンの高度を上げ、シダ樹木を真上から見下ろす位置につけた。数十秒後、無線機から遠山の声がした。
「松田君、真上から垂直に樹木の中心部を狙うんだ。それなら周辺への被害はおそらく出ない。自走砲の人たちにも連絡済みだ」
松田は手元の操縦機のスイッチを押してレーザー光線を照射した。大規模な会議などで使うレーザーポインターのそれに似た赤い光線がシダ植物のてっぺんに当たる。
曹長が無線機を自分の頬にあてて松田に言った。
「3尉、そのまま照準を保って下さい。砲手に指示を出します」
「了解。いつでもどうぞ」
曹長は山の麓の自走砲に向けて言葉を発した。
「砲撃実行されたし!」
ドンという鈍い音がかすかに麓の方から聞こえて来た。99式自走砲から発射された砲弾は最初斜め上に飛び上がり、弾道の頂点を過ぎて落下し始めたところで真ん中と尾部に折りたたまれていた合計8枚の小さな翼が次々と開き、まるでずんぐりしたミサイルの様な形状に変化した。
翼が空気に乗り、微妙に落下して行く方向を変えながら、先端の透明な部分の中にあるセンサーがレーザー光線を検知する。
砲弾は松田が照射し続けているレーザー光線があたっている箇所に、寸分の狂いもなく命中し、シダ樹木の幹を矢のように垂直に貫いた。
バンという爆発音がしてシダ植物の幹の真ん中あたりが一瞬膨れ上がり、そして弾け散った。枝から下がるニトログリセリン入りの実が多数、地面に転がり続けて爆発を起こす。
青いチューリップの茎と花びらが吹き飛ばされ、そこらじゅうで宙に舞った。幸い火災にはならないようだった。巨大なシダ樹木は、まるで落雷に打たれたように、白煙を上げながら地面に崩れ落ちた。
数秒後、グワァーという低い咆哮とともに、近くの草地から巨大陸棲ワニが駆け出して来た。上空で待機していた戦闘ヘリがそれを見つけて高度を下げる。
ヘリに気づいた陸棲ワニは尻尾で地面を蹴り、20メートルほど垂直に飛び上がった。その鋭い牙が並ぶ口先が戦闘ヘリまでわずか数メートルまで迫った。
戦闘ヘリは一度高度を上げ、またじわじわと高度を下げていく。陸棲ワニが上に向けて大きく口を広げた。
戦闘ヘリの機体下から陽の光の中でもまばゆい閃光が走った。対戦車用ヘルファイヤーミサイルが1機、まっすぐにワニの口の中に吸い込まれるように飛び込む。
ワニの巨大な胴体の、のどから尻尾の付け根あたりまでが一瞬ガクガクと震え、鈍い破裂音がしてワニの腹側からかすかな白煙が地面に向かって吹き出した。
巨大な陸棲ワニは足の支えを失って地面に突っ伏し、しばらく体を痙攣させていたが、ほどなく動かなくなった。
松田と曹長が持つ無線機から隊長の声が響いた。
「状況終了。各自帰投せよ」
翌週の月曜日、渡研の研究室で筒井はスマホで通話をしながら大声を上げて、他のメンバーを驚かせた。
「はあ? どういう事ですか、それは?」
渡が顔をしかめ、遠山、宮下、松田が何事か?という顔で筒井の方を見る。
「報道協定? じゃあ、あたしが送った記事は? ええ、そんなああ!」
スマホを切った筒井がしょんぼりと肩を落とす。隣のデスクの宮下がおずおずと声をかけた。
「筒井さん、何かトラブル?」
筒井は宮下の左肩に抱きついて、泣きそうな声を上げた。
「今回の一件のニュース、各社一斉での報道という事になっちゃったんですよ。あたしが一番先につかんだネタだったのに」
渡が興味深いという表情で筒井に訊く。
「報道協定とか言っていたな? どういう事かね?」
筒井は半べそをかきながら答える。
「あまりに重大な事件なんで、憶測やデマが流れるのを防ぐために当局の正式発表の後に、各社同時に報じるという協定が締結されたんですよ。おかげであたしの書いた記事はお預け」
筒井は宮下の腕に顔を押し付けて泣き出しそうな声で言う。
「せっかくスクープ決めて、本社に返り咲こうと思ってたのに」
宮下は苦笑しながら空いている手で筒井の頭をなでた。
「あらあら、それはお気の毒。ある意味、今回一番活躍したのはあなただったのにねえ」
トレイに乗せたティーカップを皆のデスクに配っていた松田も、気の毒そうな顔になって筒井のデスクにカップを置いて言った。
「まあ、これでも飲んで気を休めて下さい。今日はハーブティーなんで、神経が休まりますよ」
渡がハーブティーをすすりながら独り言のように言う。
「とは言え、あのシダ植物の入手ルートは未だに分からないままか」
筒井がやっと自分の体から離れたところで、宮下が真剣な口調で言う。
「先生、その事なんですが。逮捕された信者の複数が、あの植物の、ええと種じゃなくて、何て言ったかしら」
遠山が口をはさむ。
「胞子じゃないか? シダ類は種子を作らないからね」
宮下はおおきくうなずきながら言葉を続けた。
「そうそう、それです。その胞子をブラックマーケットから手に入れたと供述しているようなんです」
遠山が眉をしかめて訊く。
「連中が独自に入手した物ではないと?」
「教団の代表者が全て取り仕切っていたようで、それ以上の詳細は今は調べようがありません。あの代表者は死んでしまったし」
「同じ物を手に入れた、あるいはこれから手に入れる別の人間が出るかもしれないな」
筒井がデスクから立ち上がって声を高めた。
「ええ? だったら、早くその誰かを見つけ出さないと。宮下さん、その辺はどうなってるんですか?」
宮下はため息をつきながら首を小さく横に振る。
「それは無理よ。これから手に入れようとする人間を事前に特定して止める事は、警察では不可能」
「そ、そんな事言ったって、また似た様な事件が起きるじゃないですか」
渡が突然口をはさんだ。
「いや、宮下君の言う通りだ。今の時代、他人には理解不能な正義感や使命感に駆られてとんでもない蛮行におよぶ輩は日本中どこにでもいる」
渡はティーカップを持ったまま立ち上がり、窓の外に広がる東京の街並みをながめながら、つぶやくように言う。
「日本の人口は1憶2千万人超。この東京だけでも1千400万。この中から一体どうやって、どこの誰ともわからない、その『次の人間』を探し出せと言うんだ?」