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Side 莉乃
そっと目を開ければ、さっきまで少し漏れていたブラインドからの光が暗いことが分かる。
いったいどれほど眠ってしまったのだろう。久しぶりに夢も何も見ず、ぐっすりと熟睡した気がする。
そんなことを思いながらぼんやりと窓へ視線を向けていたが、背中に感じる温かさにハッとした。
ゆっくりと振り返れば、すぐそばにきれいな誠の顔があり、つい声が漏れそうになるのをなんとか耐えた。
誠だって日頃の疲れがあるのだろう。気持ちよさそうな寝息を立てている彼にホッと安堵する。
自分だけが眠ってしまったのでは申し訳なさすぎる。
私は起こさないように、そっと誠の方へと向きを変えると、静かに目を閉じている彼を見つめる。
起きていてはもちろん、こんなに近くで見る勇気など到底ないが、わからないのならばいいだろう。
綺麗というのはおかしいのだろうが、やはり整った顔はとても美しい。
いつもはワックスで固められている髪が、さらさらと目元にかかっている。
それすら新鮮で、そっとその前髪に無意識に手を伸ばす。
隠れていた額があらわになり、さらにはっきりと彼の顔が見えた。
優しく回されている腕の重みが温かくて、愛しさは感じるが嫌悪感などまったくないことに、ため息が零れそうになる。
確実に、私はこの人に心を許している。本当ならば一番かかわりたくないタイプだとずっと思っていたのに、いともあっさり私の心の隙間に入り込んだ誠。
「ずるいな……」
つい零れ落ちてしまった声に、誠は無意識なのだろう、私の腰を引き寄せてギュッと抱きしめた。
かなり密着する体勢になってしまうも、私の中には嬉しさがこみ上げる。
眠っているからいいよね。
自問自答すると、私は勇気を出して誠の背中に手を回した。
触れられることが怖かった自分が、こうしてまた誰かに触れたい、そう思えるようになっただけでもいい。
誠が私を見てくれなくても――。少しだけ切なくなってしまった自分を隠すように、私は彼の胸の中でギュッと瞳を閉じた。
心を落ち着かせてそっと顔を上げれば、そこには温かな誠の瞳があり、また私はドキッとしてしまう。
「おはよう」
少し掠れた声の彼の声に、一瞬反応が遅れてしまったが、私も「おはよう」と口にする。
「よく眠れた?」
「うん、ありがとう」
まだ寝ぼけていそうな誠が可愛くて、私が微笑めば、ハッとしたように誠が私を抱きしめていた手を緩めた。
「悪い、何もしないって言ったのに、寝ぼけたかな」
かなり密着している状況に気づき、焦ったように言った彼に、私は自分から抱きついたことはとても言えず、俯いた。
そしてすぐに離れていこうとする誠に、私は慌てて彼のシャツを引っ張った。
まだ離れたくない。
そんなことを思ってしまい、無意識に手が出てしまったのだが、そんな私を驚いたように彼が見据える。
「もう少しだけ……だめ?」
「莉乃……」
少し困ったような顔をした誠に、やはり迷惑だったかと、私はすぐに謝罪の言葉を口にした。
「ごめん、ダメだよね。抱きしめられると落ち着くから、よく眠れたし……」
支離滅裂な言葉になってしまった私を落ち着かせるように、誠がもう一度私を優しく抱きしめる。
「全然いいんだよ。ただ、少し理性を保つのに必死なだけ」
苦笑しつつ言った彼の言葉の意味がわからず、私はきょとんとしてしまう。
「それって……え?」
まさか私なんかにそんな感情を持ってくれているなんて思わなかった私は、羞恥でどうしていいかわからず、顔を隠すように誠の首に自分の顔を埋めた。
「莉乃! 首はダメだって」
慌てたように誠は言うと、私をくるりと向きを変え、距離を取るようにソファに縫い留めた。
その瞬間、私の中に眠っていた記憶がよみがえる。
「嫌!」
誠の胸を押しのけるように私は起き上がると、自分を自分の腕で抱きしめる。
ガタガタと恐怖が押し寄せて、どうしようもなくなる。
「莉乃! 悪い! どうした?」
泣きそうな表情で心配そうに見る誠は、とても傷ついたように見えて、私はただ頭を振った。
「違うの、誠が悪いんじゃないの。違うの……」
泣きたくなりながらそう繰り返す私に、何かを感じたのか、優しく背中をさすりながら誠は私が落ち着くのを待っていてくれる。
「今の体勢が嫌な記憶を……。あの日以来、誰に触れられても嫌悪感が襲って怖くて。だから、ずっと一人でいるしかないって」
今の誤解を解くためにも、そしてここまで世話になっている誠になら、私の過去を話してもいいのではないか――そんな思いで彼を見上げれば、心配そうに私を見つめてくれる瞳があった。
意を決して、私は呼吸を整えた後、言葉を選ぶように話を始めた。
「元カレの話はしたよね」
「ああ」
「大学三年の時に付き合い始めたの。優しくて、誰からも人気がある人だった。向こうから告白されて、あまり恋愛経験のない私は簡単に信じてお付き合いを始めたの」
そこまで一気に話すも、それからのことがすぐに言葉にならない。
「無理はしなくていいよ」
優しくそう言ってくれる誠に、私は「過去にとらわれるのはもうやめたい」、その気持ちもあり、ギュッと唇を噛んだ。
「でも、付き合い始めて半年ぐらいたったころから、彼は変わったの。もしかしたら、私の気持ちの大きさと彼の気持ちが違ったのかもしれない。そこから束縛がひどくなっていった」
そう――彼が私を思ってくれるほど、私は彼を思うことができなかった。しかし、そのことに対して罪悪感もあり、初めのころは彼の言われるがままにしていた。けれど、それはやがて「束縛」へと変化していった。
「電話は一日に何十回もかかってきて、出られないと豹変したように怒り出す。友達と出かけることすらままならなくなって、私は耐えきれず別れを切り出した。私は別れたつもりだった。でも……」
そこで言葉を止めた私に、誠は大きくため息をついたあと、代わりに口を開いた。
「……ストーカーになった?」
的確なその言葉に、私はコクリとうなずいた。
「実家でも、学校でも、常に付きまとわれて。私はノイローゼ気味になっていった」
そう――最後のほうは完全に、彼の陰に怯えて、精神状態も危うくなっていた。
「莉乃、大丈夫か?」
爪が食い込むほど自分の手を握りしめていたことに気づいたのは、誠が私の手に触れたからだった。末端まで冷たくなっていた手に、誠の体温が流し込まれるようにして温かくなっていく。
そのぬくもりを感じて、私は誠の瞳を見つめた。
「実家の両親も弟も、みんな神経質になって、とうとう警察にも相談したの。でも、もちろん事件が起きる前に動いてなんかくれないし、彼の実家が資産家で、その界隈では力を持った家だったの。それでも警察に行ったことで、ぱったりとストーカー行為は止んで、みんな安心した」
そこまで話して、これから先を思っただけで驚くほど動悸が起こり、私はギュッと目を閉じた。
「話したくなければ、無理をしなくてもいいよ」
優しい誠の声に、今まで警察にしか話してこなかったことを口にする。
「油断したの。もう大丈夫だって……」
「うん」
誠の相槌が、私に話す勇気をくれる気がして、一気に続ける。
「少し遅くなった大学の帰り道、いきなり車に乗せられて連れ込まれて……いくら元カレでも、もう気持ちなんてないから、触れられることが嫌で、必死に抵抗をした。そしたら怒り狂った彼に、何度も殴られて……」
とうとう涙が零れ落ちて、私は慌ててそれを拭おうとした。
そのとき、何かを堪えるような誠の瞳と、優しく涙を拭う彼の指先が重なる。
その優しさに、私はたまらなくなって、言葉の中に嗚咽が混じってしまう。
「そして、車から逃げ出して、民家に助けを求めようとしたところで……ナイフで脇腹を……」
思い出しただけで、恐怖と痛みがぐちゃぐちゃに混じり合い、感情の制御が効かなくなる。
そんな私を、誠はこれでもかというほど強く抱きしめてくれた。
「怖かった……怖かったの。そんなふうに彼が変わってしまったことも、理不尽なことも、すべてが」
もう何を言っているのか自分でもわからない。でも、今まで溜め込んできた感情を爆発させるように、私は誠の腕の中で泣きじゃくった。
しばらく泣いていた私だったが、取り乱してしまった自分をなんとか持ち直すと、そっと誠と距離を取った。
「ごめん、シャツ濡らしちゃった……」
「それぐらいいいよ」
最後にもう一度、私の頬を誠は包み込み、涙を拭ってくれた。
「近所の人が救急車や警察を呼んでくれたみたいだけど、次に目が覚めたときは病院のベッドだった。事情聴取や裁判もあって、傷は痛いし心は疲弊していくし……彼が刑務所に入ったときは、心底ほっとした。さっきの体勢をとられたことで、そのときの記憶がフラッシュバックしたみたい」
「ごめんね」――そう伝えようとした私だったが、怒りに満ちた誠の表情に私は驚いてしまう。
「誠……?」
「その男、許せない」
元カレに対して本気で怒ってくれているとわかり、私の心の中に温かいものがあふれる。やっぱりこの人は優しい人だ。それが、とても伝わってくる。
「ありがとう。聞いてくれて」
少しだけ微笑んでみせれば、誠は不安に揺れた瞳で私を見つめている。その意味がわからず、私は彼の名前を呼んだ。
「誠?」
「俺が、こうして触れることは……大丈夫だと思っていい?」
散々触れているのに今さらそんなことを聞く彼に、私は笑って見せた。
「私も驚いてる。誠に触れられるのは大丈夫。でも、甘えちゃってごめんね。迷惑かけてるよね……」
そう――いくら部下だからといって、こんなふうに迷惑をかけているのは私だ。誠が心配するようなことではない。これ以上はダメだと、自分に言い聞かせる。
「ありがとう、ごめんね」
抱きしめられていた腕から抜け出し立ち上がると、後ろから手を引かれて、私は振り返った。