(死ぬかと思った。体鍛えてて良かった、本当に……)
生死をさ迷ったが、エウィンはかろうじて生き延びる。実は生への執着が極端に低いのだが、今回ばかりはありがたい。
さすがにあのような死因は不名誉過ぎるため、道端で日光浴を楽しみながら、寝起きの太陽に感謝する。
あれから一夜明け、少年と同様に彼女も健康だ。
坂口あげは。
この世界に転生した、日本人。背後のボロ小屋で、安らかな寝息を立てている。
次のステップとして、これからの方針について考えなければならない。
もっとも、それは彼女自身が決めるべきであり、エウィンに出来ることは精々が保護と食事の提供くらいか。
(お金は、少しだけある。起きる前にパンかおにぎりでも買ってきた方がいいよね)
今朝食べるつもりだった干し肉は、昨晩、彼女にご馳走した。
ゆえに、エウィンの手元には朝食がない。
澄み切った青空を眺めながら一日の始まりを噛みしめつつも、普段とは異なる状況に少々戸惑っている。
この国に逃亡し、十一年が過ぎ去った。
以降、浮浪者として単身で生きて来た。
友人と呼べる存在すらもいないため、まさに天涯孤独だ。
貧困街で夜を明かし、日中は働いて食い扶持を稼ぐ。
毎日がその繰り返しに過ぎない。
(異世界から来た……か。きっと本当なんだろうな)
物的証拠は彼女の衣服だ。
デザイン。
機能性。
使われている生地。
そのどれもが、この国には存在していない。
その最たるがファスナーだ。小さな凹凸が噛みあい離れなくなるという構造は画期的な上、高い精度と耐久性を求められることから、製造は困難だろう。
もっとも、ジャージやジーパンを例に挙げずとも、この少年は疑うことすらしない。
彼女の挙動を目の当たりにすれば、疑心など一瞬で吹き飛んでしまう。
肉付きの良い容姿とは対照的に、心の方はあまりにも脆い。
転生が負担なのか?
そういう性分なのか?
今はまだわからないが、当人が明かさない限り踏み込むつもりもない。
なぜなら、エウィンもまた、大きなトラウマを抱えている。
それゆえに長生き出来るとは思っておらず、言い換えるなら、彼の人生は死に場所を求めているに等しい。
そうであろうと、腹は空いてしまう。
ましてや、アゲハのことも考えなければならない。
起床と共に逃げるように外へ出てしまったが、日向ぼっこが済んだ以上、食料の調達が最優先だ。
(その前に声かけた方がいいのかな? 突然いなくなったと思われたら、それはそれで申し訳ないし)
振り向き、廃墟のような我が家と向き合う。
後は玄関代わりの板をどかすだけで、彼女の寝顔を観察出来る。
そのはずだった。
隙間から覗く、幽霊のような女性。陰湿で覇気がなく、太陽の光を拒むようにその姿を晒さない。
しかし、大きな瞳ははっきりと少年を捉えており、見つめ返すと吸い込まれてしまいそうなほどには蠱惑的と言えよう。
無言のアゲハと目が合った以上、黙ったままではいられない。少年は先んじて口を開く。
「あ、おはようございます。体調はどうですか?」
僕は鼻血のせいで死にかけました。そう付け加えそうになるも、いらぬ心配をかけないために、ぐっと飲み込む。
「おはよう、ございます。大丈夫そうです」
「なら良かった。食べ物がないので買ってこようと思うのですが、気分転換も兼ねて一緒にどうですか? あ、そのままお留守番しててもらっても大丈夫です」
この提案でさえ、慎重にならざるを得ない。
なぜなら、彼女は別世界の人間だ。ここに来て、まだ一日も経っていない。
何も知らない状態ゆえ、外出さえも一苦労のはずだ。
そういった背景を考慮し、エウィンは決定権をアゲハに委ねる。
「あ、その……、行きたい、です」
不安よりも好奇心が勝ったわけではない。ただただ単純に、孤独を恐れたがゆえの返答だ。
本来ならば孤独を好む性格なのだが、今回ばかりは恐怖心が勝ってしまった。ここが異世界だと受け入れたことで冷静に状況を把握出来たがゆえの弊害だ。ならば、この少年にすがる他ない。
「わかりました。行きつけのギルド会館で食べましょう」
出発だ。
朝から外食など、本来ならば贅沢極まりない。
それでも、その要望を受け入れたいと思ったのだから、実行あるのみだ。
金がなくなったら稼げば良い。
そう結論付け、少年は彼女と共に歩き出す。
貧困街のみすぼらしい街並みがアゲハの不安を煽るも、大通りに近づくにつれて風景が様変わりする。
毅然と立ち並ぶ木造の家屋達。
そこから聞こえる、楽しそうな話し声。
これらこそがこの国の本来の姿だ。エウィンとアゲハが先ほどまで滞在していた場所は、掃き溜めでしかない。
大通りにたどり着けば、そこはもはや別世界だ。
ゴミ一つ見当たらない、石畳の巨大な道。そこを何十人、何百人が行き交っているのだから、煌びやかと言う他ない。
今日という一日は始まったばかりだが、通行人達は足早にどこかへ向かっている。
多数は職場を目指しているのだろう。
はしゃぐ子供達は遊ぶのかもしれないが、彼らにとってはそれこそが仕事だ。
この光景が、アゲハを心底驚かせる。
まるで映画のような光景だ。日本とは毛色の異なる景観は、誰もが思い描く冒険譚の一節であり、彼女にはそのような趣味嗜好はないのだが、それでも連想せざるをえなかった。
「ファンタジー映画、みたい……」
(ふぁんたじーえいがって何だろう……。まぁ、何かに浸ってるみたいだし、そっとしておこう)
少年は一つ学習した。わからない単語をその度に訊き返してしまうと、会話が途切れてしまうということを。
彼女が感動しているのなら、横やりは避けるべきだと判断した。
そのついでに、この世界の住人らしく先導する。
「この道をあっちに向かうと、ギルド会館が見えてきます。一先ずそこを目指しましょう」
「う、うん」
連れて来て正解だった。そう感じながら、エウィンはアゲハと共に人だかりへ飲み込まれる。
街道は広く、その道幅は人間が二十人以上も並んで歩けるほどだ。
その上、この道はどこまでも続いており、ただ歩いているだけでも左右に多種多様な商店が現れてくれる。
目的地も道沿いにあるのだから、普段通りに進めば良い。
そのはずだが、少年は頻繁に向けられる視線が気になって仕方ない。
(まぁ、そうだよね。この女の人、何者だってなっちゃうよね……)
アゲハは目立つ女性だ。
日本人にとっては当たり前な服装が、この国の住民には奇抜なデザインに映ってしまう。
極めつけが、その胸だ。ジャージのファスナーが閉まらないほどに豊満なため、男性は当然ながら女性さえも驚きの余り振り返る。
(服を買ってあげないと……か。女性用の服っていくらくらいするんだろう。安くても今は買えないけど)
そうであろうと彼女への配慮は必要だ。そのためには金を稼がなければならないが、先ずは目的地への移動と朝食を済ませてからだろう。
注目を集めながらも歩き続けると、二人の眼前に巨大な施設が現れる。
黒茶色の建材が用いられたそれは、周りの建物と比べると砦のようだ。
出入りする人間もどこか物騒であり、アゲハがうろたえるのも無理はない。
「あれがギルド会館で、傭兵に仕事を斡旋してくれる施設です。あ、僕も傭兵で、魔物を狩って生計を立てています。ちなみに食堂も兼ねているのでご安心を」
「そう、なんだ……」
彼女が思い描く傭兵は、銃火器を手に戦場へ赴く兵隊だった。
しかし、そのイメージは崩れ落ちる。
両開きの扉から入館する男達。
用事を済ませ、大通りへ現れる女達。
彼らは皆、色とりどりの武具を身に着けており、兵隊という意味では同義ながらも、その出で立ちは彼女の想像とは似て非なる。
ある者は剣を。
ある者は斧を。
ある者は杖を携帯しており、防具に関しても重そうなフルプレートメイルや露出の多い革鎧、フード付きの赤いローブなど、そのバリエーションは個性的だ。
エウィンも腰のベルトに短剣をぶら下げており、浮浪者のような身だしなみながらも武器だけは欠かさずに持ち歩いている。
「さぁ、到着です」
歩行者が作り出す流れからはみ出すように、二人は目的の建物へ足を踏み入れる。
その瞬間、アゲハは少年の背後で呼吸を忘れてしまう。
館内は想像以上に広く、天井の高さはコンサートホールのようだ。
右手側には掲示板が並んでおり、貼られた羊皮紙を傭兵達が物色している。
対して左側が食堂だ。規則正しくテーブルと椅子が配置されているのだが、時間帯も相まって荒くれ者達が眼前の料理にがっついている。
ここへは見学に来たわけではないのだから、立ち止まるわけにはいかない。エウィンはアゲハをリードするように歩くと、空いている席へ導き、自身も対面に座る。
既に二人の鼻腔には塊のような香りが届ており、空腹だからか、気分がゆっくりと昂ってしまう。
「メニューはあっちこっちに貼られてますので、ゆっくり決めてください。僕はどうしようかな……、朝からウサギのグリルとか食べるのもあれですし、羊肉のパエリアにしよっと」
魔物の肉とシーフードを具材とする混ぜご飯だ。昨晩の鼻血が原因で体力が消耗していることから、今回ばかりは奮発もやむを得ない。
一方、アゲハは着席と同時に周囲を見渡すも、このタイミングで己の目を疑ってしまう。
実は、料理の選択はエウィンに委ねるつもりでいた。
なぜなら、この世界の文字を読めないからだが、その心配が杞憂だったと思い知る。
読めてしまう。
あちこちに書かれている料理名が全て理解出来る。
当然だろう。使われている文字が、ひらがな、カタカナ、漢字の三種なのだから、日本人なら読めて当然だ。
「ど、どうして……」
「あれ、どうかされました? あ、値段なら気にしないで大丈夫ですよ、多分……」
そう言い終え、足元の背負い鞄を漁りだすも、彼女の独白は続く。
「なんで、日本語? 考えてみたら、言葉が通じてること自体……」
ありえないはずだ。アゲハの疑問は至極当然ながらも、エウィンもまた不思議そうに首を傾げる。
「ニホンゴ? あ、もしかして、こっちの世界の文字が読めないとか? すみません、気が付かなくて……」
「ううん、読め、る。だから、ビックリしちゃって……。ここの人達も、ひらがなとか漢字を使ってるんだね」
「はい。言葉は世界関係なく共通なんですね。まぁ、同じ人間なんだし、当然なのか」
少年だけはスムーズに納得するも、彼女は腑に落ちない。
言語という発明品は日本語以外にも多数存在しており、ましてやここは異世界だ。ウルフィエナにはウルフィエナ特有の言語がなければおかしいのだが、そうではないと今更ながらに気づかされた。
なぜ? 考えたところでこれっぽちもわからないのだから、一先ずは朝食を選ばなければならない。
「あ、えっと、サンドイッチに、しようかな」
「わかりました。飲み物はお茶でいいですか?」
「うん。お茶もあるんだ、食べ物もそっくり……」
アゲハの言う通り、食文化も似通っている。
周りの屈強な連中は幸せそうに朝食を食しているのだが、その多くを彼女は言い当てられた。
オムライス。
カツサンド。
スパゲティ。
チャーハン。
果ては、サイドメニューにきゅうりの味噌漬けさえ存在している。
まるで地球だ。そう錯覚したくなるほどには、そっくりな料理が彼らの胃に収まっていく。
偶然か?
必然か?
眼前の少年に問いかけたところで答えなど返って来るはずもない。
ゆえに、エウィンがウェイトレスに料理を頼む様子を黙って見守っているのだが、頭の中は大混乱だ。
「自炊出来れば、僕ももう少し豊かな食生活を送れるんでしょうけど、いかんせん、釣った魚を焼くくらいしか出来なくて……。それすらも面倒に感じちゃいますし、そもそも調理道具なんて持ってませんから、毎日がパンかおにぎりか干し肉です」
貧困が選択肢を狭めてしまう。
こうした外食も何年振りか、思い出すことすら困難だ。
他の浮浪者と異なり飢えることはそうそうないのだから、そういう意味では恵まれているのかもしれない。
もっとも、傭兵として自ら稼いでいるのだから、その程度の幸せは掴めて当然だろう。
「わたし……、料理なら、得意です。それくらいしか趣味がなくて……」
「おぉ、すごい。僕なんて、仕事柄ブロンズダガーを扱ってはいますけど、キャベツの千切りさえきっと無理です」
おだてるような発言だが、嘘偽りない本心だ。
両親に死なれ、以降は浮浪者になったという経緯から、料理をしようにも知識も道具もなかった。
ゆえに、眼前の女性を尊敬してしまう。単なるないものねだりかもしれないが、単身で暮らしてる人間ならば抱いてもおかしくはない感情と言えよう。
「あ、その、わたしで良ければ、いつでも作ります……」
「本当ですか? ありがとうございます。食材はともかく道具は……、ゆっくり揃えていきましょう。僕は不要なのでその際はプレゼントします。あ、サカグチさんの住む場所も探さないとですね」
空き家に住み着くだけだが、先ずは優良物件を物色しなければならない。貧困街の建物はそのどれもが朽ちかけており、妥協は必要だが住める場所はあるはずだ。
つまりは、いつまでも彼女を保護するつもりはない。
アゲハを嫌っているわけではなく、自分のことで精一杯ということだ。現状ですら満足に稼げていないのだから、彼女を養うことはあまりに非現実的だった。
「う、うん……」
アゲハが伏し目がちに頷く一方、エウィンは満足気に周囲を見渡す。連絡事項を伝え終えた以上、後は朝食の到着を待つだけのつもりだ。
雑談を交えていれば、時間などあっという間に過ぎ去る。
二人分の料理が女性職員によって届けられたタイミングで、彼らの顔は綻ぶ。
黄色いお米と具沢山の混ぜご飯がパエリア。
白いパンが上品に並ぶサンドイッチ。
それらが眼前に並んだ以上、二人は飛びつかずにはいられなかった。
エウィンは湯気が立ちこむパエリアを見つめながら銀色のスプーンを差し込み、羊肉の切れ端と黄色い米をスッと口に運ぶ。
(素直に美味しい。あったかいご飯自体が久しぶりだし、スパイスとシーフードの味があわさって最高。サカグチさんもいっきに食べてるし、奮発して正解だったな)
右手が止まらない。
もっとも、それはアゲハも同様だ。サンドイッチをリスのように頬張っており、辛気臭い表情が今だけは明るい。彼女は知らないことだが、転生時に胃の中は空っぽだったため、極度の空腹が続いていた。昨晩の干し肉一枚で満たされるはずもない。
量的にはパエリアの方が多かったのだが、二人は同時に食べ終わる。無言の会食となってしまったが、ご馳走ゆえに仕方ない。
「ふぅ、この後はどうしましょう? 僕はいつも通り、ウサギ狩りに行くつもりなんですけど……」
この少年は魔物を倒して生計を立ている。
具体的には草原ウサギを討伐し、その肉を持ち帰ることで収入を得ている。
だからこそ、貧困だ。この魔物は売却価格がとても低く、数をこなそうと生活はままならない。
それでも草原ウサギを狩り続けている理由は、それしか狩れないからだ。
浮浪者ゆにえ普通の仕事には就けず、ゆえに貧困から抜け出せない。
負のスパイラルだが、エウィンは受け入れている。諦めているとも表現出来るのだが、どちらにせよ、現実を受け止め、自身の成長を願いながら魔物を殺し続ける。
「あ、その……、わたしもついてって、いい?」
独りは怖いから。彼女の落ち着かない瞳が雄弁にそう物語っており、この状況で断れるほどエウィンは白状ではない。
「わかりました。魔物は見たことがないんですもんね。一緒に行きましょう。マリアーヌ段丘ってところで、王国を出たらすぐですよ」
「王国?」
「あ、そういえばまだ説明してませんでしたね。僕達がいるここがイダンリネア王国です」
イダンリネア王国。コンティティ大陸の最東部に位置する、人類にとって最大の領土だ。
北と東が大海原に面しており、南と西側には頑丈な壁が建設されている。壁の向こう側には広大な草原地帯が広がっており、次なる目的地はそこだ。
エウィンが地球や日本のことをわからないように、アゲハもまた、この世界のことを何も知らない。転生してまだ二日目なのだから当然なのだが、この事実が少年を悩ます。
(あっちこっち連れまわして覚えてもらうしかないんだろうけど、キリがないよな……。帰ったら、僕が持ってる本を貸してあげよう)
アイデアとしては悪くない。偶然にも読み書きが出来てしまうのだから、読書は知識の吸収に適している。
エウィンは食後の休憩も兼ねてイダンリネア王国を紹介するも、彼自身に教養が無いのだから説明会はあっという間に終わってしまう。
ならば、本日二度目の出発だ。腹は膨れたのだから、ここからは金を稼がなければならない。
街道を歩く二人だが、その身長差は年齢に反してエウィンの方がわずかに高い。
そうであろうと、兄と妹には見えないだろう。
髪の色も。
体格も。
雰囲気さえも似ていないのだから、共通点を探す方が困難だ。
構図としては、薄汚れた傭兵が歩き、そのすぐ後ろを挙動不審な女が付きまとっている。
昨日知り合ったばかりの二人ゆえ、会話もなかなか弾まない。
「後はここを真っすぐ進んで、門をくぐればマリアーヌ段丘です」
この国の中央広場を左折し、さらに歩き続けること、おおよそニ十分。少年の言う通り、関所のような場所を通り抜けると、その先には緑色の草原が地平線まで広がっていた。
完全な平原ではなく、ところどころに小山が存在していることから、獲物を探す際は歩き回らなければならない。
「では、草原ウサギを探しましょう。サカグチさんの世界にもウサギっているんですか?」
「あ、うん、いました」
門番から十分離れたタイミングで、エウィンはデリケートな話題を振る。異世界に関する質問など、他者に聞かれて良いはずもない。
「こっちにも動物のウサギはいますが、草原ウサギは魔物なので完全に別種なんです。見た目はけっこう似通っていますが違うところもあって、例えば鼻が出っ張ってたり、体も一回り以上は大きいです。それと、草原ウサギは前脚を移動に使わないので、なぜか動物のウサギよりもどんくさいです」
ゆえに、襲われたとしても逃げ切れる可能性はゼロではない。
魔物でありながら、動物に劣る存在。草原ウサギが最弱の魔物と言われている所以だ。
「ただ、後ろ脚で蹴られるとかなりやばいので、サカグチさんは近づかないで下さい」
「うん……。ウサギってかなりすばしっこいと思うけど、大丈夫、なの?」
「実はけっこう命がけです。僕、かれこれ十年以上は草原ウサギを狩り続けていますが、なぜか全然強くなれなくて……。ハハ、情けないですよね。普通ならある程度数をこなしたら、より強い魔物を倒せるようになるはずなのに……」
この世界の理の一つに、魔物討伐と身体能力の因果関係が挙げられる。
腕立て伏せや持久走のようなトレーニングで肉体を鍛えても良いのだが、最も効率的な手段が魔物の殺害だ。ただ倒すだけで筋力やスタミナが向上するのだから、地球では再現不可能な現象だ。
ただし、この恩恵を得るには一つだけ条件が存在する。
それは、格下の魔物を狩っても意味がないということだ。
強い人間は強い魔物を狩らなければならない。
ゆえに、腕の立つ傭兵がいくら草原ウサギを狩ろうとも、小銭稼ぎにしかならない。
なぜ、魔物を倒すだけで強くなれるのか? その仕組みまでは解明されておらず、されど事実そうなのだから傭兵達は金を稼ぐためにも、強くなるためにも、日々、魔物討伐に励む。
「倒すだけで、足が速くなったり、するの?」
「はい。筋トレとかよりも効果てきめんですよ。傭兵は魔物討伐に専念する人が多くて、軍人さんは並行してジョギングとか素振りとか模擬戦も欠かさないって感じです。僕はその中間くらいのやり方で鍛錬に励んでいるのですが、何やってもダメみたいで……。才能がないのかもしれません」
落ち込む少年を横目に、アゲハは違和感を覚える。
まるで、ゲームみたいだ。第一印象はまさにこれだろう。
彼女自身はゲームの類に興味がなかったため、知識しか持ち合わせてはいないのだが、モンスターを倒して経験値を稼ぎ、レベルを上げるという基本的なギミックについては把握しており、エウィンの説明にこの知識を重ねてしまう。
もっとも、ここがゲームの中だとは思えない。
体にぶつかる、心地の良い風。
ほんのりと甘い、草の香り。
空から降り注ぐ、暖かな陽射し。
そのどれもが本物だ。科学が進もうと、それらをここまで精密に再現出来るとは思えない。
踏みしめている大地にも実感があり、なにより、隣の男の子は紛れもなく実体を伴った人間だ。
ウルフィエナとは、ゲームに似通った異世界なのだろう。アゲハは静かに、そう結論付ける。
「サカグチさんの世界には魔物がいないようですが、どうやって体を鍛えるんですか?」
「あ、トレーニングとか義体化とか、かな」
(またわからない単語が飛び出したけど、筋トレの類なんだろ)
この地は和やかな野原なのだが、それ以外には何の取り柄もないことから、人間と出会う確率は非常に低い。
南の村から訪れる行商人や、狩りを終えた傭兵しか通らないのだから、未開拓は必然だ。
それでも、南東へ伸びる道だけは存在している。長い年月をかけて踏みしめられた地面が、茶色の帯で最短ルートを示してくれている。
二人は初めこそ道なりに歩いていたのだが、エウィンが指さしたタイミングで雑草の中へ足を踏み入れる。
この遠出はピクニックではない。
魔物を狩って金を稼ぐための遠征だ。
傭兵だけに可能な仕事であり、エウィンもまた、命知らずな一人と言えよう。
悠々と歩く少年とは対照的に、アゲハは不安を感じてしまっている。同行したいと自ら言い出したものの、魔物という存在がどれほどの脅威なのかわからないため、問いかけるならこのタイミングしかない。
「魔物って、どれくらい怖いの? あ、その、手ごわいのかなって……」
「草原ウサギでしたら、そうですね……、喧嘩慣れしてる大人だったら、武器さえあれば一人でも何とかなるかもしれません。ただ、あの動きに対応出来ればの話ですが……。もっとやばい魔物もいっぱいいて、例えば巨人族だと傭兵でさえ手も足も出なかったりします。拳銃ですら通用しませんからね」
少年は淡々と説明するも、アゲハはその単語に驚きを隠せない。長い髪を握りながら、慌てて聞き返す。
「拳銃って、こっちの世界にも、あるの?」
「ありますよ。僕が生まれる少し前に発明されて、今では商人とか、そういうお金持ちが所持しています。護身用と言うか、草原ウサギなら殺せますからね。サカグチさんの世界にもあるなんて奇遇ですね。魔物がいないのに何でだろう? あぁ、人間相手に撃つことがあるのか……、僕だったら成す術ないな」
魔物がいない世界において、凶器の使い道は二つに限られる。
野生動物の排除か、人間同士の殺し合いだ。そういう意味では、少年の推理は的外れではない。
この世界においても、殺人事件は時折発生する。
しかし、国同士の争いとなると話は別だ。魔物という共通の敵が存在することから、人間同士で殺し合えるほどの余裕など生まれはしない。
そういう意味では、平和なのだろうか? 残念ながら転生者のアゲハにも、そこまではわからない。
「あ、あの、エウィンさんは、魔物とどう戦うんですか?」
興味と懐疑心から生じた疑問だ。
無知であろうと、銃無しでの狩りは危険だと想像が出来た。
しかし、隣を歩く少年は貧困にあえいでおり、拳銃を所持しているとも思えない。
「僕は昔から、短剣一本で頑張ってきました。普通なら戦技や魔法を習得してるはずですが、それすらも身についてないので、己の肉体とこの相棒だけが頼りなんです。まぁ、数か月に一回くらいは死にかけますけど、王国まで逃げれば門番さんが回復魔法で手当してくれるので何とかなってます。そういえば、サカグチさんって何か使えるんですか?」
戦技と魔法。念じるだけで、もしくは詠唱という過程をえて、現象を引き起こす神秘だ。
足を速くする戦技。
火の玉を発射する魔法。
その種類は多岐にわたり、習得者はそれらを使いこなすことで戦闘を有利に運べる。
残念ながら、エウィンは何一つとして得られていない。
そのタイミングには個人差があるのだが、肉体の向上に伴って順番に覚えることが可能だ。
にも関わらず、この少年が未だ未習得な理由は、その手前で成長が止まっているからだろう。
悲運にも才能がなかった。
限界という壁にぶつかってしまった。
本来ならば、この事実を自覚したタイミングで傭兵という稼業からは足を洗うべきだろう。今以上の成長が見込めないということは、収入の向上も不可能だ。
この少年は、草原ウサギしか倒せない。
草原ウサギだけでは、十分な稼ぎが得られない。
その金額は一体につき、たったの二百イール。
イールとはこの大陸で使われている通貨単位であり、イダンリネア王国だけでなく南方の村でも利用可能だ。
他の大陸では異なる貨幣が使われているのだが、交流は限定的なため、両替用の施設は王国に存在していない。
二百イールの価値は、残念ながら高くはない。ギルド会館で売られているおにぎり一個の価格が、百イール前後だ。二個買えるとも表現出来るが、死闘の末の報酬としては低すぎる。
エウィンの場合、一日で五体前後は狩れるのだが、日給換算でたったの千イールにしかならない。
先ほどの朝食だけで千イールを越えてしまったのだから、エウィンの収入では定期的な外食などおおよそ不可能だ。
一般的な仕事なら、一日の稼ぎはおおよそ一万イールに届く。月給ならば、二十万から三十万イールと言ったところか。
エウィンは毎日休みなく魔物を狩ったとしても、せいぜい数万前後にしかならない。この金額を稼ぐために命を天秤にかけているのだから、傭兵は割に合わない仕事だ。
「わたしはただの日本人だから、魔法とかは使えない、と思う。あ、だけど神様が、何か言ってたような……」
アゲハは焼け死んだ直後、ここではないどこかで女の声に包まれた。
その声に導かれ、この世界に転生を果たしたのだが、それだけではなかったとぼんやりと思い出す。
「確か、鏡裏の炎で身を守れ、みたいなことを……」
「キョウリのホノオ? 意味はわかりませんが、火の魔法が使えるのかもしれませんね。だとしたら心強いです」
「ど、どうすればいいのかな?」
期待の眼差しを向けられたことで、アゲハが立ち止まってしまう。重圧を感じてしまい、委縮してしまった結果だ。
そうとも知らず、エウィンは意気揚々と提案するのだが、この世界はそこまで甘くない。
「無意識にイメージは掴めてるはずなので、とりあえず念じてみるといいかもしれません」
「やってみるね……」
祈るように。
力むように。
彼女は炎の発現を願うも、草原を撫でた風が黒髪を揺らすだけでそれ以上の変化は訪れない。
正しい手順を踏む必要があるのか。
もしくは、何も与えられていなかったのか。
どちらにせよ、この行為は実らなかった。
「うぅ、無理みたい……」
「コツがあるのかも? 焦る必要もありませんし、ゆっくりいきましょう。なーにも使えない僕が言っても、説得力ありませんけどね」
今回の獲物は草原ウサギだ。エウィン一人で何とかなるのだから、アゲハは遠足気分で同行すればよい。
少年は牽引するように歩き出すも、彼女はふと思い出す。
「神様って、二人いるの、かな?」
珍妙な発言が、エウィンの足を再度止める。
反論も賛同も難しい。それでも、少年は振り返って己の考えを述べる。
「伝承やおとぎ話では、女神がこの世界を作ったって言われてます。だけど、一人で作るのも大変でしょうし、女神が実は二人組でしたって考え方は理に適ってるような気もします」
「ううん、もう一人の神様は、多分、男の人。男の……神様」
なぜ、そう思うのか? その理由はシンプルだ。
揺らいだ空間で意識が遠のく刹那、つまりは地球とウルフィエナの狭間で、もう一つの声を聞いた。
ワタシからも贈ろう。恩義に報いるキミの、その優しさに。
声質は男のものだった。
若かったのか、年老いていたのか、それすらもわからない、不思議な音色だ。
それでも思い出せる。
力強くも暖かい、男の声だった、と。
今の今まで忘れていたことが不思議だが、記憶が蘇ったのだから追求しない。アゲハは乱れた黒髪を抑えながら、眼前の少年だけを見つめる。
大きな瞳を一瞬だけ見つめ返し、視線を落とした理由は照れてしまったからか。傭兵は緑色の髪をポリポリとかきながら、持論を展開する。
「神様が二人いて、男女のペアだった……と。僕達にとっては、お父さんとお母さんってことなのかもしれませんね。少なくとも、サカグチさんのことはきっと見守ってくれてると思いますよ」
そしてエウィンは歩き出すも、その顔が作り笑顔であることを彼女は見抜けなかった。
(僕は卑怯者で、弱者で、情けない人間だから、守られる価値なんてない……)
自虐的な思考に蝕まれるも、今日に始まったわけではない。
その全てが事実を言い当てているのだから、俯きながらも雑草を踏みしめて歩き続ける。
「さぁ、どんどん進みましょう。久しぶりにお腹いっぱい食べたから、ウサギ狩りも捗りそうです」
エウィンの足取りは軽快だ。空元気でしかないのだが、そうであろうと足は動かさなければならない。魔物が見当たらない以上、立ち話は時間の無駄だ。
どこまでも続く、緑色の草原。
吸い込まれそうな、青い空。
この時の二人は知る由もない。
その先に待つ、小さな絶望を。
そして、知ることとなる。
この世界の根底が、弱肉強食ということを。
強者と弱者。
勝者と敗者。
人間がどちらに当てはまるのか、否が応でも知ることとなる。
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