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第7章 “衛生”の軍勢
布告は朝露より早かった。
王都の使いは広場に板を立て、黒字でこう記した——「疫病拡大。焼き払って清めよ」。
字の周りを白手袋が囲み、合図と同時に兵が散った。目印の家は最初から決まっている。井戸の近く、帳面を持つ者の家、旅装を解かぬ者の宿——そして、勇者パーティーに話しかけた者の扉。戸口には石灰で小さな三角が三つ。鐘の数と同じ印。
兵の鎧は磨かれていたが、言葉は磨かれていない。
「衛生だ、下がれ」
そう言って火壺を置く。火は理由の形をしている。
僧侶が一歩出て、紙束を胸に当てる。「これはただの記録だ」
「記録は感染する」と兵は答えた。
私たちは誓いを思い出す。王都に刃は向けない。向けないのなら、言葉の位置を変えるしかない。魔法使いは目を伏せ、盗賊は視線で抜け道を探すが、抜け道にも三角が付いていた。印は私たちより速い。
その日一日、街路は乾いた風が続いた。
火が歩き、鐘が三つ、また三つ、いくつもの場所で同じ数を打つ。
私の膝は朝より重く、肘は昨日より短い。衰弱は命令の速度に追いつけない。誰かが叫ぶ前に、叫びは「不敬」に分類され、沈黙になる。私たちは沈黙の側に立っていた。
第8章 証拠の雨
焼かれるのは屋根ではなく、まず紙だ。
兵は家々から文書・印章・地図を抱え出し、広場の中央に積む。書記官が頁をめくり、白手袋が印章を布で拭く。彼らは「清浄(セイジョウ)」と呼ぶ火を点けた。火は紙を上からではなく、文字の線から食っていく。言葉が先に消え、紙があとから灰になる。
逃げた者は「感染者」と呼ばれて、背中を斬られた。
斬る側の息は上がり、斬られた側の息は止まる。息の数は同じで、意味だけが違った。僧侶は祈りを唱えようとして、声を半音落とした。祈りは届くより先に「集会」と判断され、解散の号令が飛ぶ。
私たちは輪から外れた場所に立ち、降りしきる紙の欠片を見た。
灰の雪ではない。証拠の雨だ。
魔法使いがひとひら掴み、指で灰を払う。墨は湿り、指先が黒くなる。盗賊が囁く。「濡れてる。井戸の風だ」
魔法使いは頷き、灰の中から小さな地図片を取り出した。水脈と、鐘の印。火は上から、証拠は下から。
「火に届かない場所が、ひとつだけある」
私たちは短く頷き合う。
誓いを守る道はひとつではない。刃を抜かないという選択の中に、まだ使っていない筋肉が残っている。運ぶ、隠す、遺す。腕は震えていたが、それは恐怖ではなく、遅延する毒の仕業だ。震えの上から、手は動いた。
第9章 石の箱
夕刻、村は輪郭だけを残して薄くなっていた。
魔法使いは倉から石の箱を引き出した。滑石の灰色、四隅に鉄の留め具。僧侶は記録を三束に分ける。
一束目:日付と鐘の回数、症状の順序。
二束目:加護水の配布路と、味の変化の証言。
三束目:白手袋の名簿、刻印、合図の言い回し。
盗賊は縄を解き、蓋の内側に油紙を敷く。私は鞘の口金で封蝋を割り、束の端に麻糸を通した。糸の結び目は三つ、鐘の数。僧侶は最後に、短い言葉を挟んだ——「これは告発ではない。再発防止のための記録である」。
井戸枠は古い石で出来ている。
石の間に目地の隙を見つけ、鑿を当て、木槌で一度、二度、三度。石はため息をつくみたいに動く。魔法使いが箱を抱える。腕は震えるが、箱の重さに震えが吸われる。慎重に下ろし、井戸の内側の棚木に掛ける。底まで落とさない。火では届かない場所へ。
私は石灰の袋を開け、少しずつ水で練った。
白い泥は早く固まる。目地に押し込み、鏝で撫でる。撫でるごとに、形跡は“修繕”に見える。盗賊が周囲を見張る。足音、なし。鐘、なし。息だけが三つ。
魔法使いは箱に指を添えて囁いた。「誰かが見つけるように。誰でも読めるように」
僧侶は頷き、胸から小さな木片を出して、井戸枠の隅に三角を三つ刻んだ。目立たない角度、光の当たらない高さ。気づく者だけが気づくはずの合図。
封じ終わるころ、夜の鐘が一つ鳴った。間をおいて、二つ、三つ。
私たちは井戸の縁から手を離し、石粉で白くなった掌を見た。罪の色ではない。遺すための色だ。
王都へ刃は向けない——誓いは守られている。
だからこそ、言葉を下へ。火の届かないほうへ。
井戸の水面は暗く、こちらの顔を映さなかった。けれど、箱の角だけが、わずかに光った。
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