テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
次に会うとき、どんな顔をすればいいのか――
そんなことばかり考えていた自分。
けれど、それは杞憂に終わった。
「おはよう」
いつも通りに部屋へ入ってきた誠が、いつも通りの挨拶をする。
それに少しの落胆を覚えながらも、一瞬だけ向けられた誠の視線に、私はまた動揺してしまう。
そんな自分に、思わず嫌気がさした。
無意識に顔をそらした私を見て、誠はほんの一瞬だけ顔をしかめたように見えたが、何も言わずそのまま部屋に入っていった。
しばらく忘れていたこの気持ちを、私はどう処理すればいいのか分からなかった。
唇を噛み締め、気を取り直してパソコンに目を向けた、ちょうどそのとき――
内線が鳴った。
「はい、副社長室、水川です」
「システム課の田中です。急ぎで副社長にご報告したいことがあります」
「確認します」
すぐに誠へ繋ぎ、了承を得たあと、ノックの音とともに田中さんが姿を見せた。
私はすぐに扉を開ける。
「副社長がお待ちです。どうぞ」
「田中、どうした?」
誠が問いかけると、田中さんは躊躇いながらも口を開いた。
「それが……副社長、先日の調査の件ですが――」
私は部屋を出ようとしたが、誠の一言がそれを止めた。
「水川さん、君もここにいてくれ」
驚いた私と田中さんが顔を見合わせる。
少し戸惑いながらも、「はい」と返事をして、その場に残った。
「続けて」
促された田中さんは、意を決したように言った。
「松田商事の件ですが……いくら調整を重ねても専務が納得されず、とうとう契約を解除したいと……」
「解除?」
誠の声が一段高くなる。
「はい。私の見る限り、不具合もなく、現場からも“なぜ契約解除なのか”と困惑の声が出ているほどです。……正直、経緯がまったく見えないんです。ですが、松田商事は昔からの大口クライアントですから……」
そのとき、ノックもなしに扉が開いた。
「誠君、何か揉めているようだね?」
木下専務のその言葉に、空気が一変する。
「専務。特に問題はありませんよ」
誠は表情を変えずに、笑顔で応える。
「そうかね? 今、ここで話していた件……私に任せてもいいんじゃないか?」
にやりと笑う専務に、田中さんは思わず声を上げた。
「……いつからお聞きになっていたんですか、専務」
「田中!」
誠が厳しく制すると、田中さんは悔しげに唇を噛み、黙り込んだ。
「専務、ご心配ありがとうございます。しかしながら、こちらは問題なく進めておりますので」
誠の淡々とした態度に、木下専務はわずかに苛立ちを見せ、
「……そんな余裕が持てるのも、今のうちだけだぞ」
そう捨て台詞を残して、副社長室を後にした。
誠は大きく息を吐き、視線を閉じた扉へと向ける。
「……やっぱりな」
苦々しげにそう呟いた。
「どんな手を使ったのかは分からないが、松田商事の役員を丸め込んだんだろう。十中八九……金だな。社長には、うまく丸めた話でもしているはずだ」
「副社長……!」
心配そうに田中が口を開くが、誠は静かに言った。
「大丈夫だ。この件は俺がなんとかする。一応、報告書だけ作ってもらえるか?」
「……はい」
田中は深々と頭を下げると、部屋を後にした。
「大口契約を俺が“救った”ことにして、逆に“俺は無能だった”ってシナリオにする気だな」
くるりと椅子を回し、窓の外を見つめながら誠が呟く。
私は静かに口を開いた。
「……そうですね。お金は動いていると思います。ただ、いくつか違和感もあります。今のところは、はっきりとした資金の流れが見つかっていません。決定的な証拠が取れれば、松田商事の社長にも直接話ができるのですが……」
すると誠が、振り返りながら冗談めかして言った。
「……とりあえず、俺はお前の家のセキュリティを強化しに行かなきゃならないってことか」
「……はい」
美希みなみ
291
また誠が家に来る。
それは“仕事”のためだと分かっていても、胸の奥がざわついた。
その気配に気づいているのか――
誠の視線を受け止められず、私は先に目をそらした。
「水川さん。明日の土曜日、予定ある?」
ふいの問いに、ドキッと胸が鳴る。
「……いえ。特に予定はありません」
なんとか冷静を装って答えると、誠はやわらかく笑った。
「じゃあ、プログラム入れに行ってもいい? 少し時間がかかるから、夜より昼間の方がいいだろうと思って」
――これは、仕事。
そう自分に言い聞かせて、私は静かに頷いた。
「……分かりました。よろしくお願いします」
次の土曜日、朝10時には誠が私の家に来ていた。
そして今、2台のパソコンを前に、黙々と作業を進めている。
その姿を見ながら、私はキッチンで彼の朝食兼昼食になるようなサンドイッチを作っていた。
――手で食べながら作業できるものがいいよね。
そう思い、野菜たっぷりのコンソメスープと、定番の卵サンド・ハムサンドを用意する。
でき上がったサンドイッチをダイニングテーブルに置き、私はリビングで資料に目を通していた。
「莉乃、一台終わった。確認して」
誠の声に振り向き、私は彼からノートパソコンを受け取った。
けれど――
……サンドイッチなんて、今は食べる雰囲気じゃないよね。
まるで会社にいるときのように、誠の集中した横顔。
話しかける隙さえ感じさせない空気に、私は小さく息を吐き、パソコンを起動させる。
セキュリティの設定を済ませ、USBを差し込み、データの読み込み処理を開始した。
画面いっぱいにあふれる数字たち。
それを資料と照らし合わせながら、私は作業に没頭していった。
気づけば、時計は14時を回っていた。
「莉乃、もう一台も完了したよ。使える」
「はい」
私は資料を抱えたまま、誠の使っていたデスクへと移動する。
新しいパソコンを開き、数字の羅列と向き合う。
「あ、副社長。ダイニングテーブルにサンドイッチ置いてます。あと、鍋にスープも……」
と言いかけて、途中で言葉を止めた。
……たぶん、誠には自分で取りに行くとか、無理だよね。
そう思い直し、私はキッチンへ戻ってスープを器に注いでテーブルへと置いた。
「ありがとう」
ふわりと笑ってくれたその顔に、少しだけ緊張がほぐれた気がした。
その横顔に見惚れそうになりつつ、私は自分の作業に意識を戻す。
そして――数字を追いかけていた私の手が、ふと止まる。
……おかしい。
「副社長!」
無意識に声が出た。
誠はすぐに駆け寄り、私が示した画面を覗き込む。
「これ……」
画面上には、明らかに不自然な帳簿データがあった。
「6月、7月に三回……200万ずつ、か……」
「この裏が取れれば、証拠になります」
そう言った瞬間、誠は目を見開き、次の瞬間、まるで抱きしめるような距離で声をあげた。
「莉乃、ありがとう!」
一歩近づいた彼に、私は思わず身をすくめてしまう。
でも――こんな風に役に立てたことが、嬉しかった。
だけど同時に、はっきりと分かってしまった。
――この仕事が終わったら、もう、こうして一緒にいる必要なんてなくなる。
私の表情がどこか曇っていたのかもしれない。
「莉乃?」
少し戸惑ったような、誠の声。
「あっ……よかったです。……コーヒー、入れますね」
気づかれたくなくて、早口で言ってキッチンに向かう。
湯を沸かしながら、胸の中に広がっていく寂しさを押し込める。
――普通にしなきゃ。
そう自分に言い聞かせながら、私はカップにコーヒーを注いだ。
「どうぞ」
そう言ってリビングのテーブルに置くと、誠が私のもとへと近づいてくる。
「ありがとう……莉乃、どうかした? 顔色が……」
――そんなに分かりやすかった?
私は取り繕うように笑い、コーヒーカップを持ち上げてソファへと腰を下ろした。
「最近ずっと張りつめてたから……少し、ホッとしたのかもしれませんね」
「……お疲れ様」
それだけを言ってくれた誠に、私は小さく微笑み返した。
けれど、次の瞬間――
誠が隣に腰を下ろし、ふいに言った。
「莉乃、俺の目を見て?」
「……え?」
驚いて動きを止めた私に、誠は真剣な表情を向けていた。
「どうしたの? 急に」
「いいから。目を見て」
言われるがままに彼を見上げると、まっすぐな瞳とぶつかって――私は息を呑んだ。
「莉乃、何か……隠してる?」
胸がバクバクと高鳴り、彼の声が遠くに聞こえる気がした。
「べ、別に……なにも……」
絞り出すように言った私に、誠はため息をついた。
(……バレた?)
私の想いが、誠に届いてしまったのかと思うと、どうしてもその視線を受け止められなかった――
「目の下、クマができてる。ちゃんと眠れてるか? 俺の仕事のせいで無理させてない?」
「え? 本当?」
誠にクマを指摘されて、羞恥心がこみ上げる。
でもこれは――仕事のせいじゃない。
「ああ、大丈夫か?」
「違う、仕事のせいじゃないの。ちょっと最近……寝つきが悪くて」
本当は眠っても、すぐに悪夢にうなされて目が覚めてしまう。
夜中に何度も目が覚めるたび、次第に眠るのが怖くなっていった。
体がだるいのもそのせい。
でもまさか、誠がそんな私の変化に気づいていたなんて――驚きだった。
「眠れないのか?」
静かな声で尋ねられて、私は平気なふりで笑う。
「……ちょっと、眠ろうとするとまた嫌な夢を見る気がして。だから、眠らない方がいいかなって思ったりして……」
明るく話すつもりだったのに、だんだん声が小さくなる。
大丈夫、って伝えたかったのに、言葉の最後が震えていた。
俯いて、唇をぎゅっと噛みしめる。
こんな話、誠にしたところで困らせるだけなのに――
そんな私の耳に、優しい声がふいに届いた。
「……俺でも一緒にいたら、不安が少しでも減る? 眠れるか?」
「え……?」
思わず顔を上げると、誠が立ち上がって窓際へ向かう。
おもむろにブラインドを下ろして、外の光を遮った。
「……どうしたの?」
理由がわからず問いかけた私に、誠は静かに微笑んで、ソファの上に置いてあったブランケットを手に取る。
それを私の肩にそっと掛けたかと思うと、そのまま腕を広げ――優しく包み込んでくる。
「嫌なことは何もしない。大丈夫だから」
そう言って、彼は私の背を支えるようにしながら、ゆっくりと一緒にソファへと横になる。
自然と、後ろから優しく抱きしめられるような体勢になっていた。
胸がドキドキと高鳴る。
けれど、誠の体温、落ち着いた香り、ゆったりとした呼吸。
そのすべてが、私の不安を少しずつ溶かしてくれる。
――ああ、誠といると、眠れるんだ。
そう思った瞬間、ふわりとまぶたが重くなる。
私はすぐに、優しい眠りの中へと沈んでいった。
Side 誠
何かを隠しているような気がして、俺は莉乃を見るも、何も答える気がないことが分かった。
しかし、俺のせいで無理をしているのならと思い尋ねるも、莉乃はそれを否定する。寝つきが悪い、悪夢を見るという。
元々、何か過去にあったことは想像がつくが、まだそれを最後まで聞くことをためらっているのは、俺が莉乃のそばにいる資格があるような人間ではない気がするからだ。
そうは思うも、莉乃の不安を少しでも取り除き、眠らせてあげたい。そんなことを思ってしまう。
拒否されることを覚悟で莉乃をブランケットで包み抱きしめれば、戸惑いつつも最後には俺に身体を預け、すぐに目を閉じた莉乃に安堵する。
近づいても、まだ莉乃には触れてはいけない部分がある気がしてしまう。
眠ってしまったことをいいことに、俺は優しく髪をなでたあと、そっと莉乃の頬に触れれば、ふにゃっと幸せそうに微笑んだその顔に、ぶわっと自分の顔が熱くなるのが分かった。
なんだよこれ。
自分でも初めての感覚に驚き、口元を手で覆うも、一向に胸の高鳴りが収まらない。
今までも女性を抱きしめたことも、抱いたことももちろんあるが、こんなふうに自分が動揺して、ただ抱きしめるだけで愛しいなんて思うことは一度もなかった。
「莉乃……」
そっと彼女の名前を呼べば、きゅっと俺の胸にすり寄る彼女を、俺はただ飽きることなく眺めていた。