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第10章 遅れて来る死
祝宴から三日ほどで、指先が他人になった。
朝、鞘に触れると、革の温度だけが分かる。力はあるのに、握りが遅い。階段を降りるたび、膝が一段ぶん考え込む。魔法使いは火花の位置を二寸ずらし、僧侶は祈りの句を一拍伸ばす。盗賊は鍵穴の音を外し、耳の奥で小さな鈴が鳴ると言った。
浄化は効いた。形の上では。
祈りは輪郭を描き、光は皮膚でほどける。だが、その先へ進もうとすると恩寵が先回りして、道を塞いだ。祝宴の杯で喉を下りたあれは、毒である前に加護のふりをする術だった。助けようとする手を「不要」と判断し、祈りそのものを良い眠気に変えてしまう。眠るほど、目覚めが薄くなる。
「これは治る病ではなく、止まらない儀礼だ」
僧侶が記録に書く。字が少し右に傾いている。
私たちはようやく、遅れて届いた鐘の意味を理解した。
一つは味、二つは痺れ、三つ目で——判断が遅くなる。
第11章 逆らわぬという反逆
真相は掴んだ。だが誓いは変えない。
**王都には刃を向けない。**ならば、刃でない筋肉を使う。
盗賊は地面に跪き、石畳の隙を撫でる。
人が転ばず、追う足が躓く角度を探し、裏通りの壁に短い刻みを残す。刻みは図にはならない。だが、歩き慣れた子どもなら読める。孤児の抜け道は、今夜から路地を三つ短くする。
僧侶は教会の台帳を開く。
洗礼名の脇に小さな点を打ち、三つ目だけを少しだけ大きくする。
——鐘三つの印。
それは誰かにとっては誤記に見え、誰かにとっては道しるべになる。点と点は、紙の中で静かに線になる。のちの司書が不思議がるように、わざと不揃いに。
私は紙を三度折り、寓話の要約を書いた。
四聖剣という名の歌、加護水という名の寒さ、白手袋という名の合図。物語の形にして、固有名を外す。読む者の生活の言葉に移るように。最後に一行だけ事実を書く。「鐘が三つ鳴ったら、上を向けと言われた」。そこまでが私の役目だ。あとの言い方は、読む人に任せる。
外では風が薄く、遠くの塔で鐘が二つ。
三つ目は鳴らなかった。代わりに私たちの胸で、遅れて小さく鳴った。
第12章 最期の隊列
私たちは並んで歩いた。
誰も叫ばず、誰も恨みを口にしない。握るのは柄ではなく、互いの袖の端。歩幅を合わせるための小さな合図。息が合えば、痛みは半歩遅れる。痛みが追いつけば、また半歩ずらす。
通りに子どもたちがいた。
靴の踵がすり減っていて、でもよく走る脚。三人が路地の角で数を数える。「いち、に——」
三は言わない。
彼らは私たちの手を見て、同じように手をつないだ。意味を知らないまま、それでよかった。
約束は守られた。
王都に刃は向かなかった。
向かわなかった手で、抜け道を刻み、点を忍ばせ、物語を別綴じにした。遺すために、生きる代わりのことをした。それだけが、ここで選べる最良だったから。
角を曲がる前に、一度だけ振り返る。
白い灰が空に溶け、屋根の上で陽が裂ける。
足元の影は長く、でも消えない。
手は離さない。
最後の角まで。
第13章 灰の降る昼
“衛生”は終わった、と布告は言った。
広場の板には新しい言葉が並ぶ——「栄誉なる疫病殉死」。
昨夜まで家だった形は、淡い丘に変わり、表札は炭の線になった。畑の畝は灰の下で生き方を迷い、路地はつながりを忘れた。歩くと靴底が柔らかい。灰は雨ではなく、記憶の粉だった。
白手袋はもう見えない。ただ、跡だけが残っていた。
門柱の石灰、三角が三つ。扉の蝶番に白い筋。
兵の鎧の匂いは風に流れ、代わりに無臭が街に広がる。
言葉は少ない。「終息」「鎮静」「清浄」。焼却という語は、どこにも書かれない。書かれないことのほうがよく燃える。
正午、鐘が三つ、間をおいて鳴った。
誰も上を向かなかった。向ける天井が、ここにはないからだ。
広場の端に立つ井戸だけが、昨日の位置にいた。
石の枠は熱で膨らみ、冷えで縮み、そして——井戸枠の石が、わずかに沈む。
沈みは音にならず、ただ指先に伝わる種類の出来事だった。
誰も気づかない。昼は過ぎ、灰は薄く、地図から村の名前がひとつ薄くなった。